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『首、絞めて』——それが紫乃の存在証明  作者: さかいかさ


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「……痛い、離して」


 紫乃は俺から視線を逸らしたまま言った。


 掴んだ腕は制服越しでもわかるくらい冷たくて、それが紫乃の心のように思えて。


「……ごめん」


 引き止めることに必死で、必要以上に力を込めていたことにも気付かなかった。


 手を離すと紫乃は、掴まれていた腕を逆の手で掴んだ。そのまま胸の前へ腕を引き寄せ一歩、俺から離れた。


 また走り出してしまうのかと思ったけれど、紫乃は俺から視線を外したまま立ち尽くしていた。


 雨の音だけが、俺たちの間を埋めている。先に口を開いたのは俺だった。


「話が、したい」


 かける言葉を何度も考えてきたのに、いざ目の前にすると、用意していた順番なんて全部消えていた。


「……ない」

「俺にはある」


 それでも、ここで沈黙を選ぶわけにはいかなかった。


「この前、ごめん。普通じゃないって言ったことも、怒鳴ったことも」

「……べつに、いい」

「よく——」


 ないだろ、と言いかけて止まった。前も同じように返した。いい、と言う紫乃に、よくないだろと言って。それで、紫乃の話を一つでも聞けただろうか。


 大きく息を吸い込むと、喉に引っかかって咳になった。顔を横へ向け、マスクの上から口を押さえる。


「……風邪?」

「ああ。ちょっと」

「ちょっとじゃない」


 紫乃が初めてこっちを見た。けれど、目が合った途端に、また伏せられてしまう。


「帰ったほうが、いい」

「話してから帰る」

「……私なら、平気」


 紫乃が腕を抱え直すのを見ていた。指先が制服を強く握り込んでいるのか、深いしわを作っている。


 平気。


 そう言ってくれるなら、そういうことにしてしまいたかった。


 この前のことは終わりで、明日になればまた、視聴覚室で話せる。そう思えたら楽だった。でも、紫乃はこんなところで膝を抱えていた。


「俺が、平気じゃない」

「…………」

「紫乃と話せなくなって、嫌だった。今日も会いたくて来た。迷惑かけられたとか、そういう話をしに来たんじゃない。俺が、紫乃に聞いてほしいことがある」


 階段の上で物音がした。珍しく誰かが廊下を歩いているのか、遠くで上履きの擦れる音がする。こんなときに限って来るなよ、と思うが、思ったところで何も変わらない。


 紫乃はその音へ顔を向けてから、また俯いた。


「……戻らないか」


 俺は上の階を見上げながら尋ねると、紫乃は答えなかった。腕を握った手を握り直し、昇降口と階段を交互に見ていた。


 俺は先に歩き出し、一段目に足をかけ、紫乃を待った。


 紫乃が昇降口を見るたび、また駆け出してしまうのでないかと、息を止めそうになった。


 やがて、紫乃が恐る恐る一歩目を踏み出した。


 俺の横を通り過ぎて、


「……ん」


 雨音に埋もれそうな返事を聞いて、俺も後を追った。


◇ ◇ ◇


 戻ってきた視聴覚室は、出ていったときのままだった。一本だけ点いた蛍光灯。閉じた遮光カーテン。カタカタと鳴る古い空調。


 違うのは、紫乃がいつもの場所へ座ったこと。窓側、前から二列目。肩にかけていたカバンを膝の上に置き、両手で抱え込む。紫乃が抱え込んだカバンが、壁のように思えた。


 隣は叩かなかった。俺はその隣へ、拳二つ分の間を空けて座った。


「……あきと」

「ん?」

「さっき、来た?」

「ここに?」


 紫乃が頷く。


「来た。先生に呼び止められて、遅くなったけど」

「……見てた」


 どうやら、俺が黒川先生に捕まっていたところは見えていたらしい。あのどうでもいい問答まで聞かれていたかと思うと、多少恥ずかしい。


