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家に帰った俺は、着替えるより先にベッドへ倒れ込んだ。また母に小言を言われるな、と思いつつスマホを取り出した。
紫乃とおそろいのキーホルダーが呑気に揺れていた。
「……紫乃っ!」
トーク画面を開くと、昨夜送った二つのメッセージに既読がついていた。さっき見たときにはついていなかったのに。
「…………」
けれどどれだけ待ってもメッセージが送られてくることはなかった。何度見ても変わらない画面を閉じて、すぐにまた開く。
繰り返してみたところで、何も状況は変わらない。
ならばと、
『今日は——』
こちらからなにか送ろうとして、そこまで打って指が止まってしまった。
今日は、なんだ。
今日は視聴覚室に行った。けれど、紫乃はいなかったとでも打つのだろうか。
バンド練習が終わったあと、最終下校時刻までごく僅かに時間が残っていることに気づき、部活棟を出たところでメンバーに別れを告げた。
もう帰っている可能性の方が高い。いつもだって十分前のチャイムで帰っているのだ。それでも、紫乃がいるかもしれないと思って。
三階の一番奥まで早足で向かう。いつもの扉に手をかけ、
「紫乃?」
中をうかがいながら、名前を呼んだ。
照明の消えた室内からは、返事はなかった。遮光カーテンの隙間から入る夕暮れの光だけが、微かに室内に滑り込んでいる。
窓際の前から二列目。
俺たちがいつも座っている長椅子には、誰もいなかった。
初めて話した日から、紫乃はいつも視聴覚室にいた。扉を開ければ座っていて、変な本を読んでいたり、音楽を聴いていたりして——。
振り返って、
『ん。あきと』
小さく笑ってくれる。
話すようになってから3週間くらい経ったころ、先生に呼び出されお説教を食らった時があった。その時は、視聴覚室に行ったのがほとんど最終下校時刻ギリギリで。それでも、紫乃はいた。
でも今は紫乃はいなくて。
「……そりゃ、そうだよな」
一度だけ、俺の方が先に来た日があったか。昼ごはんを一緒に食べる約束をした日だ。
誰もいない、急に広く感じた部屋で一人、紫乃を待ってた。
しばらくして扉が開き、紫乃が紙袋を持って入ってきた。あの紙袋には、俺のために作ってくれたサンドイッチが入って——昨日も同じ紙袋を持っていた。
「作ってくれたのか……」
誰もいない長椅子を見つめても、何も返ってくることはなかった。
帰ろうと一階まで降りたところで、足が自然と第二準備室の方へと向かった。
「雨宮先生?」
扉をノックしてみても返事はなく、ドアノブを回してみても鍵がかかっていた。
会って何を話すのだろう。「沈黙が気まずくて、焦って妹さんに不用意なことを言ってしまいました」とでも説明するのだろうか。
そのとき、今まで気にも留めていなかった疑問がふと浮かんできた——どうして、視聴覚室はいつも開いているのだろうと。
授業で使われることもほとんどない、旧校舎の端にある部屋だ。
紫乃と初めて話した日——かくれんぼをしていたときも、閉まっている部屋と開きっぱなしの部屋があった。視聴覚室は後者だった。
紫乃が鍵を持っているのか。雨宮先生が開けているのか。それとも、別の理由があるのか。
結局、俺は何も知らない。扉を開ければ紫乃がいて——それを、いつの間にか当たり前だと思っていた。
俺が何時に行っても、紫乃は先にいた。
紫乃がどうやってあの部屋へ入り、俺が来るまで何を考えているのか。そんなことさえ、聞いたことがなかった。
最終下校のチャイムを背に、俺は旧校舎を後にしたんだった——帰りのことを思い返していたら咳が出て、思考が引き戻される。
一度で収まらず、喉の奥から続けて込み上げてくる。何度か咳き込んでから部屋を出て一階に降りると、冷蔵庫の中から麦茶を取り出し飲んだ。
冷たい液体が喉を通ると一瞬だけ楽になるが、違和感はすぐに戻ってきた。
母の「着替え!」と「風邪?」の声を適当にやり過ごして部屋に戻る。
再びベッドに寝転んで、
『今日、視聴覚室に行った』
紫乃とのトーク画面でそう打って、消した。だからなんなんだ。行ったけれど紫乃はいなかった。雨宮先生もいなかった。
心配している。話したい。どちらも本当だけれど、それを送ってどうしたい。
俺は紫乃から返事がほしいだけなのかもしれない。返事をもらって、まだ完全には嫌われていないと、安心したいだけなのかもしれない。
入力した文字を消した。
代わりに、
『ごめん』
