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俺は紫乃の隣に座った。少しの距離を開けて。
「となり」
「あー、いやほら、もうすぐ夏だろ」
「ん」
紫乃は不機嫌そうに、ずいっと体を寄せてきた。
青い花の香りが仄かに鼻腔をくすぐる。紫乃がいつもつけている桔梗の香水の香りだ。
腕が触れ合い、熱が制服越しに伝わってくる。
けっこう体温高いんだな、なんて余計なことを考えてしまう。いや、これは俺の体温か。紫乃の体温と混ざり合ってよく分からない。
身じろぎするフリをしながら少し距離を取ると、紫乃は無言でぐいっと距離を詰めてきた。
さっきよりもピタリと密着し、俺の制服の袖を握ってきた。
「……紫乃?」
その姿に少し違和感があった。いつもの紫乃と少し違う。
確かに距離感はいつも近い。けど、こんな風に袖を握ってきたことはなかった。
「……なんか、嫌なことでもあったのか?」
「なんで」
「いつもより眉が二ミリ下がってる……ような?」
「きも……。…………。……べつに、ない」
俺がおどけて見せると、紫乃は何かを言おうとして呑み込んでしまった。
嘘だと思った。「ない」と言った瞬間、袖を掴む力が強くなった。
けれど、紫乃は話す気がないようで。
話したくないなら無理に聞く必要はない。俺はそう結論づけ「そうか」とだけ返した。
紫乃は「うん」とだけつぶやき、俺の肩に頭を預けてきた。シャンプーと香水の匂いが混ざって——
近い。近すぎる。
一ヶ月程度じゃ、この近さにはいまいち慣れない。
いや、慣れるも何も、趣味でバンドをしていたら、いきなりサマソニの舞台に放り込まれた気分だ。
そういう次元じゃない。冷静を装いながらも俺が体を硬直させていると、じわりと制服越しに俺の二の腕へ湿り気が伝わってきた。
不思議に思って紫乃をよく見てみると、制服が微かに濡れていて。
「外から回って来たのか?」
旧校舎に来るには俺みたいに下駄箱へ向かう生徒の流れに逆らうか、一度一階の昇降口からグラウンドに出て、回り込むかの二択だ。
紫乃は後者のルートで来たのだろうか。外は雨が降っているというのに。
「逆方向に歩くと……見られて、ちょっと、嫌」
見られる。
たったそれだけの言葉なのに、紫乃の声は雨に濡れた制服より冷えていた。
声の温度が一度、下がったような。なにかに怯えるような僅かな揺らぎ。それを聞いて直感する。言わなくてもいいことを言ったと。
紫乃は人に見られるのが嫌なんだと思う。
女子にしては高い身長。整った顔立ち。少しトゲのある話し方。確かに紫乃は見た目からして、人の視線を集める。
そういう視線が苦手なのだろうか——いや、見られるのが嫌いというのは、正確じゃないかもしれない。
それを決めつけるには、俺はまだ紫乃のことを知らなさすぎる。
いま分かることは、そういう方向に話を向けたのは失敗だったということで。
俺は強引に話を切り替えるように、
「そ、そうだ。これ、読み終わったから返すわ」
カバンから『その日限りの存在証明 Ⅲ』を取り出し、長机に置いた。
その動きたるや、実にぎこちなかったと思う。さっきの失言と学校一の美少女に密着されているせいだ。
紫乃は置かれた本を見つめながらぽつりと、
「本……さっき」
小さく呟いた。
教室なら他の生徒の声に掻き消されてしまうような大きさだ。けれど、ここではしっかりと聞こえる。
「ん?」
「持ってた……女子」
「ああ、落としたのを拾ってもらっただけだよ」
そう言うと、紫乃はまた制服の襟を直した。
まるでそこになにかがあるかのように。
「あきと——」
「ん?」
「あきとは『私がいなくなったら何日で忘れる?』」
——それは小説の終盤に出てきたセリフだった。
彼女に借りたこの本。
透明人間のヒロインとクラゲに転生した主人公が、なんの脈絡もなく最終的に二人で宇宙に旅立つという謎の結末を迎える一冊だ。
読破した今でも、タイトルの意味は謎に包まれている。ちなみにⅢとついているがⅠもⅡも存在しない。
そういうところまで含めて、紫乃の好きそうな本だと思った。
「見えてる限り」
「わたし、見えないよ?」
「俺には見えてるからな」
「ん」
終盤のセリフを再現して見せると、紫乃は小さく笑った。
