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成瀬紫乃と初めて話したのは、GW明けの月曜日だった。
その日、俺は所属する軽音部の奴らと、『旧校舎放課後かくれんぼ』と銘打たれた子どもじみた遊び——ここは青春と呼んでおこう、に興じていた。
潜伏場所を探して、誰もいないはずの視聴覚室の扉を開けた。
蛍光灯が一本しか点けられていないせいか、ほんのり薄暗い部屋。
瞬間、俺はビクリと肩を跳ねさせた。
入口近くの壁に背を預け、成瀬がちょこんとひざを抱えていたからだ。
「おっ! びっくりした……なんだ成瀬か。脅かすなよ」
ほっと胸をなで下ろす。
成瀬はちらりとこちらを見て、すぐ手元の文庫本に視線を戻してしまった。
タイトルは『バッドトリップ——空中歩行』という謎の本で、
「……なかなかイカれたタイトルだな」
思わず口に出してしまった。
あとからミステリーだと聞いて、なおさらわけが分からなかったのだが。
視線を上げた成瀬に「そういうの読むんだ」と尋ねてみると、返ってきたのは、
「思ってた成瀬と違った?」
そのときの彼女の顔を今も忘れていない。整った顔立ちが、ひどく傷ついているように見えたから。
教室で聞いたことのある低めの声に、冷たさと諦観が混じっているようだった。
その冷たさに一瞬、驚きつつ、
「違うもなにも俺、成瀬のこと知らないし」
迷わず言った。
知らない奴のことを、知った顔で語るのが嫌いだった。
『瀬戸くんの両親プロ選手だったんでしょ? バスケ上手いんだ——』
と、中学でも高校でも言われた。
俺自身は全く興味がなかったのに。
外側の印象だけで札を貼られる。そのたび、黒板に爪を立てたときのような気持ち悪さが背中を這った。
だから、俺はそうしてこなかった。
「んなこと言うなら教えてくれよ、お前のこと」
成瀬の眠たげな瞳が僅かに見開かれた。初めて俺の存在を認識したような瞳で、まっすぐ見上げてくる。
◇ ◇ ◇
あれから、一ヶ月が経った。
「はい、じゃあ解散」
担任が帰りのホームルームの終わりを告げると、二年B組の教室の空気は、一気に晴れやかなものになる。
窓の外から見える灰色に染まった六月の空とは、対照的だ。
前方のドア近くにある俺の席は、お喋りしながら出ていく生徒たちの波をもろに受ける。フェスでいえば最前列だ。
そんな人波を眺めたところで面白くもないので、さっさと帰りの準備をしようと机の中身をカバンに詰め込んでいった。
ちょうど最後の文庫本をしまおうとした——そのときだった。
ガタン。
ドアの近くでおしゃべりをしていた女子グループの一人が、俺の机に足を引っかけたのだ。
はずみで机の上の文庫本が落下し、バタンと音を立てる。
「あっ、ごめんねー秋斗」
女子が振り返り、しゃがみこんで本を拾い上げる。
クラスの置き傘こと俺——瀬戸秋斗の名前は、このように必要なときだけ教室内に現れる。
女子は拾った本を差し出しながら、本のタイトル——『その日限りの存在証明 Ⅲ 』を見て、困惑を浮かべた。
「これ……なんの本?」
わかる。
確かにタイトルだけではいまいち謎だ。
といっても読んだところで内容もよく分からないのだが。まぁ、貸してくれた本人はだいぶ満足そうにしていたのだが。
「——いま拾われたことで、存在を証明される本」
俺が誇らしげに言うと、女子の眉間が微かに寄って「うわ、めんどくさ」という色を覗かせ、
「うわー、めんどくさ。そういうところだよ?」
実際に言われてしまった。
まあ、今の返しは自分でもめんどくさいとは思うが、思いついてしまったものは仕方がない。
