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家に帰った俺は一人、紫乃のことを考えていた。LINEのアイコンをタップし、紫乃とのトーク画面を開いて。
『紫乃——』
メッセージを打ちかけては、消す。打っては、消す。
何を送るべきなのか。考えるほど、分からなくなっていく。
さっきから、思考がものすごい速度でぐるぐる回っている。駿佑の言葉。雨宮先生の言葉。そして——俺自身。
ふと、画面の右上にあるボタンが目に入る。LINEを交換してから、メッセージを何度も交わした。けれど、電話をしたことはない。
「……電話、か」
時刻を確認すると、すでに22時を回ろうとしている。
こんな時間に迷惑じゃないだろうか。寝る準備をしているかもしれない。そう考えている間にも、指は電話マークの上を彷徨う。
別に、何か用事があるわけじゃない。ただボタンが目に入った瞬間、紫乃と話したい。そう、思ってしまって。
結局、勢いに任せて押した。
聞き馴染みのある呼び出し音が鳴る。早鐘を打つ心拍とは対照的にテンテケ、テンテケと呑気な調子で繰り返される。
一回、二回と続くごとに、やっぱり先に電話していいか聞くべきだったか、という思いが押し寄せてきた。
あと一回、呼び出し音が鳴ったら切ろうか、と思ったところで、
『……あきと?』
耳元から、紫乃の声が聞こえてきた。いつもと同じ低く平坦な声。けれど、どこか機械っぽい。なのにすぐ隣で囁かれているみたいで、妙にこそばゆい。
「あ、ああ……悪い、急に」
『どうしたの?』
「いや……特に用はないんだけど」
『ない?』
「……ないな」
一瞬、妙な間が生まれる。電話してきて、用件はないと言う。紫乃が困惑するのも無理ない。
『間違えた?』
「違う——」
即座に否定する。その先の言葉を探し、僅かな沈黙のあと、
「……紫乃と、話したくて」
本心を告げた。変な嘘や誤魔化しを口にするのは、違うと思った。途端、全身が急激に熱くなっていく。
『…………。ん』
しばしの間を空け、控えめな返事が聞こえた。スマホの向こうの声は、笑っている気がした。
「電話しても、大丈夫だったか?」
『大丈夫。今、ベッド』
布が擦れる音がした。
『あきと、なにしてた?』
「ベッドに寝転がってた」
『ん。同じ』
姿は見えない。表情も分からない。それなのに、呼吸の音や、笑い声の余韻まで耳に届く。視聴覚室より遠いはずなのに、いつもより近く感じる。
「せ、先生は?」
『お姉ちゃんは、もう寝てる。お腹出してる。たぶん』
紫乃が小さく笑う。
話し始めると、どうでもいい話が続いた。今日のサンドイッチのこと。ブロッコリーは必要だったのか。新しい珍味本の話。音楽の話。
話題が途切れて無言になれば、紫乃の呼吸が聞こえる。けれど、電話を切ろうとはしなかった。
しばらくして、紫乃がぽつりと呟いた。
『あきと』
「ん?」
『この前の話』
思わずスマホを握る手に力が入る。あのとき、雨宮先生が入って来る前にしていた話。
『「分かりたい」って言ってくれた』
電話の向こうで、紫乃が深呼吸をした。
それから、「だから——」と前置きをして、続けた。
『あきとに、聞いてほしい』
「ああ」
短く返し、紫乃を急かさないように言葉を待つ。
やがて、
『お父さん』
「……お父さん?」
『私のこと、聞いてくれたの』
紫乃は途切れながら、少しずつ話し始めた。
『紫乃は、どっちが好きって』
小学生のころ、誰かに怖い顔をしていると言われた日も、
『お父さんは、そんなことないよって』
元気がないときも、話を聞いてくれた。
『いつも隣にいた』
俺は何も口を挟まずに聞いていた。
『ぬいぐるみ作りたいって言ったら、道具を買ってくれた。本も、大きな図書館に連れて行ってくれた』
紫乃の声が、わずかに震えだす。
『それで、小学校の時』
「…………」
『病気で入院してた。治るって思ってた』
何を返せばいいのか分からなかった。大変だったな。辛かったな。そんな言葉が頭に浮かんだが、どれも紫乃の話を簡単にまとめてしまう気がした。
『お父さんがいなくなってから』
「……うん」
『みんなが似合うって言うものが、私なのかなって』
周りが作った『成瀬紫乃』。
「紫乃は、お父さんのこと好きだったんだな」
『ん』
その声は小さかったけれど、迷いはなかった。
『最近は——』
紫乃の呼吸だけが聞こえる。
『あきとと、お姉ちゃんがいるから』
俺も何も話さず、スマホを耳へ当てたまま天井を見上げた。姿は見えない。それでも、確かにそこに紫乃がいる。
『あきと』
「ん?」
『今日、電話してくれてよかった』
「俺も」
『また、していい?』
「もちろん」
時計を見ると、日付が変わりそうになっていた。
「そろそろ、切り上げるか」
『ん。おやすみ』
「おやすみ」
そう言葉を交わした。
けれど。
『切らない?』
「紫乃こそ」
妙な沈黙が降りてきた。
その間が妙におかしくて、二人で笑う。
クスクス笑いあったあと、紫乃が先に口を開いた。
『あきと——』
「ん?」
『あきとには、私を見てほしい』
「ああ。目を逸らさないようにする」
『……ん』
小さな返事のあと、布の擦れる音がした。顔を枕に埋めたのかもしれない。
「今日、話してくれたこと。忘れないから」
『ん』
「全部分かった、とは言えないけど」
『……うん』
「だから、また聞かせてくれ。紫乃が話したいときに」
『ん』
また沈黙が流れた。
けれど、さっきまでとは違って気まずくはない。
「じゃあ、今度こそ切るか」
『ん』
「せーので」
『せーの』
スマホを耳から離そうとして、止める。
『……切らないの?』
「紫乃もだろ」
『ん』
小さな笑い声が重なった。
「俺が切るよ。おやすみ、紫乃」
『おやすみ。あきと』
今度こそ通話を終える。急に静かになった部屋で、通話時間だけが画面に残っていた。
すべて分かったわけじゃない。紫乃自身も、まだ言葉にできていないことがあるのだと思う。けれど今日、紫乃は父親のことを自分から話してくれた。俺になら聞かせてもいいと、そう思ってくれた。
そのことが嬉しくて、同じくらい重かった。スマホを胸の上へ置き、目を閉じる。
目を逸らさない。
さっき口にした言葉を、もう一度、心の中で繰り返した。