 もっとも、今の俺はそれ以上にみっともない状態だ。動き回り、吹き出した汗のせいで髪は乱れているし、呼吸もまだ整わない。


「電話もした」

「……知ってる」

「そっか」


 紫乃は膝の上のカバンに目を落とし、


「出たら、何か言わなきゃって」


 それだけ言って、口を閉じた。


 俺も何を返せばいいのか分からないまま、手を膝に置く。長椅子が微かに鳴った。


「あのさ。紫乃が聞いたこと」


 横顔を見つめて切り出す。


「ほかの人とどう違うんだって、聞いたろ」

「…………」

「分からなくて黙ったんじゃない。答えは、分かってた」


 紫乃の視線がこちらへ動き、すぐにカバンへ戻った。


「言うのが怖かった。言って、今より近くなって、それで俺が何かやらかしたらって。考えてた」

「……やらかす?」

「傷つけたり、嫌なこと言ったり。実際、したけど」


 自分で言って喉の奥が詰まった。この数日、何度も思い返した。


「怖がって、言いたいこと言わなくて。それで紫乃に聞かれて、勝手に焦った。紫乃が悪かったんじゃない」


 紫乃が何かを言いかけて、何も言わずに閉じた。


「首を絞めるとかは……今もできない。紫乃に危ない思いをしてほしくないから」


 言って、一つ息をついた。


「でも、紫乃のことを嫌になったわけじゃない。あんな言い方して、ごめん」


 俺が頭を下げると、紫乃はしばらく固まったままだった。


 顔をあげ、横顔を見つめる。


 唇が動くたび、何も出てこないまま、また結ばれる。代わりに紫乃の指先だけがせわしなく、しかし行き場がないように彷徨っている。


 今度はその沈黙から逃げなかった。紫乃もここで、俺が言葉を出すのを待っていたのだ。


「……嫌いに、なってない?」


 随分経ってから、紫乃が抱えたカバンを見つめたまま囁いた。


 俺は迷いなく答える。


「なってない」

「だって、私——」


 カバンを強く抱きしめ、


「……面倒だったでしょ」


 今にも泣き出しそうな声で言った。


 困らなかったと言えば嘘になる。何を言われているのか分からなくて、どうすればいいのかも分からなかった。


 けれど、それと紫乃に会いたくなくなることは別だ。


 俺はポケットからスマホを取り出し、長机へ置いた。手帳型のケースからぶら下がるペンギンが机の縁に当たって小さく鳴った。


「俺、紫乃のこと忘れなかった」


 紫乃が顔を上げた。


「この数日間、話してない。けど、ずっといた。何日いなくなっても忘れない」

「……いる?」

「気づいたら紫乃のこと考えてた」


 今までで一番傷ついていた顔だけじゃない——隣で本を読む紫乃も、クラゲを見つめる紫乃も、写真の中で俺の袖を掴んでいる紫乃も、サンドイッチの感想を待っている紫乃も。


 交わした言葉も、次に聞きたかったことも。


「会ってないときも、紫乃がいるんだよ。俺の中に」


 格好つけた言い方になったと思った。普段ならここで、適当な冗談を付け足していただろう。


「特別だ。紫乃が変わっているとか、そういうことじゃない。ただ、成瀬紫乃が……俺にとって、特別なんだ」


 紫乃は俺を見つめたまま、何も言わなかった。揺れるその瞳から逃げないように、膝の上で拳を握る。


「成瀬紫乃が特別」たったそれだけ言うのに、何日かかったのだろう。頭の中なら何度でも言えたのに。ひどく短くて、ひどく頼りない声だった。


 カバンを握る、紫乃の力が少し弱くなっていた。


「えっと、だから……」


 次の言葉を探して、俺は一度、長机へ目を落とした。


 何を言えばいいのか。今度は、迷わなかった。


 あの時はまだ、紫乃のことを何も知らなかった。今は違う。好きな本も、曲も、水族館で笑った顔も知っている。


