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雨が窓を叩く音だけが、部屋の中に強く響いていた。
けれど、俺の頭の中では紫乃の言葉がその音をかき消すように残っていた。
——首、絞めて。
意味が分からない。冗談か聞き間違いだと思いたかった。
けれど紫乃はまっすぐに俺を見つめ、答えを待っていた。
「…………」
俺は口を開きかけて、言い淀んで、なんと返すべきか迷った末に——
「……どういう意味だ?」
「そのまま」
言葉を間違えたくなくて慎重に尋ねたのに、紫乃は平坦に答えた。
その温度差がやけに不気味だった。
紫乃の表情は、いつもは少し上がっている口角が、今は完全に落ちていた。
「やっぱり、なんかあったのか?」
「…………。……別に」
「今の間はあるやつの間だろ」
俺が言うと、紫乃はすっと目をそらした。
それは、分かりやすい反応だった。けど、紫乃の考えていることが、俺には分からなかった。
紫乃がこんなことを言うのは初めてだ。
距離感がおかしいと思うシーンは多々あったが、今回のはそれとは明らかに違う。
「あー、なんつーか、もしかして……そういう趣味?」
紫乃なりのジョークであれ、と気持ち明るめに問いかけた。
言ってから——問いかけるにしてもこれは違ったな、とも思ったが、鳴らした音はもう消えないのだ。
様子を窺うと、紫乃は意味がわからないといった様子で、
「そういう、って?」
首を小さく傾げた。そんな真っ直ぐ聞き返されるとこっちが困る。
「えっと……。……被虐趣味……的な」
「……セクハラ」
「この流れで俺が悪いことあるんだ」
「9対1《キューイチ》。あきとが9」
軽口で流してみようとしたが、紫乃の態度は変わらない。
これ以上茶化すには、紫乃の瞳が真剣で。
俺は頭を掻きながら嘆息する。
何を望んでいるのかさっぱり分からないが、ひとまずこれだけは言っておくことがある。
「首を絞めるなんて、そんなことできるわけないだろ。下手したら最悪もありえ——」
「あきとはそんなことしない」
言葉を遮ってきっぱりと言う紫乃。
信頼されるのは悪い気分ではないが、信頼の方向が根本から間違っている。それはそれ。これはこれ。まったく別の話だ。
「そうじゃなくて、可能性の話な」
自然と語気が強くなる。
冗談で済ませていいお願いとそうじゃないお願いがある。これは、明らかに後者だった。
「なんか悩みでもあるのか? 話せとは言わないけど——」
「違う。……別に、死にたいとか——そういうことは思ってない」
紫乃はまたも俺の言葉を遮り、否定した。
その言葉にはしっかりと芯があって、とても命を諦めているようには聞こえなかった。
「じゃあ、なんで?」
なおさら理由が分からなかった。
そういう趣味だとか、死にたいとか、そういう分かりやすい名前がついていれば、対処も簡単だったかもしれない——いや、死にたいと言っている人間を俺が止められるかは、別の話だが……。
どうもそういう問題ではない。
紫乃はしばらく黙っていて、俺も何を言えばいいか分からなくて言葉を探していた。
やがて、先に口を開いたのは紫乃だった。
言葉を探すように口を開いたり閉じたりして。
「……確かめてほしい」
「……確かめる?」
「私が、ここにいるかを」
ここにいる。
簡単な言葉のはずなのに、すぐには頭に入ってこなかった。
物理的な話ではないだろう。
そういう話なら俺の目の前にさっきからずっといる。俺の声にも自然と、困惑の色が滲む。
「それと首が……どう、繋がるんだ?」
「…………。……わから、ない」
紫乃は目を伏せ、小さく肩をすぼめた。
自分でも説明できないことを、言葉にするのを諦めてしまったように見えた。
「じゃあ、そんなことなおさらできないだろ」
理由も分からないのに首を絞めるなんて、出来るわけもない。分かっても絶対にそんなことはしないが。
紫乃は少し悩んで、それから「じゃあ」と続ける。
「手、おいて。お願い」
「……?」
「そう、手。置くだけ」
それは、首を絞めるのとは違う。
触れるだけなら危険はない。そう考えても、すぐには手を伸ばせなかった。
紫乃は明らかに何かを求めている。探していると言ってもいいかもしれない。
俺が手を置いて、それが見つかるなら——。
「はぁ、分かった。指先、置くだけだからな」
「ん」
「少しでも変だったらすぐやめる」
「……わかった」
そう言って紫乃があごを上げ、見上げるような姿勢になる。
俺が手を伸ばすと、紫乃は両手で俺の腕を取り自分の首筋へと導いた。
俺の指先が紫乃の首筋に触れる。紫乃が俺の腕を少しだけぎゅっと握って、目を瞑った。
俺はできる限り手の力を抜いた。
紫乃は確認するように、ゆっくり大きく深呼吸する。それに合わせて紫乃の胸が上下した。
「どう?」
ぽつり、目を瞑ったまま紫乃が尋ねてきた。
「ど、どうって……脈を感じるな」
指先に紫乃の白く柔らかな肌の感触と、脈拍がどくどく、と伝わってくる。
その脈動に合わせて、自分の心臓の音まで聞こえてしまいそうだった。
「……ありきたり」
「こんな状況、どう言えと」
状況があまりにも非日常過ぎだ。
状況もそうだし。女の子の首を触るなんて初めてだし。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
紫乃は俺の問いかけを無視して、尋ねてきた。
「——あきと、私に触れてる?」
「ああ」
「私、いる?」
質問の意味はまだ、よく分からなかった。それでも、答えに迷う理由はなかった。
「いる。ちゃんとここにいる」
「ん」
俺が応えると、紫乃は安心したような顔をした。
しばらくそのままで。
「ん」
紫乃が目を開いて、俺の手を解放した。
俺が手を引くと、紫乃は自分の心臓のあたりに両手を重ねた。
安心したような表情でうなずいた。
「っ!」
突然、紫乃がはっとし、珍しく慌てた様子でカバンを持って、
「ごめん、あきと。また明日」
そのまま、逃げるように扉に向かって、視聴覚室から出ていってしまった。
残された俺は自分の手のひらを見つめる。指先に紫乃の脈拍が残っている気がして。
「……なんだったんだ」
一人の部屋にその言葉だけが残っていた。




