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「瀬戸、遅刻な。今月二回目だぞ」
「すいません。道端でご老人が——」
「お前の周りはご老人がたくさんいるな」
「社会問題ですから」
「いいから座れ。あと一回な」
担任の黒川理世先生の呆れ気味な声にうなずいて、自分の席に座った。
うちの学校では、ひと月に三回遅刻すると、早朝の奉仕清掃をするという決まりがあるのだ。
つまり、今月はあと一度でも遅刻したらアウトということだ。
日付を思い出すと、まだ六月の一週目で……今月、あと二十日くらいあるんだけど……。
昨夜はベッドに入ってもなかなか寝つけなかった。
空が白み始めたころようやく意識が途切れ、母の声で跳ね起きたときには、とっくに家を出る時間を過ぎていた。
ホームルームの連絡事項を聞き流しながら窓際の席を眺めると、紫乃の姿があった。机に頬杖をつき、灰色の空を見つめている。
——いた。
その事実にほっと胸を撫で下ろした。
もしかしたら登校してこないのでは、と考えていたから。もっとも、安堵したところで昨日のことがなかったことになるわけではないが。
窓の外を眺める紫乃は、いつも通りに見える。
まるで昨日のことなんてなかったかのように。昨日のことを、紫乃はどう思っているのだろうか。
「——進路調査票を今週中に出すように。はい解散」
黒川先生がそう言い残し、教室を出たところで、
「よう秋斗。重役出勤か?」
聞き慣れた軽薄な声が飛んできた。
そちらを見やると、斜め後ろの席から桐山駿佑がニヤニヤと笑っていた。
「有名になったときのためにな、予行練習」
「ははっ、先に有名になる努力をしろよ」
俺はいつも通りを装って適当に返しながら、ポケットの中のスマホに触れた。
紫乃のほうを見やって——まあ、教室で堂々と聞くのは目立つし、それは紫乃も嫌がるだろう。連絡先を聞くにしても後でいい。それにちょっと恥ずかしいし。心の準備ってヤツが必要だ。
なんて、誰に聞かせるでもない言い訳を並べていると、
「それよか来週、スタジオ入ってるからな」
駿佑は同じバンドのドラム担当だ。
部活棟に専用のスタジオまであるのだから、私立高校はこういうとき設備が充実していると思う。
「ああ、助かる」
言いながら、授業の準備をしようとカバンに視線を戻そうとしたとき——
紫乃がこちらを見ていた気がした。
けれど視線を向けたときには、窓の外へ顔がむけられていて。
気のせいかもしれない。昨日のことに関係なく、紫乃は教室では目を合わせてくれない。
俺はそれが暗黙のルールなのだろう、と理解していた。
だから、こちらが見つめているから紫乃が見ている——そう思っただけかもしれない。
◇ ◇ ◇
「…………」
紫乃に話しかけるタイミングがない。
目も合わせないので当然、教室で話すこともない。
視聴覚室を一歩出れば、何者でもない赤の他人の距離感になってしまうのだと、改めて実感する。
いまは三限目の家庭科の授業だ。今日の授業は調理実習で、家庭科室へ移動していた。
配られたプリントには肉じゃがと味噌汁、卵焼きの料理手順が書かれていた。
朝食スターターキットって感で、朝飯を食べる時間がなかった空きっ腹には天恵のような授業だ。
振り分けられた班は——俺、駿佑、紫乃、吉田さんという布陣。
料理ができる生徒を一人リーダーにして、残りは先生が決めた結果、こうなっている。
なんだろう、闇鍋みたいだ。俺と駿佑はいいとしても、他の組み合わせが互いに喋っているところを見たことがない。
「えっと……」
吉田がプリントと俺たちを交互に見ながら言葉を詰まらせ、切り出しあぐねていた。
あまり前に出るタイプの生徒ではないし、話したことないメンバーしかいないのは気まずいだろう。
「リーダーってことは、吉田は料理できるほうなん?」
おそらく料理ができるのだろうが、吉田のことをよく知らないので、確認のためにひとまず俺は尋ねた。
その瞬間、紫乃に「お前のこと教えてくれ」と言った光景が脳裏をよぎった。
紫乃は料理はできるのだろうか。俺はそれも知らない。
ちらりと紫乃を見やると、エプロンと三角巾を着けている最中だった。
「えっ? あ、うん。弟にお弁当作ってるからそれなりに……えーっと……どうしようかな」
「とりあえず、手順教えてくれないか? それを割り振るって形はどう?」
「うん、ありがと。瀬戸くん。えっと——」
吉田に聞いた手順をもとに、俺は役割を振っていく。
「じゃあ、駿佑は野菜切れ」
「おっけー」
「紫乃——成瀬は卵を溶いてくれ」
「紫乃」と呼びかけて、「成瀬」と言い直した。クラスの中で「紫乃」と呼んでいいのか分からなかったから。
紫乃は手に持ったプリントをぎゅっと握って、
「……わかった」
小さく呟いて、うなずいた。
視聴覚室にいるときよりも温度の低い声。たまに教室で聞くほうの声。
言ってから気づいたが、視聴覚室で話すようになってから、そこ以外で言葉を交わしたのも初めてだった。
紫乃の返事が妙に冷たい気がした。俺が考えすぎているからそう思ってしまうだけなのかもしれないが。
「じゃあ、俺は——」
エプロンを着け手を洗い、流し台に水を張ったボウルを置く。乾燥わかめを突っ込んで戻っていく様子を眺め——
——いや、なにやってんだ俺。
こんなことしている場合じゃないと気付いて、流し台でもう一つのボウルを軽く洗って、
「ほい、これ使って」
紫乃に差し出した。
「……ん」
視線を合わせないまま受け取る紫乃。反応がいつもより鈍い。
俺はさらになにか言うかを迷って、
「お前、こういうときに普通に前にでるよな」
言う前に野菜を切りながら、駿佑が割り込んできた。
紫乃は少し離れたところで、卵を割っていた。その手つきには慣れているような慣れていないような感じだった。
「おい」
「え、ああ悪い。そうか?」
紫乃を見ていたら、返事を忘れてしまっていたようだ。
「ただ、そのわりには線を引いてるっていうか……境界線を反復横跳びしてる感じだよな」
「なんだよそれ」
俺は笑って流したが、なぜか少しその言葉が引っかかった。
◇ ◇ ◇
家庭科が終わった後は、放課後まであっという間だった。
気づいたころには帰りのホームルームが終わっていた感覚だ。
俺は帰りの支度をして教室から出るころには、紫乃の姿はもう教室にはなかった。
駿佑と部活の話をしているうちにいつの間にかいなくなってしまったようだ。
紫乃は視聴覚室に向かっているだろうか。
渡り廊下を抜け、人の気配が薄い旧校舎の廊下を歩く。
空は昨日と変わらず灰色だったが、外を歩く生徒たちは傘を差していない。雨は降っていないようだ。
視聴覚室の前で立ち止まる。ひとつ深呼吸をしてからドアの取っ手を掴んだ。
扉を開けると——
「ん、あきと」




