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翌日は、朝から梅雨らしい雨だった。学校までの道には、雨の日特有の湿った土とアスファルトの匂いが漂っている。
教室に着くと、前方のドア近くにある自分の席へ腰を下ろした。カバンを机の上に置いて、ひと息つく。
最近、少し蒸し暑くなってきたせいか、登校するだけでも汗が滲むようになってきた。
まあ、俺が家をギリギリの時間に出るせいで、早足で登校しているせいかもしれないが。
教室内を見回すと、紫乃は今日も窓際の席から外を眺めていた。
眠そうな瞳で、じっと外を見ている。
ふと、俺はポケットからスマホを取り出し、紫乃に『おはよう』とメッセージを送ってみた。
考えてみると、おはようと言うのは初めてだ。
スマホが震えたのか、紫乃は窓から視線を外し、それを手に取った。
画面を見た瞬間、眠たげな瞳が僅かに見開かれる。それから、画面を隠すように操作し、
紫乃:『あきと、おはよう』
メッセージが返ってきた。「おはよう」、たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が妙にこそばゆくなった。
何か返そうか思案していると、
「おっす、秋斗」
聞き慣れた軽い声が飛んできた。
顔を上げると、桐山駿佑が自分の席からひらひらと手を振っていた。
「おう」
挨拶を返すと、駿佑は席を立って近づいてきた。俺の隣の席に腰を下ろすと、
「榊がスタジオ練に入る前に集まりたいってさ。今日か明日。さっき来た」
榊伊織は、俺たちのバンド『未明線』のボーカルだ。
それまでほとんど話したことはなかったが、二年になって突然、榊からバンドに誘われたのだ。
「今日か……」
昨夜、紫乃に今日も行くと言ったことを思い出した。
どっちのほうが大事とか、比べるつもりはないが、まあ先の約束のほうが優先だよな。
「今日は……ちょっと」
「お前、最近付き合い悪くないか?」
駿佑が机に肘をつき、怪訝な顔でじっとこちらを覗き込んでくる。
ここ最近、放課後はいつも視聴覚室に向かっている。
そのことを駿佑には言っていない。
秘密にすると決めたわけでもないが、誰にも言っていなかった。言いふらすようなことでもないし。
「そうか?」
駿佑は俺が手にしたままのスマホへ視線を落とし、片方の眉を上げた。
開いたままの画面には、紫乃とのトークルームが表示されている。この角度では見えないはずなのに、反射的にスマホを隠してしまう。
「もしかしてお前……彼女でもできたか?」
「まさか」
「怪しいな。見せろよ」
駿佑はニヤニヤと笑いながら、スマホを奪おうとしてきた。
なんとか逃れようとしてみるも、背後は教室の壁だ。逃げ場がない。
「と、というか、いつも思うけど、その話LINEでよくないか?」
話を逸らすと、駿佑は「逃げたな」と言いながら席に座り直した。
「俺は榊の顔が見られるから、直接でも逆にオッケー」
無駄に表情をキメて言った。
「イタい、ダサい、ウザい」
「ちなみに、俺はあわよくば榊と付き合いたいからバンドに入った」
「不純すぎて逆に真っ白だな」
駿佑はけらけらと笑う。
本人に聞かれたら、ボーカルマイクで殴られそうな発言だ。駿佑はいつも「彼女が欲しい」と嘆いている。
普通にしていればモテそうなのに。たぶん、こういうところがダメなんだろう。
「俺は成瀬さんより榊派ってやつだからな」
「……なんでそこで成瀬が出てくるんだよ」
その名前につられて、窓際へ視線を向ける。
こちらの会話は聞こえていないようで、紫乃はまた頬杖をつき、外を眺めていた。
「学校の美少女談議における二大巨頭。成瀬さんはトゲトゲって感じで、榊は——」
駿佑は少し考える素振りをして、
「——凛として時雨?」
なんでちょっと疑問形なんだ。
