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「37度4分——まだ熱あるじゃない。寝てなさい」
月曜の朝。母は俺が渡した体温計を見て、眉をひそめた。俺が登校しようと制服に着替え、一階に降りたら熱を計れと言われたのだ。
「昨日より下がった」
「まだあるでしょ」
「大丈夫。薬飲んだし、マスクもした」
「そういう問題じゃないでしょ——」
母はまだ何か言っていたが、俺は制服のネクタイを締めた。正論だったけれど、今日は休むわけにはいかない。
昨日の汗たくさん作戦のおかげか、なんとなく体調は良くなったような気がする。多少頭がぼんやりしているが、登校はできそうだ。
喉は痛いし、身体は重いけど。それでも歩ける。
「行ってきます」
「ちょっと、秋斗!」
背中に母の声を浴びつつ玄関を出た。空を見上げると、今にも雨が降り出しそうな灰色をしている。
今朝、スマホを確認してみると。俺が『週明けの放課後、待ってる』と送ったきり、紫乃から返信は来ていなかった。
ぽつんと既読だけがついたまま。
「……紫乃」
気分を変えるようにマスクの中で一息を吐いて、学校へ向けて歩き出した。いつもの道のりが遠く感じるのはきっと、体調のせいだけではなかった。
教室へ入ると真っ先に窓側へ視線が向いた。前から三番目の席。紫乃はいつも通りそこに座っていて、頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
姿を見たのは久しぶりな気がする。実際は土日を挟んだだけなのだが。
と言っても、まだ何も始まっていない。俺はドア近くの自分の席にカバンを置いたところで——そのまま窓際へ向かって、歩き出した。
「おっす、秋斗。体調、大丈夫か——あ、おい」
背中に駿佑の声が飛んできた気がしたが、気にしている場合じゃなかった。緊張しつつ足を進め、
「紫乃」
名前を呼ぶと紫乃がこちらを見上げ、意外なものを見たというように目を見開いた。目が合って、数日ぶりに紫乃の瞳をちゃんと見た気がした。
何を言うか。何度も考えた。
ごめん。話したい。聞いてほしい。普通じゃないって言った意味は違う。好きだ。
その間にも、紫乃の見開かれた目は、驚きを隠すようにいつも通りに戻っていく。
どれも今言う言葉じゃない。教室には人がいる。
だから。
「——待ってるから」
それだけ言うと、紫乃の眠たげな瞳が大きく揺れた。ほんの一瞬、迷うように彷徨ってすぐに視線は窓の外へ逸らされてしまった。
俺はそれ以上は何も言わず、何事だ、と言いたげな周りの視線を無視して自分の席へ戻った。
必要なことは伝えた。来るかどうかは、紫乃が決めればいい。
俺は、いる。
自分の席に戻って、椅子に身体を沈め——ようとしたのに素材が固くて、無理だった。代わりに机に伏せた。頭が重かった。机も硬かった。
授業が始まると、ぼーっと黒板を眺めてノートを取る。咳をして、チャイムが鳴る。次の授業が始まる。午前中はずっと、そんな調子だった。
教室の置物として、俺はなかなか優秀な働きをしていたと思う。なんてことを考えてみても、気になることは紫乃のことだった。
「待つ」なんてカッコつけて内心で言ってみても、気になるものは気になる。それは昼休みになっても、大して変わらなかった。
「飯食う?」
「悪い、今日はいいや」
駿佑に聞かれ、断った。食欲はなかったし、今日は弁当を持ってきていない。母は登校すると思ってなかった。それを振り切ったのは俺だ。
窓側を見ると紫乃はいなかった。いつ教室を出たのか、気づかなかった。視聴覚室へ行ったのだろうか。
◇ ◇ ◇
六限目が終わると、帰りのホームルームになる。
「——ということで少し先だが、期末考査があるので勉強しておくように」
