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一人になった視聴覚室で、しばらくスマホを眺めていた。
画面にはトークルームが表示されている。今日は結局、ほとんどずっとLINEで会話していた。
最新のメッセージには紫乃が送ったクラゲのスタンプが三つ。どうやら気に入ったようだ。
最終下校十分前のチャイムが鳴ったころ。紫乃はいつも通り「あきと、また明日」と小さく手を振って視聴覚室から出ていった。
その表情はいつもより柔らかいように見えて、心なしか手の振りも大きく見えた——俺が浮かれてるだけかもしれないが。
俺たちは時間をずらして帰っている。
約束したわけでもない。けど、思い返してみると最初からそうだった。なんとなく先に紫乃が出て、俺が後に帰る。
違ったのは、初めて喋った日だけだったな——
あの日、俺が『教えてくれよ、お前のこと』と言ったあと。三人分ぐらい離れてしゃがみ込み、壁に背を預けながら、
「それ、どういう話?」
とりあえず気になっていたことを尋ねた。
「……桜の葉に生まれ変わる本」
紫乃は本に視線を向けたまま、ぼそりと答えた。
「ますます意味が分からんな——」
バッドトリップと桜に転生することに何のつながりがあるんだ、と思いつつ続けた。
「おもしろい?」
「……4点くらい」
「5点満点?」
「100点」
「マジか。なんつーか、珍味みたいだな」
「ん」
その瞬間、紫乃の口角が微かに上がった気がした。見間違いかもしれないと思える程度の変化。
言葉を続けようとしたそのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
特に何も考えず部屋の扉を開けたままだったので、廊下の音がはっきりと聞こえる。
「あれれ~、視聴覚室の扉が開いているぞ?」
「おかしいぞ~、誰かいるのかな?」
二人の男子生徒の声。
鬼役の軽音部のやつらだ。芝居がかった口調で獲物を追い詰めるようにじりじりと寄ってくる。
紫乃を見ると表情がすっと消え、本を持つ手に力が入っていた。関わりたくなさそうな顔。
俺は立ち上がり、
「成瀬っていつもここいるの?」
「……たまに」
「そっか、また来てもいいか?」
「…………。べつに」
それだけ交わして、俺は自首した。
あの日から、ほとんど毎日放課後にここに来ている。理由は、よく分からない。
こんなところで一人、謎の本を読んでいる成瀬紫乃という存在に興味が湧いたのかもしれない。
次の日の放課後。視聴覚室に来てみれば、紫乃は同じく扉近くの壁に背を預けていた。
二週間過ぎたころには、座る場所が長椅子に変わっていたな——なんてことを考えていると、最終下校のチャイムが鳴り響いたので、俺は視聴覚室を出た。
渡り廊下を抜け、階段を下り、一階の昇降口へ。
窓の外は同じ灰色の空なのに昨日よりも少し明るく見える廊下を、軽い足取りで歩く。
全部が解決したわけじゃない。紫乃の考えもよくわかっていない。それでも、俺の足取りはシャッフルビートのように陽気に弾んでいた。
昇降口を出ると、部室棟の方から流れてきた運動部の生徒が同じように校門に向かっていた。
今日は雨が降っていなかったからか、下校時間ギリギリまで練習をしていたようだ。
その流れに乗って、俺は校門から出た。
◇ ◇ ◇
夜、部屋でベースの練習をしていた。
今日はメトロノーム・リダクションも上手くできている気がする。
全ベーシストのあこがれであるヴィクター・ウッテン先生イチオシの練習方法。
四拍に一回メトロノームを鳴らしたりするのが、これがまたむずいのだが、それが楽しいわけで。
ひと息ついて、再開しようとしたところで——
トントンとノックの音がした。
「秋斗、入るよ」
「へい」
返事をすると、母が畳んだ洗濯物を抱えて部屋に入ってきた。ベッドの端に俺の服を置き、その上に細長い紙袋を重ねる。
「これ、お父さんが取引先からもらったって」
「なに?」