 けれど、まだ知らないことがある。いや、そういうことじゃない。


 ——ただ、俺が紫乃のことを知りたい。


 紫乃にこれを言うのは初めてではない。けれど、俺がこれを言うのはこれが初めてだ。


「教えてくれ。俺に、紫乃のこと」


 紫乃は目を見開いた。それから、俯く。何かを堪えるように、下唇を噛んで、


「……なにを」


 消えそうな声で呟いた。


「何でも。紫乃が話したいところから。紫乃が思っていることを知りたいんだ……その……特別だから。紫乃のことを知りたいんだ」


 紫乃は俺の顔を窺ったあと、膝に置いていたカバンをそっと机の上へ移した。


 俺たちの間にはまだ隙間があった。けれど紫乃の腕は、もうカバンを抱えていなかった。


◇ ◇ ◇


「……怒ってるって、言われてた」


 やがて、紫乃は自分の手元を見つめて話し始めた。


「小さいころから。怒ってないのに、怖いって。普通に見てるだけでも」

「うん」

「だから、見ないようにした」


 教室で窓の外を眺める横顔が浮かんだ。


「でも、見てないと、今度は話聞いてないって」


 紫乃はそこで、薄く笑った。どうしようもなかったのだと、自分へ言い聞かせているような笑い方だった。


「お父さんは……この前、話したけど」

「憶えてる」


 紫乃が何を好きなのか。何を作りたくて、何を読みたいのか。電話の向こうから聞いた話を思い出しながら、頷いた。


「お父さんがいたときは、私が私だった」


 紫乃は両手を重ねた。右手で左の指を包み、ゆっくりと握る。


「みんなと違っても、それでいいって思えた。私が選んだやつを、お父さんは一緒に見てくれたから」

「……うん」

「いなくなってから、誰かに違うって言われると……私のほうが、違うのかなって」


 紫乃ちゃんには、似合わない。


「そんなの好きなんだって言われると、次は言わなくなった。本とか」


 俺が見てきた紫乃は、帯を読ませるだけでも満足そうにしていた。読んだと伝えると、すぐに「どうだった?」と聞いてきた。


「友達と、話してたときに」


 紫乃が口を開いたので、そちらへ目を戻した。


「私といて、楽しいのかなって。急に分からなくなって」


 重ねた指が、膝の上で動いている。


「それで、聞いた。私のこと、好きって」

「……その友達に?」

「ん。好きだよって、言ってくれた」


 紫乃はゆっくり頷いた。


「でも、何も知らないのにって。私の好きなもの、変だって言うのに、何が好きなんだろうって」


 一度、言葉が止まった。


「ほんとにって、聞いた。一緒にいたいって思うのも、私だけなのかなって」


 その先を言うまでには、時間がかかった。紫乃は俯いたまま、自分の声を確かめるように呟く。


「『紫乃ちゃん、結構重い感じ?』って」


 返す言葉が、出てこなかった。


「笑ってた。そんな感じじゃないと思ってたって。そのあと、別の話になった」


 深刻な顔で告げられたわけではなかったらしい。友達の、意外な一面を知った。その程度の言い方。


 俺だって似たような言葉を言うことはある。何も考えずに口から出して、次の話になるころには、言ったことすら忘れているような。


「……紫乃は、なんて返したんだ?」

「笑った」


 そう言って紫乃は視線は落としたまま、口の端を持ち上げた。


「次の日も、普通だった。話しかけてくれたし、一緒にもいた」

「うん」

「だから、冗談だって分かってた」


 紫乃の口元から、その笑みが消えた。


「でも、私が聞いたのは、冗談じゃなかった」


 雨の音が強くなる。窓に水を投げつけるような音が重なって、それでも、その言葉だけははっきり聞こえていた。


 好きだと言ってほしかったのだろうか。一緒にいたいと思ってくれているのか、聞きたかった。それを、本当はちゃんと聞きたいんだと、もう一度言うことはできなかったのかもしれない。