赤点が多いと私が怒られる、と黒川先生が付け加えるとクラスから笑い声が上がる。そんな中、俺は先生の話が今日はやけに長く感じていた。
「——以上。はい、解散」
その言葉と同時に俺は立ち上がった。椅子を机へ押し込み、カバンを掴む。横目で窓側を見ると、紫乃はまだ席にいて。
先に出れば待つことができる。今日ばかりはドア近くの自分の席に感謝し、教室から出ようとしたとき、
「あ、瀬戸」
背後から声が飛んできた。止まりたくなかったけれど、無視するわけにもいかずに足を止めた。
「……はい」
「ちょっと」
振り返ると、黒川先生が教卓の前から手招きしていた。なんで今日。そう思いながらも、渋々先生の元へ向かった。
「……なんですか?」
「進路希望調査」
「……はい?」
「先々週に金曜までと言ったはずだが、未だに提出されていない」
黒川先生が一枚の紙を俺に突きつけてきた。
「あっ」
それを見て思い出した。確かに先々週、朝のホームルームで言っていたような……見覚えがある。
この二週間、一度も存在を思い出さなかったモノ。たぶん、今もカバンの奥底に眠っている。
「早く出せ」
「今度でも」
「今、本来の締切をいつだと思っている」
「あ、明日……」
「今日」
「えっと……先生、今ちょっと人生でかなり大事な——」
「進路希望も人生でかなり大事だ」
「…………」
先生は「ほれ」と手に持っていた白紙の希望票を差し出した。
「瀬戸は進学希望か?」
「まあ……たぶん」
「じゃあ、進みたい大学と学部名を書け。ほれ、ペン」
先生が白衣の胸ポケットに挟んでいたボールペンを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
礼を告げ受け取る。書こうとして、手が止まった。
進路のことなんて真剣に考えたことがなかったことに気づいたからだ。駿佑とかとも——紫乃ともそんな話をしたことはない。
一分。二分と時間が進むたびに、指先が落ち着かなくなっていく。背後で次々と生徒が通り過ぎていく気配がする。
待ってると言った。
なのに。
「手が止まってるぞ」
「急かされると出ないタイプなんで」
「ちょっと書くだけだろ」
「それはそれで、将来への覚悟が」
「いいから書け。別に何を書いたところで何も確定しない」
「はぁ」
そう言われると何のために書いているんだ、と思いたくもなる。結局、知ってる大学の名前を希望欄へと書き、名前とクラスを記入して提出した。
「よし。はい、お疲れ」
「ありがとうございます!」
礼を告げると、返事も聞かず教室を飛び出した。走る。廊下にたむろしている人混みをすり抜け、渡り廊下を抜けて、旧校舎へ。
喉が焼けるように痛んだ。途中で咳が出る。足も重い。それでも止まらなかった。
紫乃は驚いた顔をしただけで、返事はなかった。
それでも。
階段を一段とばしで上がって、廊下の一番奥へ。視聴覚室の扉が見えた。いつもより遠く感じる。
「はぁ、はぁ……」
扉の前で止まり、膝に手をついた。呼吸が苦しい。
息を整えてから、ドアノブを掴む。
扉は今日もなんの抵抗も無く開いた。
「……紫乃?」
薄暗い室内。いつもの長椅子。窓際、前から二列目には——誰もいなかった。
「…………」
乱れた呼吸音だけが、荒く室内へ響く。
スマホで時間を確認する。黒川先生に呼び止められたとはいえ、終礼が終わってから、それほど時間は経っていなかった。
けれど。
教室に紫乃がいたのか、それを確認せずに飛び出してしまった。
もしかしたら、俺が先生と問答をしている間に紫乃が来たのかもしれない。俺がいないのを見て、帰った可能性も……。
いや、俺が先生と話していたのは見えていたはずだ。
なら、最初から来ていないのか。
「……くそっ」
中に入って誰もいない長椅子の前で立ち尽くす。もう一度、扉の方を見る。紫乃が今から来るかもしれない、そう思って。
少し考えて、俺はいつもの場所に座った。




