第105話 鎖を断つ翼 ☆リヴ視点
鎖の音が、嫌になるほどよく響きます。
金属が擦れ合い、床を引きずり、空気を裂くその音は、耳ではなく、直接胸の奥を引っかくように届いてきます。
それはただの音ではない。
かつて私を縛り、意志を奪い、思考すら操った――忌まわしい記憶そのものです。
反射的に、指先がわずかに震えましたが、視線だけは逸らさない。
目の前に立つのは、チェイナード。
鎖を自在に操るその男は、歪んだ笑みを浮かべながら、まるで舞台役者のように両手を広げて私を迎え撃っています。
「前回囚われたというのに……また、あなた一人ですか」
声は柔らかい。
だからこそ、底に沈んだ嘲笑がはっきりと分かる。
その背後で、鎖が生き物のように蠢いた。
床を這い、壁を伝い、天井から垂れ下がり、いつの間にかこの広間全体が、巨大な檻へと変わっていく。
逃げ場はない。そう、突きつけるように。
恐怖が、胸の奥で小さく揺れた。
あの時と同じだ。
囲まれ、逃げ道を失い、力の差を突きつけられた、あの瞬間。
――いいえ。
私は、ゆっくりと息を吸う。
その感情は、もう私を縛るものではない。
「……ええ。私一人で十分です」
はっきりと、そう答えた。
声に、迷いはなかった。
視線を逸らさず、拳を握り締める。
掌に、爪が食い込む感触がはっきりと分かる。
「ですが」
一歩も退かず、言葉を続ける。
「もう、囚われたりはしません」
その瞬間、チェイナードの指が、わずかに動くと、床を叩き割るような勢いで、鎖が一斉に跳ね上がる。
鋭く、速く、迷いなく。
私の喉元、足元、背後――逃げ道を塞ぐように、複数の鎖が同時に襲いかかってくる。
私は一歩、前へ踏み出した。
恐怖に打ち勝つように、迎え撃つために。
拳に魔力を込め、最初の一本を叩き落とす。
金属同士がぶつかるような鈍い音が響き、鎖が弾かれて軌道を逸らされた。
続けて、二本、三本。
叩く。弾く。払い落とす。
だが、止まらない。
鎖は、意思を持つかのように、先端を刃へと変質させて再び迫ってくる。
「ほう……」
チェイナードが、楽しそうに目を細めた。
「前よりは、多少マシになったようですね」
その声に、称賛はない。
あるのは、あくまで玩具の出来栄えを確かめるような目だ。
刃と化した鎖が、横薙ぎに迫る。
私は身を沈め、床を蹴り、紙一重でかわす。頬をかすめる風圧が、皮膚を焼いた。
反転し、そのまま拳を叩き込もうとした――その瞬間。
地面が、動いた。
嫌な予感が、背筋を走る。
次の瞬間、床から無数の鎖が噴き出した。
足首、腰、腕、胴。
私に絡みつき、締め上げ、動きを封じてくる。
「――っ!」
体勢が崩れ、膝をつきそうになる。
歯を食いしばり、必死に耐えるが、拘束は容赦なく力を増していく。
「また同じ事に」
チェイナードが、ため息交じりに言った。
「何も学びませんねぇ」
その言葉と同時に、彼の両手からも鎖が伸びる。
地面の鎖と連動し、私の身体を完全に拘束した。
締め付けが強まり、肺が圧迫される。
呼吸が浅くなり、視界の端が、わずかに暗くなる。
――違う。
前と、同じじゃない。
「あの時とは……違います」
掠れそうになる声を、意志で繋ぎ止める。
胸の奥に、意識を向けた。
そこにあるのは、私一人の力ではない。
クロム様と、何度も何度も繋がった感覚。
魂が触れ合い、響き合い、限界を越えていった記憶。
私は、今一人で立っている。
でも、独りじゃない。
魔力を、一点に集中する。
背中が、じんわりと熱を帯びる。
戦う前にクロム様から込められた魔力が、まるで背中を支える手のように温かい。
かつては、魂共鳴の中でしか引き出せなかった力。
だが今は――背中から、黒い翼が顕現した。
魔力で編まれた、漆黒の翼。
広がろうとすると同時に、空気が震える。
鎖が軋み、悲鳴を上げた。
「な……っ!?」
チェイナードの表情が、初めて大きく歪む。
私は翼を大きく広げ、魔力を爆発させた。
拘束していた鎖が、音を立てて弾け飛び、千切れていく。
私は、自由になった。
床を蹴り、宙へ舞い上がる。
そのまま、チェイナードと繋がっている鎖を掴んだ。
抵抗するのが、はっきりと伝わる。
だが、構わない。
翼を羽ばたかせ、一気に引き寄せる。
鎖ごと、チェイナードを。
「ぐっ……!」
体勢を崩し近づいてきた、その瞬間。
私は、拳を振り抜いた。
魔力を乗せた、全力の一撃。
鈍い衝撃音が響き、チェイナードの身体が宙を舞う。
吹き飛ばされ、メルクアの玉座の方へと叩きつけられた。
石床に転がり、鎖が無秩序に散らばった。
荒い息を吐きながら、私は地に降り立つ。
翼は、役目を終えたかのように、ゆっくりと霧散していった。
視線を上げた時だった。
「リヴ!」
聞き慣れた声。
振り向けば、戦いを終えたクロム様が駆け寄ってくる。
その隣には、サリア様。さらに、シュウと、右肩を押さえながら走るツムギの姿もあった。
私は、はっとして周囲を見る。
アルドレインは、地面に伏して動かない。
ルナリオも、すでに倒れていた。
戦場の空気が、確かに変わっていた。
これで――ようやく、形勢は逆転した。
クロム様が、私の無事を確かめるように目を向ける。
その眼差しに、私は小さく頷いた。
もう、大丈夫です。
私は、囚われていません。
胸の奥に、静かな誇りが灯る。
この戦いは、まだ終わらない。
でも――もう、負ける気はしなかった。