「お姉ちゃんは——お母さんも、心配するから。忙しいのに私のことまで考えるから。それに、うまく言えなかった。嫌なことされたって話でもないし。何があったのって聞かれたら……何もないから」


 何もない。そう答えた紫乃が、これまでどれだけ言葉を飲み込んできたのか、俺には分からない。ただ、俺の隣で「別に」と答えたあと、袖を握る力が強くなったことは、何度もあった。


 紫乃がカバンからくらさぶろうを取り出した。変わらず、ペンギンのキーホルダーも一緒についていた。


「あきとも、そう思うかもって」


 俺へ向いた紫乃の目が、すぐに逸れた。


「そういう子だと思わなかったって。言われたら、もう来なくなる気がして。来てほしい、とか。寂しい、とか。言ったら、あきとが困るかもって」


 くらさぶろうの頭を撫でる。


 言われたら困ったのだろうか。


 少なくとも今、紫乃が俺に会いたくて寂しかったと聞いて、嫌な気持ちにはなっていない。どうしようもなく嬉しくて、そんなときにも返事を待たせていたことが苦しい。


「最初は、来てくれるだけでよかった」


 くらさぶろうに触れていた手が止まる。


「あきとが来て、変な本って言って、でも読んでくれて。次の日も、その本の話してくれて」


 紫乃は目を細めた。今の部屋に、別の日の俺でも座っているように。


「好きな曲、知ってたり、知らなくても聴いてくれたり。そういうの、嬉しくて」

「俺も楽しかったよ」

「……ん」


 返事に、息が混じった。


「でも、それだけじゃなくなった」


 少しずつ、声が小さくなっていく。俺は身体を紫乃の方へ向けた。


「あきとが来るまで、時間ばっかり見てた。まだかなって。あと五分したら来るかなって。来なかったら、また五分」


 この部屋でスマホを何度も見直した、さっきの自分を思い出す。


「本、読もうとしても、あんまり進まなくて。廊下で音がしたら、あきとかなって」

「……うん」

「来たら、もっといてほしくなった」


 紫乃が首筋へ手を伸ばした。けれど、触れる直前で止まる。そのまま手を膝へ下ろし握り込んだ。


「それで、首に触ってほしかったのか?」


 尋ねると、紫乃は迷うように視線を動かした。


「……分かんない。でも、あのときは……あきとが、私だけ見てた。私に触って、私のこと考えてた。ほかの誰のことでもなくて」


 初めて触れたときも、この前も。確かに、俺の頭は紫乃のことでいっぱいだった。自分の指を見つめる。触った肌の感触。伝わってきた脈拍。俺の手を握り、目を閉じた紫乃の顔。


