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「ん。あきと」
放課後、視聴覚室の扉を開けると紫乃はいつもの長椅子に座っていた。
「となり」
振り返りながら、隣をぽんぽんと叩く。
昼休みに紫乃の姉——雨宮先生に言われたことが、まだ頭に残っていた。
その言葉をどう受け止めればいいか答えは出ていない。どうするべきなのかも、まだ分かっていない。
分からなくても、ここへは来た。紫乃と交わした「また明日」を抱えて。俺はいつも通り拳二つ分くらいの距離を空け、紫乃の隣へ腰を下ろした。
よし。
内心でつぶやいてから、俺は腰を横に滑らせた。
離れたなら近づけばいい。いままでは、紫乃が近づいてくるのを待っていた。そうじゃない。俺から近づいたっていい。
そう思って。
「え」
「ん」
すると、紫乃も同じタイミングで動いていたみたいで、互いの腰が軽く当たって小さな音を立てた。
紫乃を見やると、向こうも俺を見つめてきていて。
そのまま、至近距離で見つめ合う。
紫乃の眠たげな瞳が、微かに見開かれている。
部屋に静寂が降りてきた。
古い空調の音にかき消されそうなほど小さな紫乃の息遣い。ほのかに香る桔梗の香水。
そして、すぐ近くには紫乃の整った顔があって。
目なんていつも合わせている——はずなのに。
「っ!」
俺は恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。紫乃も視線をそらし、代わりにと俺の制服の袖をちょこんとつまんできた。
横目で見ると、紫乃は頬を薄く染めていた。なんだか、今までとは別の意味で変な空気だ。単純に紫乃の顔を直視するのが恥ずかしい。
「……お姉ちゃん、何か言ってた?」
「え?」
俺の動揺を知ってか知らずか、先に口を開いたのは紫乃だった。
ただ、内容が少し意外だった。
先生と話したことは、誰にも言っていない。言われたことを、紫乃に話すつもりもない。言っても紫乃を困らせるだけだろう。
「呼ばれてた、準備室」
「あ、ああ、そっち」
校内放送で呼び出されたのだから、紫乃が聞いていてもおかしくはなかった。
「ちょっと昔の話、聞いた。両親の話と——」
今は姉妹二人で暮らしていること。学校では紫乃との関係を伏せていること。あったことをそのまま話した。いちばん重要なところは伏せて。
紫乃は表情を変えずに聞いていた。両親について触れても、袖をつまむ手にも表情にも変化はなかった。
「——あと、ここしか受かんなかったって話も聞いた」
「ん。お姉ちゃん、ちょっとドジ」
俺が話のオチのように笑いながら言うと、紫乃も小さく笑った。
「まあでもびっくりしたな。いきなり校内放送で名前呼ばれて、行ってみれば……姉君様がおられるし」
知らないうちは「姉」とか自由に呼べた。ただ、知ってしまった以上、しかも思ったより近くにいると分かって、紫乃の前でなんと呼べばいいのか迷って。
結果、思いついた中で多分……いちばん謎な選択をしてしまった。
まあ、雨宮先生が無難なんだろう。千景先生とか言うと馴れ馴れしいかもだし。
先生を——しかも紫乃の身内を名前で呼ぶとか、家族ぐるみの付き合いっぽくて……なんか恥ずかしいし。
紫乃は一瞬、きょとんとした顔をしつつも、
「いつも、あそこでぐーたらしてる」
はんぶん呆れたように言った。
「ぐーたら……」
靴を脱いで椅子を揺らしながら菓子と惣菜パンを食べていた姿を思い出す。教師然としていた姿と溶けそうな姿。
「……家でも、いつもあんな感じなのか?」
尋ねると、紫乃は思い返すように視線を空にやる。
「もっと」
「マジか」
「溶けてる。土日は特に」
「マジか」
あれ以上があるのか。
「ん。だから家のことは、私がしてる」
紫乃が家で家事をしている姿を思い浮かべた。
エプロンをつけた紫乃。玄関で「いってらっしゃい」と「おかえり」を言ってくれる紫乃。そんなことを考えていると、紫乃は「でも」と続けた。
「ご飯だけは、お姉ちゃんが作ってる。ご飯もやるって言ってるけど、譲ってくれない」
「料理好き、とか?」
「たぶん、ちがう?」
「なんで疑問形?」
紫乃は少し考える素振りをする。
「毎回めんどくさそうに、レシピサイト見てるから」
「よくわからんな」
料理は毎回レシピを見ながら作るのに、紫乃へは任せない。それは、姉として先生なりに何かを決めたことなのだろうか。
「料理も紫乃がやってるのかと思った。調理実習のときも普通にこなしてたし」
家庭科の調理実習で見た紫乃は、手慣れているとまではいかなくても、まったく経験がない動きには見えなかった。
「ん。お姉ちゃんが起きてこないときにちょっとだけ」
紫乃が小さく頷いた。先生の話をする紫乃の表情はどこか穏やかで、互いに想い合っているのだろうなと伝わってきた。
「起きてこない?」
「ん、休みはずっと布団にいる。イモムシみたいに」
「マジか」
「マジ」
俺が笑うと、紫乃も笑った。先生が布団にくるまっている姿が用意に想像できた。
「そういえば先生って、前からここに来てたのか?」
昨日、迷いなく視聴覚室へ入ってきたことを思い出して尋ねる。俺が紫乃とここで話すようになってから一ヶ月は経っている。その間、先生が来ることはなかった。
「前はたまに、最近は来てない」
「最近?」
「お姉ちゃん、家でいつも私の顔を見てる」
紫乃は自分の頬へ指先を添えた。
「それで、様子を見にくる。でも、最近は——いい顔してるって」
「いい顔?」
「ん。それで来なくなった」
最近はいい顔をしているから、様子を見に来なくなった。先生はずっと前から紫乃の小さな変化を見てきた。だからこそ感じ取れるモノがあるのだろう。
「あきとと——」
紫乃は、ぽつり呟いて、
「話すようになってから」
言うと同時に、すっと窓の方へ顔を向けてしまう。袖をつまむ指先に力がこもっている。
『紫乃が君を信頼していることは、疑っていない』
雨宮先生の言葉が浮かんだ。俺と話したおかげで紫乃がいい顔をしている。これは自惚れではなく、事実としてあるのだろう。
けれど、それと同時に考えてしまう。そんな先生が昨日は来た。つまり紫乃の表情を見て、何かを感じ取ったということだ。それだけの顔を紫乃がしていた。
紫乃といっしょに水族館に行ったあの日。家で一人、頭の片隅で考えていたことが、じわりじわりとにじり寄ってきた気がした。




