第99話 それでも、呼び続ける
黒い翼を広げたリヴが、ゆっくりとこちらを向いた。
何度も見てきたその顔。
眠っている時。書類に目を通している時。俺を見て、微笑んだ時。
だが――今は違う。
その瞳には、俺が知っている色がない。
光も、迷いも、感情も。
すべて削ぎ落とされたような虚無だけが、そこにあった。
空間が、軋む。
空気が重い。
呼吸をするたび、肺の奥に粘つく違和感が絡みつく。
ネクロスの城全体が、何かを拒むように歪んでいる。
嫌な感触だ。
この場所そのものが、彼女を縛る檻になっている。
「……リヴ……」
名を呼んだ瞬間だった。
彼女の足が床を蹴る。
黒翼が唸りを上げ、同時に魔力が爆ぜた。
速い。
「っ……!」
反射的に喰闇を振るう。
衝撃が、腕へ叩きつけられた。
弾いたはずの一撃が、骨の奥まで響く。
痺れが、指先を駆け上がった。
リヴの拳は、速く、正確で、容赦がない。
無駄がなく、殺すためだけに研ぎ澄まされている。
それなのに――どこか空虚だった。
殺意が、ない。怒りも、憎しみも、焦燥もない。
あるのは、ただ命令を遂行するための動作だけ。
魂が、どこか遠くに置き去りにされている。
「リヴ、やめろ!」
声を張り上げながら、後退する。
だが、距離は一瞬で詰められた。
黒翼が空を裂き、視界が反転する。
拳が唸りを上げる。
剣で受け止めるたび、腕に衝撃が走る。
一撃一撃が重い。
防ぐだけで、体力を削られていく。
リヴは強い。間違いなく、今の俺よりも。
それでも――退けない。
踏み込み、受け流し、かわす。
サリアとの訓練で叩き込まれた間合い。
シグレとの訓練で刻み込まれた反応速度。
全部が、今この瞬間に繋がっている。
だが、追いつけない。
何度弾いても、何度かわしても、彼女は止まらない。
「クロム!!」
背後から、サリアの声が飛んだ。
焦りと恐怖が、はっきりと滲んでいる。
「このままじゃ――!」
その続きを、彼女は言わなかった。
言えなかった。
分かっている。
このまま戦い続ければ、どちらかが死ぬ。
リヴを止めるには、殺すしかない。
王としては、それが最善だ。
――だが。
ハードンの最期が、脳裏をよぎる。
生ききった、と言った声。
すべてを背負い、受け入れた者の、静かな覚悟。
あの死を、無駄にしないためにも。
だからこそ。
「……まだだ」
俺は、剣を構え直す。
「まだ、呼び続ける」
サリアが息を呑む気配がした。
愚かだと、分かっているはずだ。
王としては、完全に間違った判断だ。
それでも――失えない。
俺は、これ以上、失わせない。
「リヴ。俺だ。クロムだ」
拳を受け止めながら、声を絞り出す。
衝撃で、腕が悲鳴を上げる。
反応は、ない。
それでも、呼ぶ。
「お前が俺に言った言葉、覚えてるか!」
踏み込みながら叫ぶ。
喰闇を振り抜き、間合いを削る。
「国のためじゃない! 俺のために、泣いた日のことを!」
拳が、頬を掠める。
皮膚が裂け、血が宙を舞う。
「死んでからも……それでも俺の傍にいるって言った日のことを!」
次の瞬間、リヴの動きが、わずかに乱れた。
ほんの一瞬、呼吸が、ずれた。
「笑っただろ。怒っただろ。迷っただろ」
拳が、振り下ろされる。
紙一重でかわし、地面を転がる。
「それを、俺は知ってる!」
息が切れる。
視界の端が、赤く滲む。
「俺が……一番好きなのは、今も変わらずリヴだ!」
叫ぶ。
喉が裂けるほどに。
「リヴがいない未来を、正しいなんて思えない!」
その瞬間――
『……やっと、届いた』
声が、胸の奥に響いた。
「……シグレ」
世界が、静止する。
音が遠ざかり、鼓動だけが鮮明になる。
意識が、深く、深く沈み込んでいく。
『闇に溺れかけたクロム殿の叫びが、今、再び届いた』
その声は、確かな温度を持っていた。
『今こそ、リヴ殿を救うとき』
胸の中心が、熱を帯びる。
「……魂回帰」
言葉と同時に、魔力が反転する。
外へ向かっていた力が、内へと収束する。
俺の魂に、シグレの輪郭が重なった。
視界が、変わる。
今まで見えなかったものが、はっきりと映る。
リヴの身体に絡みつく、鎖。黒く、重く、歪んだ魔力。
胸の奥へ、心の奥へと食い込み、彼女自身を縛りつけている。
『クロム殿、あれを断つ』
シグレの意志が、静かに重なる。
俺は、剣を納めた。
その所作に、リヴが反応する。
殺意だけが、条件反射のように動く。
一瞬の隙。
世界が、音を失った。
思考が、完全に重なり合う。
斬るべき瞬間が、同じ光景として浮かび上がる。
魂と魂が、同じ方向を見る。
『では――』
呼吸を、合わせる。
『――参る』
「――霽光」
一閃。
銀光が、闇を切り裂いた。
刃は、肉体を傷つけず、ただ――心を縛る鎖だけを断つ。
呪縛が、悲鳴のような音を立てて霧散した。
リヴの身体が、力を失い、前のめりに崩れる。
「リヴ!」
駆け寄り、抱き止める。
呼吸が、浅い。冷たい。
「……大丈夫だ」
震える手で、彼女の胸に触れ、ネクロマンシーの魔力を流す。
命を繋ぐための力。
しばらくして――
「……クロム、様……?」
微かな声。
瞳が、揺れ、焦点を結ぶ。
俺は、深く息を吐いた。
胸の奥に溜まっていたものが、一気に抜けていく。
「おかえり」
リヴは、しばらく天を仰ぎ――ゆっくりと、俺を見る。
「……また、無茶を……」
弱々しい微笑み。
それだけで、すべてが報われた気がした。
「ずっと一緒だって、言っただろ」
リヴの瞳が、潤む。
「……はい」
短い返事。だが、確かな温度。
リヴを取り戻せた。
失ったものは戻らない。
だが――これ以上、失わせない選択はできる。
それを、俺は選んだ。
王としてではなく、一人の人間として。
そして、隣にいる彼女の名を、もう一度、呼ぶ。
「リヴ」
今度は、確かに――届いていた。