「絞めてって、言ったときも。あきとはしないって思ってた。痛くしてほしかったんじゃなくて——」


 紫乃の言葉が、そこで途切れた。うまく繋がらないことを自分でも分かっているのか、眉が下がる。


 それでも、紫乃が何を確かめたかったのかは、今は分かる気がした。


「ここにいるって。あきとが言ってくれると、安心した」


 目を伏せた紫乃が続ける。


「だから、ほかにも言ってほしいこと、あったのに。同じことばっかり、お願いした」


 もう一度、首筋に指を伸ばしかける。紫乃は途中でその手を止め、制服の裾をつまんだ。


「あきとなら、いいって。思ってたから」


 勝手な信頼だ、と前の俺は思った。今も、なんでも応えられるわけじゃない。けれど、紫乃は何を求めていたのか、言おうとしている。


 紫乃の指が制服を強くつまんだ。


 長い間、答えはなかった。


 やがて。


「木曜日も、作った」

「……サンドイッチ?」

「ん」


 あの紙袋。


 昼休み、紫乃はずっと持っていた。


「また食べたいって、言ってほしくて。来るかなって、待ってた」


 俺はバンドメンバーと食堂にいた。約束していない。それは事実だった。けれど、その言葉で片づけたい話ではなかった。


「……帰って、自分で食べた」


 紫乃は小さく言った。俺は膝の上で手を握り締めた。謝ろうとして、けれど、口から先に出てきたのは、別の言葉だった。


「食べたかった」


 紫乃が俺を見る。


「また、作ってほしい。あれ、ほんとにうまかったから」

「……ブロッコリーも?」


 こんなときにも確認されるのか。


「あれは……ツナとチーズの頑張りが大きい」


 正直に言うと、紫乃の口元が動いた。笑いそうになって、でも、すぐに俯いてしまう。


「また、待っちゃう」

「じゃあ、いつにするか決めよう。今度は俺からも聞く」

「……ん」


 その返事をしたあとも、紫乃は顔を上げなかった。


「あきとが来なかったことより、嫌だったの」


 そう言って、言葉を継いだ。


「朝比奈さんと、笑ってたの」


 自動販売機の前で、俺は星鳴とふざけていた。あのとき紫乃が何を見て、何を思ったのか。今度は言葉を挟まず、その続きを待った。


「私、あきとが名前で呼んでくれるの、嬉しかった。私のこと、見てくれてるって」


 言うたびに、紫乃の肩が小さくなる。


「でも、朝比奈さんも、あきとって呼んでて。あきとも、せなって。近くで、普通に話してた」

「……うん」

「私がいなくても、楽しそうだった。そんなの、当たり前なのに。あきとは悪いことしてないのに。嫌だった。私が知らないあきとを、朝比奈さんは知ってるんだって。ずっと、考えてた」


 ほとんど囁くような声になっていた。


「私のほうが、近くにいたかった」


 そこまで言うと、紫乃はぎゅっと目を閉じた。


 耳が赤い。


 俺は口を開きかけ、何を言っても紫乃の言葉を軽くしてしまいそうで、一度閉じた。


 代わりに、身体を寄せた。


 長椅子が微かに鳴る。拳二つ分あった隙間を、一つずつなくしていく。肩が触れたところで、紫乃が目を開いた。


「……あきと」

「いま、紫乃が一番近い」


 紫乃は俺を見上げ、何度も瞬きをした。


 俺の肩に触れた腕は離れなかった。


「……ほんとは、来てほしかった」


 紫乃がぽつりと言った。


「今日も?」

「ん。今日も。この前も」


 俺の制服へ手が伸び、袖に触れる手前で止まった。


「でも、会ったらまた聞いちゃうから。私のこと、嫌じゃないかとか。まだ、会いに来てくれるかとか」


 止まった手を、紫乃は自分の膝へ戻した。


「もう一回、あの顔されたらって思ったら……こわくて」


 普通じゃない。あの言葉を言った俺は、どんな顔をしていただろう。紫乃が何を欲しがっていたかも聞かないまま、怒った。そのときの俺の顔が、今日も紫乃の言葉を止めていた。


