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「あきと、となり」
俺はいつも通り、紫乃の隣に少し距離を空けて座る。
「ん」
紫乃は当然のように身体を寄せてきた。
腕が触れ合い、桔梗の香りが鼻先を撫でる。今日は上半身だけではなく、腰ごとぴたりと寄ってきていた。
昨日までのことを思えば、これが紫乃なりの「いつも通り」なのだろうか。
それはそれで、ちょっと緊張するのだが。悪びれる様子もなく、紫乃は俺の肩に頭を預ける。
ここ数日、いろいろあったからな。こういう何も起こらない時間も悪くないとは思う。
しばらく二人でぼんやりしていると、紫乃がおもむろにスクールバッグを引き寄せ、何かを探し始めた。
そのとき、内ポケットのファスナーに小さな何かがついているのが見えて。
「それ、なに?」
思わず尋ねた。
紫乃は首を傾げるが、俺の視線で問いかけの意味に気づいたらしい。ファスナーからそれを外し、手のひらに載せた。
「……くらさぶろう」
それは手のひらに収まるくらいの、小さなクラゲのぬいぐるみだった。
淡い水色の丸い頭に黒い目。口は力なく半開きになっている。下から伸びる触手は長さが揃っておらず、一本だけ妙な方向を向いていた。
なんというか、全身から気の抜けた雰囲気を漂わせている。
「見たことないな。何のキャラ?」
「……手作り」
「まじか」
もう一度、紫乃の手元を覗き込んだ。近くで見ると、縫い目は丁寧だった。形が崩れているのは下手だからではなく、わざとのようだ。
これが味ってやつなのだろうか。
「すごいな。こういうの作れるんだ」
「ん。この顔がお気に入り」
「だいぶ間抜けな顔してるけど」
「あきとみたい」
「……俺、こんな間抜けな顔してるか?」
自分の顔をペタペタと触っていると、紫乃はくらさぶろうを持ち上げ、俺の顔の隣へ並べた。
ぬいぐるみと俺を交互に見比べ、
「ん。そっくり」
満足そうに頷いた。
「どの辺が?」
「顔とか」
「俺、普段こんな顔してんの?」
くらさぶろうの口は、魂が半分ほど抜けたように開いている。
俺が口元を押さえると、紫乃は小さく笑った。教室ではほとんど見せない、柔らかな笑い方。
「クラゲ好きなのか?」
「好き」
なんとなく、腑に落ちた。
本にもクラゲ出てたし、スタンプも気に入っていた。あれはクラゲが好きだったかららしい。
「なんで?」
ただの会話のキャッチボールのつもりで投げた言葉だった。
けれど、言った瞬間、すっと紫乃の表情が消えた。そのままくらさぶろうの頭をそっと撫で、
「中身がないから——」
ぽつりと呟く。黒い糸で作られた目を見つめたまま続けた。
「私みたいだから」
あまりにも平坦な声だった。冗談のようにも聞こえる。けれど、それは思わず漏れた紫乃の本心にも聞こえた。
「紫乃は詰まってるだろ」
「……ん?」
「変な本とか、変な曲とか、変なクラゲとか」
指を折りながら挙げていく。
「変なのばっかり」
俺を見上げる紫乃の表情は、少し柔らかくなっていた。だから、言葉を続けた。
「俺の知らないことが、まだ山ほどある」
知っていることは増えた。
好きな本。好きな曲。桔梗色。姉と二人で暮らしていること。スマホを見るのは、俺が来る時間を確かめるためだったこと。
でも、それでもまだ、紫乃について知らないことの方が多い。
「空っぽなら、知ることなんて残ってないだろ」
紫乃は何度か瞬きをした。それから、くらさぶろうを胸元へ引き寄せる。
「……変なのばっかり」
「紫乃っぽくていい」
「褒めてる?」
「かなり。頭から触手の先まで紫乃たっぷりだ」
「……6点」
「5点満点中な」
「1万点満点」
「厳しすぎるだろ」
「ん」
そう言いつつも、紫乃の口元は緩んでいた。
紫乃はくらさぶろうをファスナーへ戻そうとして、少し考えるように手を止める。それから俺の肩の上に載せた。
けれど、足が触手なので、紫乃が手を離すとごろんと転がって落ちそうになってしまう。
「おっと」
俺はそれを咄嗟にキャッチして、机の上に置いた。
コテン、と倒れてしまう。俺はカバンからペンケースを取り出してくらさぶろうの後ろに置いてみた。
寄りかからせるとようやく、くらさぶろうが立った。
「おお」
紫乃が感心したようにくらさぶろうを見つめる。
「貸す。今日は、あきと」
「俺がくらさぶろう係ってこと?」
「ん」
よく分からないまま、くらさぶろうを手のひらに載せる。間抜けな顔が、まっすぐ俺を見上げていた。
「やっぱり似てないだろ」
「似てる」
「こいつ……何も考えてなさそうだぞ」
「あきとも」
「俺、いま結構真剣に傷ついてる」
肩を落としてみせると、紫乃が肩を揺らして笑った。
一緒にショートボブの黒髪もサラサラと揺れる。
今まででいちばん大きく紫乃が笑っている気がする。それだけで、胸にじわりと温かさが滲んできた。
そのまま、ペンケースに寄りかかったくらさぶろうに見守られながら本を読んだ。
今日は紫乃が新しく持ってきた一冊『カレーの恋』。借りるとき、紫乃が自信ありげな表情をしていたので、多分だいぶ珍味指数の高い作品だ。
紫乃は俺の肩に頭を預けながら、目を瞑っていた。数日前までと同じ、何も起きない放課後。
数ページ捲ったところで明日の予定を思い出して、
「そうだ。明日は来れないかもしれない」
言った途端、俺に預けていた体重が微かに軽くなる。
紫乃は頭を離して俺を見上げていた。
「……どう、して?」
その声は僅かに震えていた。
「バンドの集まり。来週スタジオ練あるから、その前に打ち合わせするんだ」
「…………。……終わったら、来れる?」
俺は時間を計算してみる。話し合いの内容次第では間に合うかもしれない。
けど、いつもだいたい最終下校時刻まで話している。
「早く終われば来る。でも、約束はできない」
「……そっか」
紫乃はそれ以上何も言わなかった。俺も何か言おうとして、言葉が見つからない。
この一ヶ月は特に何もなかったが、バンドの予定はいずれ入る。
それでも、隣から伝わる沈黙が妙に重かった。
「明後日は来るから」
「ん」
紫乃は小さくうなずく。
それから何事もなかったようにくらさぶろうを持ち上げ、スクールバッグへ戻した。
俺が本を持ち直そうと腕を動かしたとき、制服の袖が引かれた。
見ると、紫乃が俯いたまま俺の袖を指先で握っていて、
「……まってる」
紫乃は呟いた。