と打って、それも消した。何に対して謝っているのだろう。
声を荒らげたことか。「普通じゃない」と言ったことか。紫乃を特別だと言えなかったことか。昼休みに視聴覚室へ行かなかったことか。
スマホを置いて、少しだけ間を置いて、すぐにまた手に取る。
「……まあ、そうか」
何度開いても返信はなく、一番下に表示されているのは俺のメッセージだった。
「考えるか……ちゃんと」
宣言するように独りごちる。
明日は土曜日で、日曜日も予定はない。珍しく、丸々二日空いている。最初からちゃんと考える時間はある。
立ち上がり、スマホを伏せて机に置いた。一旦、スマホは見ない。そう決めてベッドに戻り、クッションを背に挟んで、壁にもたれる。
昨日のことを、最初から思い返す。
昼休み——俺はバンドメンバーと食堂にいた。約束はしていなかった。それでも紫乃は視聴覚室にいたのだろう。同じ紙袋を持って。サンドイッチをまた作ってくれて、待っていたのかもしれない。
放課後——視聴覚室へ行くと紫乃はいて、隣に座っても近づいてこなかった。星鳴とは何もないと伝えた。
でも、紫乃が聞いていたのはそれだけじゃなかった。
『あきとは、誰にでも優しい』
そこまで思い返して、目を閉じた。
紫乃が言いたかったこと。
『私だけじゃない』
あのときも分かっていた。分からなかったわけじゃない。紫乃は俺にとって自分が他の人と同じなのかを聞いていた。
違う。その時だって、今だって、違うと言い切れる。
吉田へ声をかけたのとも、星鳴とくだらない話をするのとも違う。
雨の中を探して、会いたくて視聴覚室へ行って、紫乃の表情が見たくて水族館へ誘った。声が聞きたくなって、大した用もないのに電話した。
好きだ。
その答えだけは、もうずっと前から分かっている。
それなのに。
『どう違う?』
聞かれた俺は、何も言えなかった。
「…………」
雨宮先生の言葉を思い出す。
あの日から、何度も考えた。俺の存在が紫乃の中で大きくなって、そこで俺が何かを間違えたら——傷も大きくなる。
だから慎重にならなければいけない、そう思っていた。
紫乃のため——。
「……違うな」
遮るように声に出した。喉に何かが引っかかって、咳が一つ混じった。
本当に紫乃のためだけだったのか。
好きだと伝えて、もっと近づいて。それで何かを間違えたら。
紫乃が傷つく。
それだけ、じゃなくて——俺が、傷つける。
その事実が怖かった。
だから言わなかった。言えなかった。どうしても「好きだ」の一言が出てこなかった。
紫乃のためだと、傷つけないためだと言って。
俺は、自分が紫乃を傷つけた人間になるのが怖かっただけじゃないのか。
『傷つけるかもって考えたら、誰とも関われなくね?』
駿佑の声が蘇る。三年前、俺たちは三週間も話さなくなった。それでも今、一緒にバンドをやっている。少なくとも、俺は親友だと思っている。
傷つけたことがなくなったわけでも、なかったことになったわけでもない。それでも、今ここにいる。
「…………」
俺は紫乃を傷つけたくない。それ自体は嘘じゃない。
けれど、傷つけたくないから。そうやって距離を取れば、俺は間違えなくて済む。責任を負わなくて済む。
だから今日も階段を登らなかった。怖かっただけ。会いに行って、「来ないで」と言われるのが。
「……最悪だな」
紫乃のためだと思っていた。
けれど結局、俺は——紫乃を傷つける責任から逃げていただけだった。
一人で考えてみると、すんなり答えは見つかった。
探したというより、目の前にあったのに俺が見えていないフリをし続けていただけ、なのかもしれない。
立ち上がり、机に置いたスマホを手に取る。時間を見ると、帰ってきてから2時間も経っていた。
何を書けば全部伝わるのかは、分からない。昨日のことを文章だけで全部説明できるとも思わない。
『ちゃんと話したい』
そこまで打って、指を止める。
自分の中で整理できているからといって、それを紫乃の前で上手く言葉にできるかも分からない。
それでも、紫乃から何か言ってくるまで、何もしないのは違う気がした。消して、新しく文字を打つ。
『紫乃と話したい』
送信。続けて、もう一つ。
『週明けの放課後、待ってる』
どこで、なんて書くまでもない。
送った二つのメッセージが、先のメッセージと並んだ。
既読がつくかは確認せず、スマホを伏せた。そのまま風呂に入るために、一階に降りた。そろそろ母の催促が来る時間だ。
紫乃が来るかどうかは分からない。それでも今度は俺が待つ番だと思った。




