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放課後、視聴覚室の扉を開けると、紫乃はいつもの長椅子に座っていた。
「あきと」
振り返り、いつもと同じ声で、同じ言葉を言う。
けれど俺が隣に座っても、距離を詰めてこなかった。拳二つ分の距離。俺が一つ分詰めてみても紫乃は動かない。視線を落としたまま、スカートを握り黙っている。
紫乃のカバンの横には、小さな紙袋が置かれていた。昼に紫乃が持っていた紙袋。昨日、サンドイッチを入れていたものと同じ袋だ。
「えっと、星鳴とは……なんもないから」
何を聞かれたわけじゃないのに、勝手にそれが口から出ていた。それだけが口から出て、その先は出てこなかった。
室内に沈黙が降りた。
古い空調の音に俺の咳払いが混ざる。午後の授業あたりから、どうも喉の調子が悪い。
「あきと——」
しばらくして、紫乃が口を開いた。
「朝比奈さんと……仲いい?」
「星鳴? まあ、同じ軽音部だし……二年になってからは、同じバンドだし」
昼に見られた光景を思い出した。星鳴が跳ね、俺へ身体を寄せていたところ。俺を見る紫乃の眠たげな瞳が、何かを確かめるように揺れている。
星鳴とは高校からの付き合いだ。持ち前の明るさで距離を詰めてくるので、話すようになるまで時間はかからなかった。
「せなって」
「ん?」
「……名前」
紫乃は小さく呟いた。
バンドメンバーはみんな名前で呼び合っている。まあ、伊織のことは榊と呼んでいるけど。『榊』という感じの存在で、その方がしっくりくるだけ。
バンドを組むまであまり関わりがなかったし、組んでからも二人で話したことは数えるほどしかない。だからといって、別に苦手というわけでもないが。
「朝比奈さんも、あきとって呼ぶ?」
「まあ、そうだな」
紫乃の指先が、制服のスカートをさらにぎゅっと握った。
「あきと、吉田さんにも、優しかった」
「吉田?」
話の筋が掴めず、困惑を出してしまう。
「話しかけてた」
そう言われて、家庭科の調理実習を思い出す。ここ最近で吉田と話したのは家庭科の時だけだ。闇鍋みたいな班の中で戸惑っていた吉田へ、料理ができるか尋ねただけ。
べつに、優しくしようとか思って声をかけたつもりはない。
「あきとは、誰にでも優しい」
「そんなことは——」
「困ってる人がいたら、話しかける」
「それは……べつに普通だろ」
「ん。あきとは優しいから」
褒められているはずなのに、そう言う紫乃の声は沈んでいた。
「だから——私、だけ、じゃない」
紫乃は視線を落とし、確かめるように呟いた。
「私だけじゃ、ない——」
「そういうことじゃ」
事実を確認するような声音なのに、微かに震えていた紫乃の言葉を反射的に否定した。
俺が紫乃を好きだという答えは、もう分かっている。
言えばいい。
けれど、俺はどこまで近づいていいのか、まだ分かっていない。そんな状態で特別だと伝えて、紫乃の中にもっと深く踏み込んでいいのだろうか。
頭の隅で雨宮先生の言葉が浮かび上がってくる。普段は水面に息を潜めているのに、こういう考えをしたときだけは、きっちり浮上してくる。
存在が大きくなれば、傷も大きくなる。
「紫乃は……」
そこで言葉は止まった。俺の返事を待っていた紫乃の瞳から、期待のようなものが少しずつ消えていく。
吉田へ声をかけたこと。星鳴とくだらない話をしたこと。困っている人がいたら手を貸すこと。
それと紫乃は違う。雨の中を探した。紫乃に会うために視聴覚室へ来た。水族館へ誘った。声が聞きたくて電話をした。
答えはもう分かっている。
「……違う。紫乃は……違うだろ」
ようやく、それだけを絞り出す。自分で口にしていて、ひどく曖昧な答えだと思った。
「どう、違う?」
「それは……」