「……怖がらせて、ごめん」


 俺が言うと、紫乃は小さく首を振った。


「でも、来てくれた」

「会いたかったからな」


 言い終える前に、袖が引かれた。紫乃の指が端っこをつまんでいた。ためらうように一度緩み、それから、さっきより強く握られる。


「わたし、重いかも」


 俯いたまま、紫乃が呟いた。


「その分たくさん詰まってるってことだな」


 紫乃の顔が上がった。


「……そういうこと?」

「話したいこと、まだあるだろ」


 紫乃は答えなかった。けれど、袖をつまんだ指がぎゅっと動く。


「今日だけじゃなくていい。また聞かせてくれよ」

「……今より、面倒かも」

「そんときは、そんときに考える」


 言ってから、足りない気がして続けた。


「一人で勝手に考えて、答え出すんじゃなくて。紫乃に聞く」


 紫乃は俺を見たまま、何度か瞬きをしていた。困らないとか、絶対に間違えないとかは、言えない。


 さっきまでだって、何度も言葉に詰まった。今も気の利いたことなんて浮かばない。それでも、紫乃が言い終える前に、話を終わりにはしたくなかった。


「……あきとも、言って」

「ん?」

「嫌だったら、嫌って。でも——」


 紫乃は唇を結び、もう一度開く。


「それだけで、終わらないで」


 俺は頷いた。


「ああ」


 ふと、紫乃の髪が目に入った。耳を隠すように下ろされた黒髪の間から、薄紫色が覗いている。


 それを見て、もう一つ、言いそびれていたことを思い出した。


「そうだ。水族館の日の髪、かわいかった」

「……髪?」

「編んでたやつ。服も似合ってた。見たとき、思ってたんだけど」


 紫乃が不思議そうに首を傾げる。


「今?」

「ずっと言いそびれてた」


 見た目の話をしていいのか考えて、それも、ずっと自分の中だけで止めていた。紫乃があの日選んだ服も、髪も、似合っていた。それを、今度こそ本人に伝えたかった。


「……おそい」

「だな」


 紫乃は前髪に触れ、横を向いた。


「自分で、編んだ」

「うまかった」

「……また、する」


 その声が恥ずかしそうで、こっちまで気恥ずかしくなった。


「見せてくれよ」

「ん」


 紫乃が俺の肩へ額を預けた。いつもの仕草。なのに、そこへ辿り着くまでに、随分遠回りをした気がした。


 シャンプーと桔梗の香りが、近くなる。


「……あきと」


 制服に顔を寄せたまま、紫乃が言った。


 袖を握る指に力がこもった。俺も何か答えなければと思ったのに、どこから息をすればいいのか一瞬分からなくなった。


「私、あきとがいい」


 今度は、さっきよりもはっきりと。


「……俺も、紫乃がいい」


 どうにか、それだけ返す。


 耳の奥で心臓が鳴っていた。さっきまで呼吸するだけで痛かった喉のことを、その間だけは忘れていた。


 紫乃は俺の袖を握ったまま、額をゆっくり離した。見上げてくる目に薄く涙が溜まっていて、それを見た途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。


