39
39
しばらく待ってみたが、紫乃が来る気配はなかった。
スマホで時間を確認してみると、まだ15分しか経っていなかった。
紫乃はいつも俺を待っていた。最終下校時刻ギリギリまでだって。それに比べれば、大した時間じゃない。
分かってはいる……けれど。
「…………」
長椅子の隣を見つめてみても、誰もいない。いつも紫乃が座っている場所。
最初はドアの隅の壁にもたれ掛かっていた。いつからか、紫乃はここに座っているようになっていた。
「となり」と椅子を叩いて、俺が戸惑っていると不機嫌そうに距離を詰めてくる。
そんな日が続いて——。
だから、それで距離が近づいたような気がして。けれど、紫乃のことを何も理解していなかった。
机の上にスマホを伏せる。立ち上がってみて、座って、また立ち上がる。もう一度、スマホを見る。さっきから、5分しか経っていなかった。
どうにも落ち着かなくて、理由もなく窓際の遮光カーテンの内側に入って、窓の外を眺めてみる。
こっち側は初めて見たかもしれない。新校舎からは旧校舎が邪魔になって見えない。学校の敷地に沿うように植えられた木と、その先に広がる住宅街。
街の景色は特に変わらない。なのに、どこか別世界のような気分になる。
窓の外が、急に暗くなってきた。ぽつ、と窓を叩く音がして、続けて二つ、三つ。気づけば無数の雨粒がガラスを叩き始めていた。
「……降ってきたな」
独りごちてみても、返事はない。紫乃がいたら「ん、雨」と返事してくれたのだろうか。
来るかどうかは紫乃が決めればいい。俺はここにいる——そう思っては見たけれど。
「…………」
紫乃とのトーク画面を開いてみると、最後に並んでいるのは俺から送った言葉ばかりで、既読だけがついている。
朝、俺が声をかけたときも紫乃は聞いていた。それは間違いない。
それでも来ない。
だったら——。
LINEの通話ボタンが目に入る。初めて電話したとき、俺は押すか迷った。用事なんてなくて、ただ声が聞きたくて、それで押した。
今は、用事がある。なら、押せない理由はない。
通話ボタンをタップすると、聞き慣れた呼び出し音が一回、二回と鳴り始めた。
「……紫乃」
四回、五回と繰り返されても、呼び出し音が止まることはない。
やがて——。
応答がなかった旨を報せる、無機質な表示だけが画面に残った。
「…………」
もう一度試してみても、今度も出なかった。
『一人でいい』——あの日の言葉が蘇る。
今までの俺なら。そう言われたなら、一人にした。話したくないなら聞かない。
来たくないなら待つ。相手が嫌だと言っているのに踏み込むのは違う。
それは今でもそう思う。
でも。
「……分かんねぇだろ」
紫乃が本当に一人でいたいのか。俺に来てほしくないのか。勝手に決めていいことじゃない。
それでも答えてくれないなら——自分の目で確かめる。
カバンを掴んで歩き出そうとすると途端、視界が揺れた。長椅子の背へ手をつく。熱のせいか、さっき走ったせいか。
しばらく待つと、揺れはおさまった。体調はよくはない。でも、歩ける。
視聴覚室を出た。旧校舎から渡り廊下を抜けて、二年B組の教室へ。
廊下には部活へ向かう生徒や残って喋っている生徒がいて、教室へ近づくにつれて人影は増えていった。
教室の扉から中を覗いてみる。窓側、前から三番目。席には誰もいなかった。机の横にカバンもかけられていない。
「……どこだよ」
呟いて、キョロキョロと首を回していると、教室に残っていた女子が訝しむような目で見てきた。
「瀬戸、何やってんの?」
「いや、ちょっと……」
一瞬言い淀んで、そんなことをしている場合ではないと気付き。
「紫乃——成瀬、見てないか?」
「成瀬さん? 見てないけど。見た?」
尋ねて見ると、女子は首を傾げる。他の女子にも水を向けてくれたが、結果は同じ。見ていない、という言葉だけが返ってきた。
「わかった、ありがと」
それだけ言い残して、俺は足を早めた。思いつく場所を順番に覗く。
けれど——。
いない。
校舎内を歩き回るほど、喉の痛みが増していく。マスクの中が息苦しい。途中で何度も咳き込み、壁に手をついた。それでも探す足を止めなかった。
紫乃が学校のどこにいるのか。そもそも、視聴覚室以外で紫乃が一人で過ごしている場所を、一つも知らなかった。
知りたいと言って。分かりたいと言って。
それなのに。
「……くそ」
また同じことを考えそうになる。違う。今は自分を責めてる場合じゃない。首を振って思考を追い出す。
階段を下りている途中で、ふと思い出した。
「……雨宮先生」
紫乃の姉。唯一の家族。
旧校舎の第二準備室へ向かうと、前に訪ねたときとは違い、今日は扉の隙間から明かりが漏れていた。