その一言が、どうしても出てこない。好きだと伝えて、その後に俺は何を約束できる。何かを間違えて、今より深く傷つけないと言い切れるのか。
それをうまく言葉にできない自分にも腹が立つ。
「やっぱり、同じ?」
「だから、違うって」
言葉を重ねるほど、追い詰められていく。違うと伝えたい。特別だと伝えれば済む。全部、紫乃だけだ。けれど、それを言えばもう好きだと伝えるのと同じになる。
紫乃の手が自分の首筋へ伸びた。細い指が、白い肌へ触れる。
「私……変、だから?」
「なんで、そう、なるんだよ」
何度目か分からない沈黙が降りた。
何か言おうとするたびに、何も言えなくて。そこで、ふと明日の予定をまだ伝えていないことが頭をよぎってしまって、
「明日は……来れない」
その言葉だけは、するりと出てきた。自分でも言った直後に分かった。最悪のタイミングだ。けれど、鳴らした音はもう戻らない。
「会いたくない?」
「違う。元から予定があって。バンドの練習が前から決まってた」
言い訳じみた言葉だけは淀みなく出てきて、余計に自分に腹が立つ。
「いい」
「よくないだろ」
紫乃は首筋を撫で、一拍、間を空けて呟いた。
「あきと——」
「そういうの、やめないか?」
まだ紫乃は何も言っていないのに、首筋を撫でる仕草を見て反射的に言ってしまった。思っていたよりも強い声が出て、紫乃の指がピタリと止まる。
「…………。やっぱり、嫌?」
「嫌、とかじゃなくて」
どうして、またそこへ戻る。
昨日、父親のことを話してくれた。もっと聞かせてくれと言った。目を逸らさないと決めた。それでも、紫乃は首へ触れようとする。
危ないからやめてほしい。そんな方法でなくても、俺は紫乃を見ている。そう伝えたいのに、焦るほど言葉が崩れていく。
「じゃあ、どうして」
「だって、そういうのは——」
「私、どうでもいい?」
「違う」
「朝比奈さんには、しない?」
「何の話だよ」
「私が変だから?」
「だから、そういうのやめろって言ってるんだよっ!」
紫乃の肩が小さく震えた。
声を荒らげる必要なんてなかった。紫乃は俺を困らせたいわけじゃない。けれど、何を言えば正しく伝わるのか分からない。
胃の底へ熱いものが溜まっていく。
「普通じゃないだろ……そんなの」
思わず口から出た瞬間、時間が止まったような気がした。
首筋へ添えられていた紫乃の手が、力なく膝の上へ落ちる。
「違う。今のは紫乃がって意味じゃなくて。首とか、そういう——」
「ん」
紫乃は短く答えた。いつもと同じ返事。けれど、何一つ伝わっていないことだけは分かった。
「紫乃、俺は——」
「分かった」
遮るように言う。紫乃はカバンを肩にかけ、隣に置かれていた紙袋も一緒に持ち上げた。
「待ってくれ。違うんだって」
「ん。違う」
立ち上がった紫乃の顔は、教室で窓の外を眺めているときと同じ、静かな顔をしていた。
引き止めなければ。けれど、紫乃は俺を見ることもなく、紙袋を胸の前で抱え扉へ向かう。
「紫乃」
名前を呼ぶと、扉の前で一度だけ止まった。いつもなら振り返って、小さく手を振り、「また明日」と言うはずで。
けれど今日は背中を向けたままだ。
「待って——」
「私、一人でいい」
それだけ言って、扉が閉まる音がした。
また明日がなかった。その言葉がないだけで、いつもの視聴覚室がひどく遠い場所になった気がした。
部屋には紫乃がいた痕跡も、紙袋も残っていない。追いかけなければと思ったのに、身体が動かなかった。
紫乃が抱えていた、昨日と同じ紙袋。昼休み、紫乃は視聴覚室で俺を待っていたのだろうか。
約束はしていない。けれど、それを言うなら、放課後だって約束しているわけじゃない。
紙袋の中に何が入っていたのかは分からない。今日も俺が来ると思って、またサンドイッチを作ってくれていたのかもしれない。
普通じゃない。
自分が口にした言葉だけが、何度も頭の中で繰り返されていた。




