第104話 雨を断ち、晴れを刻む ☆シュウ視点
目の前に立つそれは、魔狼の姿をしていた。
漆黒の毛並みは月光を拒むように光を吸い込み、その内側を流れる魔力は、濁流のように脈動している。ただの魔物ではない。
知性があり、こちらの実力を値踏みしている。
青い双眸が、細められたその瞬間、空気が裂けた。
消えた。
そう錯覚するほどの速度だった。
視界が追いつくより先に、殺意だけが喉元へと突き刺さる。
牙が襲い掛かる。
反射的に晴天を振り上げる。
刃と牙が噛み合い、火花が弾けた。
腕に走る衝撃。骨に響く重さ。
速い。ただ速いだけじゃない。
踏み込みに迷いがなく、攻撃に躊躇がない。
「ちっ……!」
距離を取ろうと跳ぶが、着地する前に影が追ってくる。
その影に向け、横薙ぎの一閃。
今度こそ捉えた――そう思った刹那、ルナリオは空を蹴り、体を捻り、刃の外へと滑り出た。
かすりもしない。
まるで、こちらの動きなどお見通しのようだ。
「ツムギ!」
「分かってる!」
背後から放たれた糸が、月光を裂いて空間を縫う。
幾重にも張り巡らされた糸の網。逃げ場はない。
――はずだった。
ルナリオは、わずかな隙間を嗅ぎ分けるように体を沈め、回転し、糸と糸の間をすり抜けていく。
一本も、触れない。
糸が、追いつかない。
「そんな……」
ツムギの息が乱れるのが分かった。
俺は踏み込む。
真正面から、力任せにでもいい。捉えなければ意味がない。
刃を振り抜くが、またしても空を斬った。
視界の端で、黒い尾が揺れた。
――まずい。
背筋を冷たいものが走る。
間に合わない。
衝撃が腹を打った。尾の一振り。
だがそれだけで、肺の空気が一気に吐き出され、俺は石床を転がった。
視界が揺れる。
立て。立て。
歯を食いしばり、膝をつく。
強い。
速さだけじゃなく、こちらの動きを、完全に読んでいる。
踏み込みの間合い。刃の軌道。呼吸の瞬間。
すべてを把握した上で、かわしている。
脳裏に、ひとつの名が浮かんだ。
「……シグレだったら……」
零れた声は、驚くほど弱かった。
自分でも分かる。
それは、逃げだと。
「しっかりしなさい!」
鋭い声が、空気を裂く。
ツムギが、額に汗を浮かべ、両手を広げ、さらに糸を展開している。
「あなたは、あの人の子孫なんでしょ!」
その一言が、胸を打った。
子孫。
そうだ。俺は、あの背中を追ってここまで来た。
だが――追うだけでいいのか。
シグレは強かった。誰よりも、誰よりも。
でも、その影に隠れ続ける限り、俺は俺になれない。
俺は、俺の刃で立つ。
ルナリオが低く唸り、再び姿を消す。
「私が、なんとしても動きを止めてあげる!」
ツムギの声に、迷いはなかった。
「あとは、頼むわ!」
次の瞬間、彼女の周囲から糸が爆発的に広がる。
床、壁、天井――すべてが彼女を支点に、空間そのものを縛り上げる結界となる。
ルナリオが跳び、糸が絡みつく。
――だが、食い破られる。
牙が閃き、糸が弾け飛ぶ。
それでも、ツムギは止めない。
魔力を注ぎ込み、指先から血が滲んでも、糸を紡ぎ続ける。
ルナリオが、進路を変えた。
狙いは――ツムギ。
「危ない!」
体が、動きかける。
だが、その瞬間、ツムギと目が合った。
強い意志。揺るがない覚悟。
目が信じろ、と言っている。
俺は、踏みとどまった。
晴天を構え、呼吸を落とす。
世界の音が、遠のいていく。
ルナリオが、糸をかいくぐり、ツムギへと迫る。
牙が迫り――赤が舞った。
ツムギの右腕が、噛みちぎられる。
骨の砕ける音。肉が裂ける音。
それでも、彼女は悲鳴を上げなかった。
顔をしかめながら、にやりと笑う。
「捕まえた」
噛みちぎられた右腕が、ルナリオの口内で光る。
そこから溢れ出す糸が、体内から絡みつき、内側から締め上げる。
同時に、残された左手から放たれる、全魔力を込めた糸。
外と内からの、拘束。
ルナリオが、初めて焦ったかのような、咆哮を上げた。
暴れ、糸を引き裂く為、一瞬、止まる。
それで、十分だった。
「ありがとう」
声に出したかどうかは分からない。
ただ、心からそう思った。
視界が、澄み渡る。
ルナリオの体内を巡る魔力が、点として見えた。
どこが、最も強いのか。どこが、核なのか。
――見えた。
晴天を、強く握る。
柄に伝わる重みと存在感が、迷いを削ぎ落としていく。
踏み込んだ瞬間、床が悲鳴を上げて砕けた。
反動が足元から全身へと伝わり、視界が一気に研ぎ澄まされる。
世界が、遅れる。
魔狼の動きが、水の中を進むかのように鈍く見えた。
狙うのは、ただ一点。魔力が最も濃く集束する、その中心。
身体を低く沈め、全身の力を一直線に解き放つ。
突き。
刃は迷いなく吸い込まれ、次の瞬間、そのまま流れるように軌道を変え、下から上へと切り上げる。
「霽ノ一刃」
雨を断ち、晴れを刻む一閃。
魔力の核が、断ち切られた。
ルナリオの瞳から、光が消え、巨体が、音を立てて崩れ落ちた。
静寂。
俺は、膝をついた。
――終わった。
すぐに立ち上がり、ツムギの元へ駆ける。
「大丈夫か!」
「……見ての通りよ」
蒼白な顔で、それでも笑う。
左手で肩口を押さえ、糸で傷口を縫い、血を止めていた。
「あなた……あの人を、超えたわね」
その言葉に、胸が熱くなる。
「まだまだだ」
自然と、視線が向いた。
クロムの方、あちらも、戦いを終えたらしい。
その奥に――一瞬、見えた気がした。
雨上がりの空のような、穏やかな笑顔。
シグレ。
何も言わないが、晴れやかな顔で、頷いた気がした。
胸の奥に、静かな光が灯る。
もう、背中を追うだけじゃない。
自分の足で、ここに立っている。
俺の心の空は、確かに――晴れていた。