「あきと、お願い——」


 俺は紫乃を見た。


 紫乃の手が襟元へ伸びかけ、そこで止まる。


 紫乃は一度目を伏せ、息を吸った。袖を掴んでいた指も、ゆっくりとほどく。


 そして、俺の方へ両手を伸ばした。


「抱きしめて。私が消えないように」


 俺は紫乃の背中へ腕を回した。


 最初は、どこに手を置けばいいのかも分からなかった。指先が制服の上を迷って、肩の下あたりで落ち着く。


 紫乃は自分から身体を寄せてきた。その分だけ腕を回し直すと、俺の背中にも手が触れた。


 ぎこちない抱きしめ方だったと思う。


 紫乃に袖を掴まれたことは何度もある。肩に頭を預けられたことだって。それなのに、自分の腕の中に紫乃がいるというだけで、頭の中の言葉が全部使いものにならなくなった。


「きんちょーしてる?」

「当たり前だろ」

「ん。同じ」


 声が近かった。


 視聴覚室で隣に座っているときよりも、電話で話しているときよりも。小さく漏れた息が、声になるところから聞こえる気がした。


 紫乃が背中の布を握る。


 俺も腕に力を込めた。ちゃんと抱きしめられているのか、分からない。けれど、紫乃は離れようとしなかった。


「……あきと」

「ん」

「どう? 私、いる?」


 髪が頬に触れた。桔梗の香りがして、紫乃が息を吸うたびに、腕の中の背中が動く。


 それだけじゃなくて。


 会えなかった間も、言いたかったことも、これから聞きたいことも。


「ああ、一番真ん中にいる」

「ん。そっか」


 紫乃は安堵したような声で呟いて、ぎゅっと強く俺を抱きしめてきた。


◇ ◇ ◇


 あの日から、三日が経った。


 火曜は風邪が悪化し、休むことになった。母からは月曜日の土砂降りも可愛く見えるほどのお叱りの雨が降り注いだ。


 熱が下がって登校した水曜日も、放課後はバンドの練習があって、紫乃と二人では会えなかった。


 クラスでも紫乃はいつも通り窓の外を見つめていて、俺は話しかけるのがちょっと恥ずかしくて。


 この三日間、LINEもほとんどしていない。


『風邪、引いた。休む』

『あきと、弱い』


 火曜日にしたそのやり取りだけ。


 なのに、不思議と落ち着いていた。


 もちろん、紫乃のことを考えなかったわけじゃない。というか、ベッドに寝転がっている間は、むしろ考えすぎていた。


 耳元で聞こえた声を思い出し、毛布を頭まで被って。暑くなって顔を出すと、また思い出す。


 風邪の療養としては、あまり効率が良くなかった気がする。


 木曜の放課後。視聴覚室の扉を開けると。


「ん、あきと」


 紫乃はいつもどおりの場所にいて、けれど、「となり」と言わなかった。


 机の上には本とスマホが並んでいて、置かれたカバンには——見える所にくらさぶろうとペンギンが並んでぶら下がっていた。


「おう」


 平静を装いながら返事をしつつ、近づく。その足取りは実に鈍かっただろう。


 冷静に考えたら、結構恥ずかしいこと言ったよな。中学のとき、夜中に衝動的に書いた歌詞ノートを、翌朝改めて見直したときの背中のむず痒さみたいな。


 俺、紫乃のことを特別だって言ったよな? それで抱きしめて、けれど紫乃はいつもと同じ様子に見えた。


 全部本心だ。けれど、本心だからこそ、今さら逃げる場所がない。俺だけが意識しているみたいで、なんとなく悔しい。そう思いながら、隣へ座ろうとしたとき。


「んっ」


 目が合ったと思ったら、すぐに伏せられてしまった。


 髪の隙間から覗く耳が、赤い。


 ……意識してくれている、のか?


 俺はカバンを置き、隣に腰を下ろした。座り直さなくても、腕が触れ合うところに。


「風邪、治った?」

「ああ。ご心配おかけしました」

「もう、走らないで」

「紫乃が逃げ出さない限りはな」

「ん」


 不服そうに紫乃は言って、それから珍味本を俺の方へずらした。


「これ、好き」

「これまた……おもんなさそうだな」

「あきと、センスない」


 別に、特別な話はしなかった。


 本の中でよく分からないことが起きた話。この前、紫乃が好きだと言っていた曲のベースが思った以上に難しくて、びっくりした話。


 五時になると紫乃がイヤホンを取り出して片方を渡してきた。


 結局、いまだにこれの理由はわかっていない。


 けど、それでいいと思えた。まだ知らないことはある。これから知っていけばいい。


 音楽を聴きながら本を読んでいたら、袖を引かれる。何かと思って顔を向けると、紫乃は本の一行を指さして笑っていた。


 俺もそこを読んで、意味が分からなくて笑った。


 時間だけが、あっという間に過ぎ去って。


「もう時間か」

「ん」


 最終下校時刻十分前のチャイムが鳴る。


 紫乃がイヤホンを片付け、本をカバンへ入れた。俺もスマホをしまうと、ポケットの縁でペンギンが小さく揺れた。


 紫乃が立ち上がったので、


「紫乃、一緒に帰らないか?」


 俺は意を決して、声をかけた。


 紫乃は一瞬だけ動きを止めたが、次には頷いた。


「ん。一緒」


 紫乃の背中を追って、俺も立ち上がる。


 扉に手をかけたところで、紫乃は立ち止まって振り返った。


「どうした?」


 尋ねると、紫乃は視線を泳がせてから、両腕を開いた。


「あきと——」


 首を傾げて上目遣いで俺を見て、


「ぎゅ、して」

「っ!」


 いや、それは……ズルすぎるだろ。



              ——了——



===============================================================


 お付き合い頂き、ありがとうございました。

 本編はこれにて完結です。以降は短編が不定期に上がります。

「これどうなった?」って要素はそちらで。

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