目をパチパチすんな。首傾げんな。
「絶妙に分かるのがムカつくな」
「だろ」
笑い合っているとそこへ、担任が教室に入ってきた。
化学担当の黒川理世先生。
いつも長い黒髪を一つにまとめて、スーツの上着の代わりに白衣を羽織っているのが特徴的だった。
黒川先生は教壇でノートPCを開きながら「はい、ハウスハウス」と席に着くように促す。
「じゃあ、明日な。伝えとくわ」
「ああ、頼んだ」
駿佑が立ち上がり、自分の席に戻っていく。
ホームルームが始まる直前。生徒が自分の席に戻っていく時間。その雑踏の中で——紫乃と目が合った。
昨日までなら、目が合いそうになった時点で逸らされていただろう。
けれど今日は、微かに俺を見つめてから、ゆっくりと窓の方へ戻っていった。
それだけの変化が少し嬉しかった。
教室の中でも、細い糸のようなものがつながっている気がして。
◇ ◇ ◇
今日も学校生活はいつも通りだった。
朝のホームルームが終わると、授業、休み時間、授業のループ。授業中にちらりと紫乃を見やると、板書を写していた。
昼休みになると、俺は恐る恐る弁当を開ける。良かった。今日も緑一色ではないみたいだ。
机を合わせた駿佑が俺の弁当箱を覗きながら、
「唐揚げと交換しない?」
卵焼きを一切れ、箸でつまみながら提案してきた。
「一対一?」
「もちろん」
「等価交換って知ってるか?」
「じゃあ、唐揚げ二個で」
「あ、そっち」
俺がツッコむと笑い声が起きる。
駿佑以外にも男子二人が机を寄せ、四人で昼飯を食べている。昼休みはだいたい、このあたりの面子だ。
「そういや明日、何時から?」
「放課後すぐ」
「まじか」
そうなると、視聴覚室には行けないかもしれないな。視線だけで教室を見回すと、紫乃の姿はなかった。
昼休みになると、いつも教室からいなくなる。
どこで昼を食べているのだろう。
そう思ってから、俺はまた紫乃のことを一つ知らないと気づいた。
今度、聞いてみよう。
◇ ◇ ◇
午後の授業を終え、清掃時間になる。今日の俺の担当は教室の窓拭きだった。
「はい、瀬戸くん。身長の有効活用」
クラスの女子がニコニコしながら、濡らした雑巾を差し出してくる。
俺は黙って雑巾を受け取り、窓の上側を拭く。両親が長身だったおかげか、俺も180を少し超えている。
高い場所の作業を押しつけられるのは、中学のころから慣れたものだ。
教室の隅では駿佑が箒をギター代わりに構え、ドラムソロの真似をして、数人の男子と笑い合っている。
「ドラムなのにギター持つなよ」
「細かいこと気にする男はロックじゃねぇ」
「お前、それしか言わねぇーじゃん」
まず掃除しろ、と思いつつ、そんな会話を背景にしながら窓を拭いた。
放課後、紫乃の席へ目を向けると、すでにそこに姿はなかった。昨日のメッセージが頭に浮かんで。
『明日も、私に会いにくる?』
『まってる』
俺はカバンを手に取り、足早に教室を出る。
昇降口へ向かう生徒たちの流れに逆らい、渡り廊下へ向かった。渡り廊下を抜け、旧校舎へ入る。
窓の外では朝から変わらず雨が降っていて、窓を叩く雨音が響くのも変わらない。
今日一日、駿佑と話して、クラスメイトと昼を食べ、授業を受けて、掃除をした。
いつもと変わらない学校生活だった。
それなのに、この廊下を歩いているときだけは目的地が教室ではなく紫乃そのものになったような気がして、どこか違う感じがした。
三階へ上がり、廊下の奥まで歩く。
視聴覚室の前に着いたところで、扉に手をかけた。
薄暗い部屋の中。窓側、前から二列目の長椅子。いつもの場所に紫乃は座っていた。
紫乃はスマホを両手で握ったまま振り返る。
「ん……来た」
俺の姿を確認した瞬間、眠たげな瞳が僅かに見開かれ、口元が柔らかく緩んだ。
その声は、驚きよりも安堵が混ざっているようだった。
「となり」
紫乃は自分の隣をぽんぽんと叩いた。




