30
30
「ベース」
放課後、視聴覚室へ入った俺の背中を見つめながら紫乃は言った。
今日は駿佑とスタジオへ行くので、朝からベースを持ってきていた。先ほど、時間になったら現地集合する約束をして、駿佑とはいったん教室で別れた。
「ああ。駿佑とスタジオに」
「桐山くん」
「知ってんだな」
「同じクラス」
心外だとばかりに紫乃は口を尖らせた。
「見せて」
「ベース? いいけど」
紫乃は立ち上がり、視聴覚室の前方に回った。黒板とプロジェクター用のスクリーンが下ろせる一段高くなっている場所。その段差に腰掛けた。
俺もいつもの——前から二列目の机と椅子を通り過ぎて、紫乃の隣に座った。いつもは背にしている蛍光灯が、いちばん遠くでぼんやりと光っている。
背負ったケースを床に置きファスナーを開く。中からナチュラルカラーの木目が特徴的なベースが顔を出した。その様子を、紫乃は興味深そうに覗き込んでいた。
「ん。五弦ベース」
「かっこいいだろ?」
「なんて、読む?」
「エキゾチック」
紫乃がヘッドに描かれたロゴを見ながら尋ねてきたので、俺は少し自慢げに言った。
『Xotic XJ-1T 5st』。
去年の夏休みを全部バイトに注ぎ込んだ末、手に入れたお気に入りの一本。ピックアップに金属感がなくて木の棒みたいなところとか、上手くは言えないがビジュアルがめちゃくちゃいい。もちろん音も。
「興味あるのか?」
「ん。触ってもいい?」
「もちろん」
ストラップを短めに調整し紫乃へ手渡す。受け取った紫乃はベースを提げ、立ち上がった。ネックを左手で支え、右手を弦の上に置いてポーズをとる。
ベースは紫乃の細い身体には大きく見えたけれど、背が高いおかげでバランスはいいように見える。
その姿は妙に似合っていた。
高身長ショートカットの女の子がベースボーカルを務めるバンド——。
ありだな。というか探せば普通にいそうだし。
「ちょっと、重い」
「四キロくらいあるからな」
このベースに至っては四捨五入したら五キロだ。
「紫乃、弾けるのか」
「任せて」
「経験者?」
「ん」
紫乃は自信ありげに頷いた。期待して見ていると、左手で一番太い弦を押さえ、右手の人差し指を曲げて。
べぃんっ。
別の弦を押さえ弾く。
べぃん。べぃん。べべぃん。
リズムも音程もなく、ただ思いついた場所を思いついた様子で鳴らしていく。
押さえ方が甘くて音がしっかり出ない。初心者だとしたら、そんなもんだろう。けど、あの自信ありげな顔はどこから出てきたんだ。
本人はいたって真剣な眼差しで弦を見つめている。ときおり首を傾げながら、何かを確かめるように音を重ねている。
やがて、紫乃は満足そうに俺を見上げてきた。どこか、やってやった感を滲ませながら。
「なんというか……独創的な演奏だな」
「ん」
まあ、音楽に不正解はない。クラシックでは禁とされている音使いを最近の曲は平然と使う。良い悪いではない。ジャンルが違うと作法も変わるだけ。
そういう意味では。
「自由律、みたいな?」
「……ほめてる?」
「もちろん。紫乃っぽい」
言うと、紫乃は視線を落とし小声で呟く。
「私……っぽい」
「……紫乃?」
その言葉が気になったが、俺が尋ねる前に「ありがとう」と、ベースを返してきた。俺は受け取って、ベースをケースに戻す。
その後はいつも通り他愛のない話をしていた。
一つ違ったのが、そのまま前方の段差に座ったままだったことで、見える光景が少し変わるだけで、雰囲気も違う気がした。
そんな穏やかな空気感の中、さっき紫乃が零した言葉だけが、なぜか胸に残っていた。
あっという間に時間は過ぎていって。
スマホで時間を確認したときには、五時を回っていた。
「やべっ、悪い。そろそろ行くわ」
「ん。また、明日」
紫乃は立った俺を見あげ、小さく手を振った。それに俺も手を上げて応える。
紫乃を視聴覚室に残して部屋を出た俺には何かが胸に引っかかったままだった。
◇ ◇ ◇
スタジオへ入ると、先に来ていた駿佑がドラムを叩くのを止める。
「悪い。遅れた」
「お疲れ。まあ、3分なら許してやろう」
スティックを回しながら答える駿佑。
「寛大なことで」
「二時間あるけど、どうする?」
「あれだ、いったん榊の曲合わせるか」
「ありだな」
ベースをアンプに繋ぎチューニングをして、セッティングを進めていく。伊織が送ってきた『閃光未満』。今度、バンドメンバーで合わせる予定なのだから、ベースとドラムのかみ合わせは確認しておくべきだろう。
「とりあえず、ノリで」
「だな」
俺のセッティングが終わったと見ると、駿佑がスティックを鳴らしてカウントを取る。
Aメロは全音符がメインなので、バスドラムと鳴らすタイミングがずれないように。Bメロから音数を増やす。
サビ前のブレイクで、互いに目を合わせる。視線を伝って、ドラムの呼吸が伝わってくる。
サビに入ると腹の底を揺らす低音の上を、脳内で鳴る伊織の声が真っすぐに駆け抜けていった。
「一回目にしては、悪くないな。けど——」
弾いて、止めて、相談して、もう一度合わせる。弾いて、止めて、相談のループ。
「——まあ、こんなもんか。あとはバンドで調整だな」
「だな。もう一時間経ってる」
駿佑の言葉に、俺も頷いた。気づけば、一時間はあっという間に過ぎていた。
スタジオでの時間はあっという間だ。一時間なんて、5分の曲を10回合わせたら吹き飛んでしまう。だから、ここでの一分一秒は他よりも重い気が、いつもする。
「五分、休憩するか」
だからといって、詰め込めばいいというわけではない。集中力を保つためにも休憩は必須だ。言いながら、ベースをスタンドに立てかける。隅に積まれていた丸椅子を一つ取って、腰を下ろした。
「秋斗——」
駿佑がなんとなしに呟いた。壁に背を預け、天井を見上げている。
「——成瀬さんと付き合ってんの?」
「はっ!?」
いつもの軽口だろうと思っていたのに予想外すぎる。俺の調子外れな声に何の反応も見せず、天井を見つめたまま続ける。
「いや、さっきは教室だったから流したけどさ、手繋いでる姿見たって。ものすごい勢いで半田が戻ってきたから」
半田はいつも一緒に昼飯を食べているメンバーの一人だ。教室で言っていた『さっき一緒に歩いてたってタレコミが』の情報元らしい。
「……いや、手は繋いでないけど」
「え、でも手引いて廊下歩いてたって、半田が」
紫乃は俺の制服の袖を掴んでいた。袖口——いつも紫乃はそこをつまむ。角度によっては見えなくはないのか?
「それで、付き合ってんの?」
「いや……付き合ってはない」
まあ、駿佑とは長い付き合いだ。俺が紫乃を好きだと言っても言いふらしたりはしないだろう。紫乃だって、見られてもいいと思ったから一緒に戻ると言ったわけで。
思わないようにしていたけど、紫乃と一緒に校内を歩いていた事実を突きつけられると、やけに気恥ずかしくて、
「…………まだ」
弱い声で付け足すだけだった。