紫乃とはこの一か月ほぼ毎日、放課後になるとここで他愛のない雑談をしている。
最初は同じ空間にいるだけだったが、いつの間にか会話が増えていた。
「新作」
そう言いながら、紫乃はカバンから文庫本を取り出した。
珍味みたいな本を紫乃は好んでいる。よく意味の分からない微妙なタイトル。内容もこれがまた絶妙。B級どころかC級の作品たち。
「……これはまた、タイトル一本勝負みたいなの見つけてきたな」
俺も読書は好きだし、紫乃との話題も増えるので読まない理由はないのだが……いかんせん、ピッタリとくっついた紫乃の存在が気になってしまい集中できない。
当の紫乃は俺の思いなど気にもせず、額を俺の肩にすり寄せていた。
……猫みたいなやつだと思った。
◇ ◇ ◇
本の残りページが半分になった頃。おもむろに紫乃がカバンから、ワイヤレスイヤホンを取り出した。
「お、五時か」
俺はスマホで時間を確認しながら呟いた。
紫乃は毎日五時になると、今日の一曲を聴き始める。理由は……よくわからない。
前に「小学校は五時に帰りましょうの鐘、鳴るしな」と言ったら、なんとも言えない顔をされたので、この理由だけは違うということは分かっている。
「本日の一曲はなんだ?」
「amazarashiの気分」
「確かに、雨降ってるしな」
「……あきとのダジャレだけ嫌い」
「マジか、紫乃にそう言われると凹むな」
俺があからさまに肩を落としてみせると、
「別に……そこまで嫌いじゃない」
紫乃は口を僅かに尖らせ、ぷいと窓の方へ顔を逸らしてしまった。
その拍子に、黒髪の隙間から覗いた耳が赤くなっているように見えた。
……ときおり紫乃はこういう反応をする。その言い方はずるい。
かわいい。言葉を飾る余裕もない。とにかくかわいい。
「……今日はこれ」
そっぽを向いたまま、スマホの画面を見せてくる紫乃。
「『夏を待っていました』か。確かにもうすぐ夏だしな」
「……二点」
こういう「言葉遊び」というか「ダジャレ」を律儀に拾ってはくれるのだが、お気には召さないらしい。
紫乃はイヤホンを取り出し、片方を俺の左耳に押し込んできた。イヤーピースのサイズが一回り小さくて、どうも収まりが悪い。
紫乃がスマホを操作すると、イヤホンから低音が強調された曲が流れ始める。
あれ?
いつもは曲に合わせて小さく首を振っているのに、今日は曲が始まっても紫乃の首は揺れない。
代わりと言わんばかりに俺の袖をぎゅっと握っていた。
不思議に思いながらも、そのまま俺たちは黙ってリピートされる曲を聴き続けた。
イヤホンから流れる曲に交じって、窓を叩く雨音と紫乃の小さな呼吸音が俺の鼓膜を揺らしていた。
◇ ◇ ◇
「……時間か」
遮光カーテンの隙間から僅かに見える外の色が濃くなり始めたころ、最終下校時刻十分前を知らせるチャイムが鳴った。
俺は本を閉じた。一息ついて、意識を切り替えて帰宅の準備をしようとする。
紫乃も自分のイヤホンを外した。続けて俺の耳からイヤホンを外し、
「……くすぐったい」
突然、俺の首筋をひと撫でしてきた。こそばゆくて、思わず身震いしてしまう。
「……弱い?」
「誰でも弱いだろ、万物の弱点だぞ」
「ねぇ。あきと」
「なんだ——」
いつもの軽口を吐こうとして、紫乃の目を見て止まった。
なにかを確かめようとするような瞳。
いつもの眠そうな目とは違う。探るような、縋るような。潤んだその瞳から目が離せなかった。
「私、ここにいる?」
ぽつり、確かめるように紫乃は呟く。
「ああ……そりゃいるだろ」
意図が分からず、俺は曖昧に応えて首を傾げる。
紫乃は自分の胸——心臓のあたりに手を置いて、鼓動を確かめるように目を瞑る。
エアコンの小さな駆動音だけが室内に響く。旧式なのか、たまにカタカタと鳴っていた。
いつもと様子の違う紫乃を、俺はただ見つめていた。
俺が小さく身じろぎするたびに、鳴る長椅子の音が今だけははっきりと聞こえる。
そのまま十数秒間、紫乃は目を瞑っていた。
やがて、紫乃はゆっくりと目を開ける。
その瞳には、決意と不安が宿っているように見えた。
「あきと——」
何を言うのだろう、と考えていた俺に、彼女が次に発した言葉は想像の遥か斜め上のものだった。
「首、絞めて」
……。
…………。
……?
「は?」
咄嗟にこぼれ出たのはそれだけだった。




