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『首、絞めて』——それが紫乃の存在証明  作者: さかいかさ


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 俺はしばらく視聴覚室で呆然としていたがそこへ、最終下校を告げるチャイムが鳴った。


 体感的に一時間くらいぼーっとしていた気もしたが、実際は五分程度だったらしい。


 手のひらを見つめると、紫乃の感触が残っている気がした。


「……紫乃」


 釈然としないままカバンを持って視聴覚室を出ると、廊下は来たときよりも薄暗くなっていた。


 渡り廊下を抜け、階段を下り、一階の昇降口へ。


 校内はすっかり静まり返っていた。


 普段なら、この時間は嫌いじゃない。


 いつもは騒がしい校舎から自分だけが切り取られ、隔離されたような感覚。


 小さな息遣いや足音すら響いて、深夜の夜道を歩いている気分になる。


 ただ、今日に限っては静けさを楽しむ余裕はなかった。


 昇降口で上履きからローファーに履き替える。


 傘立てから目印の貼られた傘を探して指先を彷徨わせ、ふと手が止まった。


 ——紫乃はどうしたのだろうか。


 外を見ると雨は強くなっていて、土砂降りだった。


 コンクリートを打ちつける雨音が他の音をかき消し、激しい雨が視界を遮っている。


 昇降口の先にある校門すら、ぼんやりとしか見えない。


 視聴覚室に来た紫乃はうっすらと濡れていた。


 もちろん、雨が弱かったから傘を差すまでもない、と思ったのかもしれない。


 さっき出ていくときも、傘を持っていなかった。折りたたみ傘を持っていた可能性だってあるし、傘立てに置いたままだった可能性もある。


 けれどさっき、『首、絞めて』と言ったときの、不安そうな紫乃の顔が浮かんでしまって。


 どうしても、土砂降りの雨に打たれながら重い足取りで歩く姿を想像してしまった。


 いや、雨は昨日から続いていて、登校するときもそれなりに降っていた。


 紫乃だって傘を持ってきているはずだ。そう自分を納得させ、傘を探そうとしたそのとき、


「——下校時刻過ぎてるぞ」


 声が飛んできた。


 そちらを見やると、胸のあたりで切り揃えられた黒髪の女の人が立っていた。


 先生だ、ということだけは分かった。全校集会で見かけたことがある気がする。ただ、名前はわからない。


 学年も違えば、授業も担当していない。


 ほとんど関わりのない先生は、近所でたまに見かける人くらいの認識で、向こうも俺の名前を知らないだろう。


 そんなものだ。


 その整った顔に貼り付けた無機質な表情が、どことなく紫乃に似ている気がした。


 紫乃のことを考えていたから、そんなふうに思ってしまうのだろう。それだけで紫乃に似ている判定なら、街中に紫乃がたくさん現れてしまう。


 先生は俺のネクタイに入った色を見て、


「二年か? 早く帰れよ」


 若干気だるそうに先生は言った。


 俺は小さく頭を下げ、傘を探して引き抜く。


 時間が時間だけに、ほとんど傘は残っておらず簡単に見つかった。


 昇降口の軒下を出た瞬間、散弾のような雨粒が傘を打ちつける。


 アスファルトで跳ねた雨水があっという間にズボンの裾を濡らし、校門にたどり着くころには靴の中までびしょ濡れだった。


 最悪だ、と思いつつも紫乃がどこかで雨に打たれているんじゃないか、そんな考えばかり浮かんで、キョロキョロ首を回しながら家への道を歩いた。


 公園の中を見回してみて、少し遠回りして駅前の本屋まで足を伸ばしてみて、店前で止まる。


 いない。


 こういうとき紫乃はどこにいるのだろう。


 普通に考えれば今頃は自宅にいるはずだろう。そういえば、紫乃がどこに住んでいるのかも知らない。


「俺、紫乃のことをなにも知らないんだな……」


 呟いてみたところで、返事はない。


 今日のことも、それより前のことも。


 その後も紫乃に出会うことはなく、気づけば家の玄関の前に立っていた。


 一軒家の庭にはバスケットゴールが設置されていて、少し古びたゴールが雨に打たれていた。


 両親がプロ選手だったからだろう。


 俺が生まれたころから、庭にはこのゴールがあったが、俺は一度もバスケをやらなかった。


 当時は何も考えていなかったが、いま思えば両親は少しぐらいはやらせたかったのだろう、とも思う。


 けれど一度も強制されたことはなかった。


 俺だって将来、子どもが音楽やりたいって言い出したら喜ぶだろうな、ということはなんとなく想像できる。


 だから、少し、罪悪感がある。何も言われないのが一番効くのだ。


 バスケットゴールをちらりと眺めて、家のドアを開ける。


「……ただいま」


 小さく呟くと、すぐに奥のリビングから母がバスタオルを持って近づいてきた。


「おかえり、秋斗。やっぱりびしょびしょ」


 母はタオルを差し出しながら、


「靴下脱いで、拭いてから上がってよ。お風呂入っちゃいなさい。あ、裾めくって歩いて。制服は乾燥機入れるから置いておいて——」


 堰を切ったように言葉が溢れ出す。


「……ああ」


 別のことで頭がいっぱいだった俺は、言われた通りに靴下を脱ぎ、裾をめくって、風呂場へ向かった。


◇ ◇ ◇


「あぁ」


 湯船に浸かると思わず吐息が漏れた。


 おっさんみたいと思いつつも、漏れてしまうものは仕方がない。雨に濡れ、風に冷やされた体が奥底からほどけていく。


 ひと息ついて天井を見上げると考えるのは、紫乃のことだった。


 風呂から上がって、夕食を食べて、自室に戻っても、それは変わらなかった。


 自室で床に座り、ベースを抱える。軽音部のライブが近いのだ。練習をしなくてはいけない。メトロノームの音に合わせ指を動かす。


 チクベン、チクベン。


 チクチク、チクチク。


 紫乃のことが頭から離れない。


 なるほどこれが恋か、なんて冗談を言ってみるだけで流せればどれほどよかっただろう。


 まったく集中ができなかった。メトロノームを止め、ベースをスタンドに立てかけ、ベッドに寝転がった。


 帰り道から、ずっと考えていた。


 俺は紫乃の連絡先を知らない。


 クラスLINEを覗いてみても紫乃の名前はない。


 そういえば紫乃はクラスLINEにいないんだよな。大した話なんて流れてこないし、他にも何人か入っていないヤツもいるしな。


 だから、それ自体は別に変じゃない。


 ただ、今日みたいなときに連絡を取れないのは妙にもどかしかった。


「よし——」


 少し考えて、俺は自分を鼓舞するために声に出す。


「紫乃に連絡先を聞く」


 まずは今日のことを聞く。何があったのか。雨の中どこにいたのか。それから、流れで連絡先を聞く。


 大丈夫、さらっと「LINE教えて」と言えばいいだけだ。


 そう思った瞬間、緊張してくる。女の子に連絡先を聞くなんて初めてだ。部活やクラスの子の連絡先なら知っているが、それは流れで交換しただけで今回のケースとは別物だ。


 いや、紫乃は俺に心を許してくれている……はずだ。


 聞けばすんなり教えてくれる……はずだ。


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