ノックすると、
「どうぞー」
中から、気の抜けた声が返ってきた。
「失礼します」
扉を開けると、雨宮先生は椅子に座り、机の上に広げたプリントへ赤ペンを走らせていた。
俺を見るなり、その手が止まる。
「瀬戸……」
「先生、紫乃——」
声を出した瞬間、咳が込み上げた。マスクの上から口元を押さえ、何度か咳き込む。
「おい、大丈夫か?」
「……大丈夫です。それより、紫乃がどこにいるか知りませんか?」
「……紫乃?」
俺が尋ねると、先生の表情に影が刺す。
「視聴覚室に来なくて。電話も出なくて。学校の中も探したんですけど……」
「やっぱり……揉めたか?」
「何か……言ってましたか?」
「いや。何も」
先生は赤ペンを机へ置いて、
「何も言わないから、分かる……分かってしまう。あの子は、自分の感情を出すのが苦手——というより、自分の気持ちを他人に主張することを怖がってる」
背もたれに身体を預け、小さく息を吐いた。
「嫌だった。寂しかった。来てほしい。行かないでほしい。そういうことを普通に言えばいいのに、紫乃にはそれが難しい」
俺は何も言えなかった。思い浮かぶ言葉が、いくつもあった。全部、紫乃なりに言おうとしていたのかもしれない。
「だから、まあ。姉を長くやってると、何も言われなくても顔を見ればなんとなく分かってしまう。紫乃が一番よくする、平気じゃないときの顔」
「俺……紫乃に、普通じゃないって言いました」
改めて口にすると、最悪な言葉だった。先生は何も言わず、俺の言葉の続きを待っていた。
「紫乃のことを言ったんじゃなくて。首に触って確かめるとか、そういうことを言いたかったんです。でも、俺が焦って……」
「それを私に説明してどうする」
言葉を遮られた。先生は怒っているようにも、失望してるようにも見えず、ただ、真っ直ぐ俺を見ている。
「……はい」
「前にも言っただろ。紫乃のことなら、紫乃に聞けって」
「…………」
「お前が本当に伝えたいことは、私じゃなくて本人に言ってやってくれ」
俺は拳を握りしめると、
「俺、紫乃が大切なんです」
気づけば、それが口から出ていた。先生が僅かに目を見開く。
「だから、ちゃんと話したい。俺が何を間違えたのかも、紫乃がどう思ったのかも。今度は……勝手に決めたくない」
先生はしばらく黙って俺を見つめたあと、小さく笑って、
「それも本人に言ってやってくれ」
「……はい」
先生は机の上のスマホを手に取り、何かを確認する。
「家には、まだ帰ってないな」
「分かるんですか?」
「帰るときは連絡するように言ってある。今日はまだ何も来てない」
「ただ一人の妹だからな」と照れくさそうに笑って、先生はスマホを机へ戻した。
「だから、これは姉の勘でしかないけど」
「はい」
「まだ学校にいると思う」
その言葉を聞いた瞬間、身体が動きそうになった。
「紫乃が一人になりたいときに行きそうな場所とか——」
「それは自分で探せ。私も全部わかるわけじゃない」
「え」
「お前が探すんだろ?」
「はい」
迷わず答えた。頭を下げ扉へ向かい、第二準備室を飛び出した。
頭に浮かぶ場所を順番に潰していく。旧校舎の昇降口に近づくと、雨音が激しく響いている。
いつの間にか土砂降りになっていた。屋根から流れ落ちる水が、滝のように滴っている。
旧校舎は視聴覚室だけじゃない。ほとんど使われていない教室がいくつもある。
もしかしたら。
熱のせいで、足元がふわふわする。
呼吸するたびに喉が痛い。
階段を登ろうとして、三段目に足をかけた瞬間——
「ん?」
足を止めた。
雨音と風の音。その中になにか別の音が混じった気がした。階段から首を出すと、階段下の倉庫の扉があって、物がズレたりしただけだろうと納得し、
「……気のせいか」
そう思い、引き返そうとして。
階段の下、死角になる隅に何かが見えた。
上履きのつま先だった。慌てて階段を降り、回り込んでみると。
膝を抱え、身体を小さく丸めた紫乃がそこにいた。膝を抱え、顔を伏せていて、黒い髪の間から薄紫色のインナーカラーが覗いている。
制服も髪も濡れていない。雨に打たれていたわけではないらしい。
「……紫乃」
声が掠れて、ほとんど音にならなかった。
ずっとここにいたのだろうか。視聴覚室にも行かず、帰ることもせず。こんなところに。
「……紫乃?」
もう一度名前を呼ぶと、紫乃の肩がぴくりと跳ねた。ゆっくり顔が上がる。眠たげな瞳が俺を見た瞬間、大きく揺れた。
「紫乃、俺——」
話しかけようと一歩近づくと、紫乃が立ち上がった。
次の瞬間。
紫乃は逃げるように、駆け出した。俺の脇を抜けていく。
「っ、紫乃!」
考えるより先に身体が動いた。伸ばした手が紫乃の腕を掴んだ。




