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紫乃はいつも通りの場所に座っていた。
窓側、前から二列目の長椅子の端。
扉が開く音に気づいたのか、紫乃は振り返った。
「ん、あきと」
俺の姿を捉えると、口角が微かに上がる。
教室の紫乃とは違う柔らかい表情。今日も薄暗い部屋の中で、スマホのライトが紫乃の姿を照らしていた。
「となり」
ぽんぽんと長椅子を叩いた。
「…………」
俺は無言のまま、紫乃のとなりに少し距離をあけて座る。
すると紫乃は「ん」と身体をずいっと寄せてきた。腕が触れ合い、桔梗の香水の香りがする。
昨日のことは夢だったのかと思うほど、いつも通りの光景で、
「いや、さすがに切り換えエグすぎないか?」
思わず普通にツッコんでしまった。あまり、暗い雰囲気にしたくないのもあった。
昨日あんなことがあって、俺は朝から緊張していた。
紫乃のことばかり考えていて、さっき視聴覚室の扉を開けるときなんて、心臓が早鐘を打っていた。
その速さたるや十六分音符のごとくだ。もしかしたら、三十二分が逃げ出すくらいかもしれない。
「ん」
途端、紫乃の肩がぴくりと跳ねた。
バツが悪そうに目を伏せ、触れ合っていた腕を離す。上がっていた口角も、すっと下がってしまう。
そのときになって、ようやく気づいた。
いつもと同じだと思っていたが、違う。さっき紫乃が寄せてきたのは上半身だけだった。
いつもなら腰ごと距離を詰めてきて、膝先が触れ合うのに。今日は最初から、拳一つ分の隙間があった。
身体が離れたその瞬間、拳一つ分以上に紫乃が遠くに行ってしまった気がした。
言い方を間違えたかもしれない。
部屋に沈黙が降りる。
古い空調の音だけが部屋に響いて——
「きの——」
「……忘れて」
先に切り出した俺が「昨日——」と言い切る前に。
紫乃は呟いた。制服のスカートをぎゅっと握り締め。なにかに怯えるように肩を微かに震わせていた。
もしかしたら昨日のことは紫乃にとっても想定外というか、自分でも抑えきれないまま、こぼしてしまったお願いだったのかもしれない。
だから、なかったことにしようとしてるのかもしれない。
けれど、俺は踏み込んだ。離れてしまった分には満たないかもしれない。一歩だけ。
それがただの好奇心なのか、心配なのか、それ以外の感情なのか。
ふっと細く長い息を吐き出してから、覚悟を決め紫乃の横顔を見つめる。
「なかったことにはならないな」
きっぱりと言った。
いつもの俺なら「ドッキリにしてはタチが悪かったな」みたいな言葉で流すはずの場面だろう。
紫乃はすぐには答えず、ずっと長机の一点を見つめていた。
俺はそのまま、紫乃の返答を待つ。
やがて、
「嫌……だった?」
消え入りそうな声で呟いた。今にも切れてしまいそうな細い糸のような声。
「嫌……っていうか、驚いたな」
本心を言った。
あの言葉を聞いたとき、胸を占めていたのは驚きと困惑で、紫乃に嫌悪感を抱いたわけではない。
だからといって、俺が紫乃の首を絞めたいと思っているわけではない。そこだけは、はっきりと線を引いておく。
「…………」
「なにかあったのか——」と続けようとして止めた。
紫乃はなかったことにしたがっている。それを無理に聞き出すのが正しいのか分からなくて。
代わりに、黙ったままの紫乃が笑ってくれたらいい。なんて思いながら、余計な情報を付け足した。
「まあ、人生びっくりランキング上位だな。ちなみに一位はこの前、弁当にブロッコリーしか入ってなかったときな」
紫乃は窺うようにこっちを見て、首を傾げる。
「……ブロッコリーより下?」
安堵したような、けれど不安の交じったような声音で問いかけていた。
「俺、ブロッコリー無理なんだ。だから好きか嫌いかの差だな。嫌いのほうがマイナスポイントデカいだろ?」
努めて明るく答えた。
四月終わりころ、昼休みに母さんが作ってくれた弁当箱を開けたら、びっしりとブロッコリーが詰まっていた。おかずの段だけでなく、ご飯の段も。
箱は緑で埋め尽くされていたのだ。
ブロッコリーでワンマンライブは無理があるだろ、と紫乃に笑いかける。
すると、紫乃はスカートを何度か握り直す。
一度、二度、三度。
四度目でぽつり、
「…………。私、好き?」
今までで一番消えてしまいそうな声で、問いかけてきた。
なのに、その言葉ははっきりと聞こえた。祈りを込めたような声音。
「…………。……まぁ」
「…………。ん」
なんだこれ。自分で掘った穴に自分で落ちたみたいな、めっちゃ恥ずかしい。
けれど、落ちていた紫乃の表情が、少しだけ柔らかくなったように見えた。
このまま紫乃と気まずくなって、話すこともなくなってしまうのは嫌だと思っていたのだ。
全部とは言わずとも、いまので一歩だけ元の空気に戻った気がする。
戻りかけた空気を繋ぎ止めるように、俺は話題を変える。いちばんに思いついたのは、今日の家庭科の授業のことだった。
「そういえば今日、家庭科のとき名前呼んだろ? あのときなんて呼ぶか迷ってさ——」
クラスで紫乃と呼んでいいか分からなかった、という話をした。
「——紫乃」
「ん?」
「紫乃って呼んで」
「いいのか? 目立たないか?」
紫乃は人に見られるのを、あまり良しと思っていないのだと思う。
みんなが「成瀬」と呼んでいる中で、俺だけ「紫乃」と呼んでいたら、目立つのではないか。
「……あきとなら……いい」
顔を背けながら呟いた。スカートを今日一番ってくらいにぎゅっ、と強く握っている。
その姿に俺は「お、おう……」と、情けなく返すことしかできなかった。
紫乃は俺のことをどう思っているのか、俺は紫乃をどう思っているのか。
そこまで考えたところでふと、今日の目的を思い出した。
そうだ、まずはここから始めなければ。
ポケットからスマホを取り出し、最大限自然に聞こえるように言った。まるで今思いついたかのように。
「——あ、そーだ、LINE……教え、てくれ」
多分だけど、大根役者検定があったら優勝できると思った。




