第108話 絶望の中に降る光
サリアの声は、張り裂けそうな静けさを破った。
「……周りの状況が見えていないのかしら。この状況で、何を言っているの」
鋭く、冷静だが、怒りを孕んだ声音だった。
視線の先にいるのは、鎖を操り、なおも余裕の笑みを浮かべるチェイナード。
瓦礫と血の匂いが充満する広間の中心で、彼だけが、この戦場から切り離された存在のように立っていた。
「……すでに残っているのは、お前とメルクアだけよ」
その言葉は、事実だった。
俺も、リヴも、シュウも、サリア、ツムギも、まだ立っている。
息は荒く、身体は重く、魔力は底を突きかけているが、それでも剣は握れている。
少なくとも、戦える。
だが――チェイナードは、眉一つ動かさなかった。
「……ならば」
淡々と、ただの次の手順を告げるように。
「こうするまでです」
その視線が、ゆっくりと、鎖に縛られたメルクアへと向けられる。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
「メルクア様」
その呼びかけは、甘く、柔らかい。
戦場には不釣り合いな、恋人に囁くような声音だった。
「このままでは、あなたの愛の国が滅びてしまいます」
鎖が、ぎしりと鳴る。金属音が、やけに大きく響いた。
「あなたが築き、守り、愛した国です」
チェイナードは、ゆっくりと言葉を重ねる。
「それを救えるのは、あなたしかいない。……その愛の力を」
彼は、微笑んだまま、告げた。
「われらに、お与えください」
瞬間、メルクアの身体が大きく震えた。
「……い、や……」
かすれていたが、それは確かに拒絶の声だった。
まだ、彼女自身の意思が、そこにあった。
だが、鎖が、さらに締まる。
腕を縛り、肩を押さえ、胸を締め付け、そして喉元へ。
それは肉体だけではなく、思考を、記憶を、選択肢を、締め上げる動きだった。
「メルクア様」
チェイナードの声が、耳元で囁くように低くなる。
「あなたは、愛を与える存在でしょう」
優しい言葉だが、その中に拒否は許されていない。
「迷う必要はありません。考える必要も、苦しむ必要もありません。あなたは、ただ――愛を与えるだけでいいのです」
メルクアの瞳が、大きく揺れた。
恐怖と、混乱は、長い年月をかけて刷り込まれた偽りの愛によって抑え込まれる。
俺は叫ぼうとしたが、その前に、メルクアの身体から、魔力が溢れ出した。
濁流のように、止めどなく。
空気が、変わる。
床に伏していたアルドレインの身体が、びくりと跳ねた。
続いて、ルナリオの巨体が、低い唸り声を上げながら動き出す。
まるで、死から引き戻されるように。
「……くそっ」
シュウが、歯を食いしばる。
「このままでは……また、負けてしまいますよ」
チェイナードが、囁いた。
あくまで、優しく、彼女の耳にだけ、届くように。
メルクアの唇が、わずかに動いた。
「……それは……」
言葉が、震える。
「……いや……」
その一言に、胸が締め付けられる。
そして、魔力が爆発した。
アルドレインの全身に、樹木が絡みついていく。
先ほどとは比べ物にならない量。
太く、硬く、幾重にも重なり、やがて大地そのものを纏うかのように巨大化し、人の形をした、樹木の巨兵となる。
ルナリオの頭部が、異様に膨れ上がった。肉が裂け、骨が軋み、血が飛び散る。
そして――もう一つの頭が、生えた。
二つの口が、同時に咆哮を上げる。
二つ首の魔狼。
その異形を前に、息が詰まった。
魔力に満ちた唸りが、広間を震わせる。
「来るぞ!」
俺は叫ぶと、みんなが構える。
アルドレインの巨大な拳が振り下ろされ、床が砕け散る。
衝撃波が走り、身体が宙に浮いた。
必死に着地し、剣を構えるが、腕が重い。視界が揺れる。
そこへルナリオが突進してくる。
避けきれない。
その時、シュウが割り込み、居合を放つ。