個性は大事だと叫ぶのが、最近の流行りらしいしな。なんて滑ってしまったことを内心で正当化していると。
「あはは、おもしろーい。おもしろ——」
「——じゃま」
わざとらしい乾いた笑いが遮られた。
声のした方を見やると、紫乃が無表情で立っていた。どうやら、女子グループがドアを塞いでしまっているせいで通れないようだ。
「あっ、ご、ごめんねっ。成瀬さん」
女子グループがさっと道を開ける。
しかし、紫乃はすぐに通り過ぎることなく、女子が掴んだままの『その日限りの存在証明 Ⅲ』をじっと見つめていて。
紫乃は自分の首筋をそっと撫でた。
「成瀬さん……?」
立ち止まったままの謎の行動をする紫乃に、戸惑って顔を見合わせる女子たち。
けれど、呼びかけに反応することなく、紫乃は本から視線を切ると足早に教室から出ていってしまった。
本を持ったままの女子は一瞬、呆然とするも、「はい」と俺に本を渡すと、グループのおしゃべりに戻っていった。
話題は当然、いまの一幕のことで——
「なにあれ、あの子いっつも不機嫌じゃん」
「分かる。この前プリント渡したら睨まれたし」
「でも、遠目から見てる分にはいいんだよねー。目の保養的な?」
一瞬、間を置いて、
『わかる~』
声が重なった。
俺は受け取った本をカバンにしまい、帰り支度を手早く整えた。
俺のことを話されているわけじゃないのに、指先の動きが鈍くなる気がする。
自分の背中に札を貼られたときと同じ気持ち悪さが体を駆け巡って。
俺は彼女たちの声を聞こえないふりをして、カバンを担ぎ教室を出た。
そのまま下駄箱のある一階——ではなく、下駄箱へ向かう生徒たちの流れに逆らい、渡り廊下の方へ向かった。
廊下には話している生徒や、部活に向かう生徒、帰宅する生徒で賑わっていたが——
渡り廊下を抜け放課後の旧校舎に踏み入ると、一気に人気が消える。
階段を昇って二階から三階へ上がると、それはさらに顕著になる。
基本的に一階と二階の教室を授業に使うだけで、三階にはほとんど誰も来ないからだ。
そのためだろうか。管理は中途半端で蛍光灯は半分が切れている。
空の色も相まって薄暗い廊下を進むと、上履きの靴音と窓を叩く雨音だけが響き渡る。
廊下の一番奥。
旧校舎の視聴覚室前で、俺は足を止めた。
気持ちを切り替えるように一息吐いて、扉に手をかけた。
部屋の中はいつも通り、若干薄暗い。蛍光灯が少ししか点いていないからだ。
「ん、あきと」
声がした方を見ると、部屋の窓側、前から二列目。長椅子の端っこに紫乃が座っていた。
中に踏み入ると、今日も埃の匂いがする。新校舎の視聴覚室ができてからほとんど使われていないせいだろう。
閉め切られた遮光カーテンが、余計にそう思わせるのかもしれない。
紫乃は振り返り俺を捉えると、制服の襟元を整えた。それは最近、よくやる仕草だった。
手元のスマホの明かりに照らされて、肩で切り揃えられた黒髪の内側から薄紫色のインナーカラーが覗いていた。
「桔梗色、好きだから」と言っていた色だ。その薄紫を見るたび、俺はなぜか少しだけ見てはいけないものを見た気分になる。
眠たげな半目がほんの少し細められて、口元も微かに緩んでいる。
無表情だと言われているがそうでもない。その表情の変化の幅が小さいだけで、むしろ、喜怒哀楽の変化は豊かなのだと最近知った。
教室で「成瀬さんって、いつも不機嫌だよね」「わかる。目、合わせづらい」と言われる彼女の瞳とは似つかない柔らかな瞳。
その落差たるや、俺の方がまだ慣れていない。
「となり、はやく」
紫乃は自分の右隣をぽんぽんと叩いて、座るように催促してくる。
俺は「ああ」と曖昧に返事をし、近づいた。




