1:生還
意識の中で自分を探し始めた時、瞼の重さと冴えた空気を感じとった。
押し開けた瞼が映し出したのは、一変した闇だった。
無かったはずの肉体は主張して、揺蕩っていた光の空間はもう存在しなかった。
「なんなんだよ」
声が鼓膜に響く。
感覚が戻っていた。
手に当たる硬いものを握り締め、
ごつごつとした部分を指の腹でなぞると、思い浮かべる彫刻が脳裏に描かれた。
鞘。俺のサーベルだ。
冷気、土の匂い、見上げているのは夜空に浮かぶ月。
纏わりつく空気を吸い込めば、体内に息吹が満ちた。
――ここは?
ゆるゆると記憶の糸を手繰りよせたが、どこにいるのか見当がつかない。
夢で見ていた光景もまたゆっくりと記憶から消去されてゆく。
だが夢か現実かもわからなくなった。
似た光景が記憶の中にある。
でもそれは触れたくない記憶。思い起こせば息苦しくなる。
なのに、その記憶に侵食されてゆく。
ピアノの旋律が聞こえてくる。
田舎屋敷の庭を突き抜けて、家に帰ろうとしたあの闇。
夜のしじまをかきわけて、無鉄砲に駆け抜けた不安と切なさ。
豪奢な部屋でピアノを弾く母の手を覗き込む。
母は俺に振り返って柔和な笑みを浮かべて言った。
『シリウス、しっかりやるのよ』
ピアノの練習の事かと思って頷くと、侍女に力強く手を引っ張られ話を折られた。
見上げた侍女は俺を見ず、ただまっすぐと扉に向かって歩き出した。
成すがままだった。
そのまま王宮を後にして戻ることは許されなかった。
母の元へ、王宮へ帰りたいと泣き叫んでも、その声を拾ってくれるものはいなかった。
幼さは寂しさに勝ず、隔離された屋敷から抜け出した。
果てしない夜を走りつづけても、導かれた場所はどこにもなかった。
――どこにもなかった。
徒労感までもが蘇り、俺は月を睨んで大きく息をついた。
あの夜も今も、彷徨う俺を黙って見ている月が憎たらしい。
足に纏わりつく下草も鷲掴みして引きちぎり、記憶と一緒に投げ捨てた。
――こんなとこで何してんだ。
重い身体を引きずり起こして、あの日のように闇を疾走する。
天への導き、あれは夢だ。
嫌な思い出を蘇らせるのは現実。
俺は走った。
闇の彼方に視線を投じて現れる現実を探した。
――あれはなんだ?
前方に浮かぶ金色の小さな光。
集中してその光を追うことで、忌々しい記憶の粛清が始まった。
光りは、追う俺を弄ぶようにふっと消えた。
不意に覚えた違和感に立ち止まり、辺りを見まわした。
焦げた臭い。
うっすらと立ち上る煙。
そびえ立つ黒い柱。
「なんだここは……」
憶測を巡らせながら、歩きまわる。
足に当たった板につまづき、それを拾い上げた。
“ノルン国立記念病院”
拾い上げた板に刻まれていた文字を指でなぞる。
心臓が跳ね上がり、迷わず天を仰いだ。
夜闇に蒸す焦げた匂いの風が、俺の身体を撫でつけ去っていった。
恐怖と不快感が込み上げ、天に向かって断罪した。
「お前の仕業か!」
文明が発達した世のいかなる天才でも成し得ないことを、
やり遂げる人物がいる。
『戦場跡を焼き尽くす姿を見た』
『その灰をかければ、死体が生き返る』
『天の扉の番人。神の協力者にして人を誑かす悪女だ』
厭忌され、数多の噂が飛び交う者。
この国には魔女がいる。
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