「フィナンシェ。食べるなら冷蔵庫にも入ってるから」
父は現役を引退してから、スポーツ用品メーカーで営業の仕事をしている。
その関係で取引先から菓子やら果物やらをもらって帰ってくることは珍しくない。
「感謝」
「袋、置きっぱなしにしないでね」
「善処」
「片づけなさいよ」
いつものように呆れた声を残して、母は部屋から出ていった。
その直後、見計らったかのようにスマホが鳴った。
見ると紫乃からのメッセージだった。
紫乃:『あきと、いる?』
安否確認か。
秋斗:『いる』
紫乃:『なにしてる?』
秋斗:『ベース弾いてる』
紫乃:『「世界五分前仮説」弾いて』
それは、俺の好きなベーシストが参加しているバンドの曲だ。
後半に、正気とは思えない難度のベースソロがある。ちなみに、『ずっと真夜中でいいのに。』のベースとかも担当している。目標の人だった。
秋斗:『無理だろ』
紫乃:『好きって言ってた』
秋斗:『好きで何でもできるなら俺は今年のライジングサンに出てる』
紫乃:『出たら見にいく』
秋斗:『十年後の八月に期待だな』
紫乃:『最高の思い出を』
紫乃の返しを見て、ふっと笑った。
まあ、部活程度の活動しかしていない俺がライジングサンに出るのは十年後も無理だろうが。
話題を出すたび、当然のように返してくる。
視聴覚室で話しているときと同じ感覚なのに、文字になると少しだけ不思議だった。
俺はベースをスタンドに戻す。さっき母さんが置いた洗濯物を勉強机の上に移動させて、ベッドへ寝転がる。
ベッドの上で寝転がりながらスマホを眺めて紫乃と話している。
視聴覚室だけだった繋がりが一歩広がった気がした。
秋斗:『そういえば風邪とか引いてないか?』
紫乃:『かぜ?』
秋斗:『昨日、傘持ってなかったからさ。帰り道大丈夫だったかなって』
紫乃:『平気』
秋斗:『ならいいんだけど』
紫乃:『ん』
その返事を見て、ほっと息を吐く。
昨日、土砂降りの中を公園や本屋まで探し回ったことは黙っておこう。俺の一人相撲感がすごい。
こうやって紫乃とやり取りしていると、昨日のことも、今日のことも、全部がずっと昔のことのように思えてくる。
もちろん、忘れたわけではない。
紫乃がなぜあんなことを言ったのか、まだ何も分かっていない。
けれど、いますぐ無理に聞き出す必要はない。そう思うことにした。
まずは、紫乃のことをもっと知る。
好きな本や曲だけじゃなくて。普段なにをしているのか。なにを見て、どう思うのか。
今日みたいな会話を重ねていけば、そのうち見えてくるものもあるはずだ。
紫乃:『心配した?』
メッセージを見て、返信を打ちかけて指先が止まった。
ここで「別に」と返すのは簡単だった。
けれど、雨の中を遠回りして帰ったことを考えると、それはさすがに嘘になる。
秋斗:『ちょーした。公園の屋根の下とか、本屋とか探すくらい』
悩んだあげく、少し冗談っぽく返した。
紫乃:『探した?』
秋斗:『なんとなくな』
紫乃:『どうして?』
どうして、と聞かれると困る。
紫乃がいつもと違っていたからか。傘を持っていないと思ったからか。雨に打たれながら歩いている姿が頭に浮かんだからか。
理由はいくつもある。
秋斗:『心配だったからだよ』
結局、一番シンプルな言葉をそのまま送った。
すぐに既読がつく。けれど、それまでポンポンと返ってきていたメッセージが、そこで止まった。
しばらく返事が来ない。
変なことを言っただろうか、とトーク画面を見つめたまま待っていると、ようやく新しい吹き出しが表示された。
紫乃:『明日も、私に会いにくる?』
視聴覚室に来る、ではなかった。
私に会いにくる。
その言葉を何度か読み返す。頬が熱くなるのが自分でも分かった。
秋斗:『行くよ』
間を置かずに返した。
すぐに既読がつき、紫乃からクラゲのスタンプが一つ届く。両方の触手を上げ、喜んでいるような絵だった。
紫乃:『まってる』
俺はその返信を眺め、スマホを胸の上に置き、天井を見上げた。