しかし刃は片方の頭に止められ、次の瞬間、もう片方から放たれた火炎弾が直撃した。
「がはっ……」
「シュウ!」
吹き飛ばされたシュウを、ツムギが残った片方の腕から伸ばした糸で必死に受け止める。
追撃しようとする二つ首のルナリオを、リヴが抑え込む。
リヴは、獣の懐へと踏み込み、二つの頭が生む死角を潰すように張り付いた。
右の牙を弾き、左の爪を受け流す。
だが、リヴの動きは確実に鈍っている。
血が、床に落ちる音が聞こえた。
それでもリヴは退かない。
一方で、サリアの槍が唸りを上げてアルドレインへと突き込まれる。
狙いは正確。魔力も十分に乗っている。
だが――槍先は、樹木の装甲に阻まれ、浅い傷しか残らない。それすら、瞬く間に再生する。
まるで、傷つくこと自体が無意味だと嘲笑うかのように。
「……ちっ」
サリアが舌打ちする。額には汗が滲み、呼吸も荒い。
二人とも、限界が近い。
今、この膠着を破れるのは――
俺しかいない。
そう悟った瞬間、身体が動いていた。
二人が必死に抑え込んでいる、その隙を縫うように、俺は駆け出す。
狙いは、ただ一つ。
メルクアを縛り、意志を奪い、ネクロマンシーを強制している、あの呪縛の鎖。
シグレの気配が、俺に応える。
呼吸と剣が、自然に重なり刃に、静かな熱が宿った。
今しかない。今、断たなければ、すべてが終わる。
メルクアへと距離を詰めた、その瞬間だった。
チェイナードが、一歩、前に出た。
まるで、最初から俺の動きを読んでいたかのように、俺の進路を塞ぐ。
「……無駄ですよ」
静かな声。そこには焦りも怒りもない。
視線の先で、チェイナードからメルクアへと伸びる鎖が、妖しく光を放っているのが見えた。
あれだ。あれを、断つ。
俺は、意識を一点に集中させる。
鎖の流れ。魔力の循環。呪縛の核。
見極めた。
踏み込み、全身の力を刃に乗せる。
「霽光」
斬撃が、鎖に向かって一直線に走った。
だが――
甲高い金属音が、広間に響き渡る。
刃は、弾かれた。
鎖は、断ち切れない。
メルクアの魔力によって強化された呪縛の鎖は、わずかに揺れただけで、なおも彼女を縛り続けていた。
「……っ!」
歯を食いしばる。
今の状態では、通じない。
それが、はっきりと分かった。
次の瞬間、チェイナードの腕に、鎖が巻き付く。
「あなたの狙いは、正しい」
淡々とした声が、耳に届く。
「ですが――私たちの愛には敵わない」
鎖に覆われた拳が、振り抜かれる。
重い衝撃。
内臓が揺さぶられ、視界が白く弾けた。
世界が、反転する。
身体が宙を舞い、次の瞬間、壁に叩きつけられた。
鈍い音。
息が、一気に吐き出される。
床に転がりながら、必死に呼吸を取り戻そうとする。
だが、肺がうまく動かない。
痛みよりも先に、悔しさが込み上げた。
まだ、届かない。
力も、覚悟も、すべてが――足りない。
誰もが、限界だった。
息が、続かない。
このままでは――
その時だった。
「クロムさま! 壁を壊して!」
後方から、リリラの叫び声。
「……なぜだ!?」
俺は振り返る。
「いいから、早く!」
切迫した声。理由を聞いている余裕はなさそうだ。
俺は、残った力と、シグレの力を借り、城壁へと居合を放った。
斬撃が走り、石と瓦礫が崩れ落ち、外の空が、裂けるように現れた。
「……何をしているのですか」
チェイナードが、怪訝そうに眉をひそめた。
リリラが、にやりと笑う。
「援軍だよ」
次の瞬間、空から、光が降り注いだ。
柔らかく、温かく、勇気をくれる光。
「遅くなって、ごめん」
その声に、全員が空を仰ぐ。
舞い降りてきたのは、一人の女性。
白き翼を背に持ち、穏やかながら揺るがぬ意志を宿した瞳。
オルタリアの聖女候補――セラ。
彼女は、戦場を見渡し、静かに告げた。
「ヒーローは遅れてやってくるってね」




