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「あま、みや?」
俺が真っ先に引っかかったのはそこだった。
「ああ、学校では母の旧姓を使っているんだ」
それから先生は、両親が離婚し紫乃は父方で先生は母方で育てられたこと。父親は早くに亡くなってしまい、それからは三人で暮らしていたこと。
しかし数年後、母親も後を追うように他界したことを説明してくれた。
「まあ、気にするな。ありふれた話だ。離婚もべつに夫婦仲が原因じゃないしな」
「……なるほど」
「そんなわけで、紫乃ともなるべく関わらないようにしている。学年も担当も完全に別。関わると『贔屓』だなんだって、事実じゃなくても、そういう目が向くからな」
成瀬先生という名前に覚えがなかったのも当然だ。
「あんまり似てないからな。言わなきゃ分からんだろ」
「まぁ……面影は何となく」
二人が隣に並ばなければ、『芸能人の〇〇さんと〇〇が似ている!?』みたいな粗悪記事に載りそうな似ている度だ。
要するに、似ていると言われれば似ているし、似ていないと言われれば似ていない。
「本当は学校も別にするべきなんだろうが……ここしか受からなくてな」
「ここに受かるなら他にも選べるのでは?」
うちの学校は偏差値的には六十前半だ。ならば他の学校も選択肢に入ると思うのだが。俺の困惑を雨宮先生は「ああ」と察した様子で。
「あ、私のほうな」
「そっちかよ」
思わずタメ口でツッコんでしまった。
教師かつ紫乃の姉だ。いい印象を持たれるに越したことはないはずなのだが……どうも気が抜けてしまう相手だ。
肝心の先生は気にした素振りもなく、クスクスと笑っていた。その笑い方はどことなく紫乃を思わせる。
「それに二人暮らしだ。近くに職場があったほうが何かと都合がいい。教師は知っているが、生徒は知らない。君も余計なことは言わないように」
「分かりました」
俺が頷くと雨宮先生はうむ、と頷いた。
「それで、君と紫乃はどういう関係なんだ?」
「どういう……」
改めて尋ねられると困る。同じクラス。放課後に視聴覚室で話して珍味本を交換して、音楽を聴いて、水族館へ二人で行った。
俺は紫乃のことが好きで。けれど、そのことはまだ紫乃本人にすら伝えていない。
俺は悩んだ挙句、
「り、隣人?」
なんとなく思いついた言葉を言った。
「友達」と言ってしまえば簡単なのかもしれないが、そうは言いたくなかった。視聴覚室で隣に座っているし広義で見たら隣人だ。そう思うことにして。
「……紫乃がどう思ってるかまでは、聞いてないので」
「まあ、紫乃は君に気を許している」
俺の顔をしばらく眺めたあと、椅子の背もたれへ身体を預け、当然のことのように答える。紫乃の身内にそう言われるだけで、内心で舞い上がってしまうんだから単純なものだ。
「紫乃が自分から、誰かとの次を口にするのは珍しいからな」
俺は膝の上で手を握り締めた。雨宮先生は紫乃の姉で、俺よりもずっと長く一緒にいる。なら、聞いてもいいのかもしれない。
俺が「あの」と意を決して切り出すと、雨宮先生は首を傾げた。
「紫乃は……昔から、ああいうことを言うんですか?」
「ああいう?」
「首を絞めてほしいって……」
雨宮先生の表情が固まった。昨日も聞いていたはずだ。けれど、改めて俺の口から説明されるのとでは違うのだろうか。
「……昔からではない。少なくとも、私は聞いたことがないな」
低い声には動揺が混じっていた。
「紫乃はなにか言ったか?」
「自分がここにいるか、確かめてほしいって。それ以上は、紫乃自身も上手く説明できないみたいでした」
「それで、触ったのか」
「絞めるのはできないと断りました。触るだけならって」
「そうか……昨日も言ったが、君を責めたいわけじゃない」
雨宮先生は眉間を指先で押さえた。指を離すと俺を捉えて。
「だが、紫乃が求めたから応じる。それだけでは済まないこともある」
「……はい」
「君は優しいんだろう。紫乃が君を信頼する理由も分かる」
褒められているはずなのに、雨宮先生の表情は厳しいままだった。
「君が紫乃を大事に扱っているのは分かった」
机の上に置かれたミルクティーで口を湿らしてから続けた。
「でも、大事にすることと何でも受け止めることは違う——中途半端に踏み込むのがいちばん、あの子を傷つける」
雨宮先生がはっきりと言うと、ずしりと重い言葉が降ってきた気がした。「中途半端では——」と、言いかけて言葉が止まる。
紫乃が俺の来る時間を確認していたこと。最終下校時刻まで待っていたこと。俺が行けないと伝えたとき。次々と思い浮かんだ。
つもりがない。それだけで何を保証できるのだろう。
俺はまだ、紫乃のことをほとんど知らない。
それでも。
「俺は、紫乃のことを分かりたいと思っています」
今の俺に言えるのは、それだけだった。
先生は黙ったまま、俺の目を見つめていた。
「分かりたい、か」
確かめるように繰り返す。
「分からないものを見つけたとき、それでも同じことを言えるといいな」
責める口調ではない。ただ、紫乃の姉として簡単には信じないと言われた気がした。
そのとき、校舎中にチャイムが鳴り響いた。昼休みの終わり五分前を知らせる予鈴だ。
雨宮先生は時計へ目を向け、椅子から立ち上がった。自分も授業の準備をするように乱雑にまとめた髪を下ろすと、整え始めた。
「今日はここまでにしよう。時間貰って悪かったな」
「……はい」
俺も立ち上がり、椅子を元の場所へ戻す。扉へ向かいながらも、さっきの言葉が頭から離れなかった。
中途半端に踏み込むくらいなら、近づくな。
取っ手へ手をかけたところで、背後から声が飛んでくる。
「瀬戸くん」
「はい」
振り返ると、雨宮先生は立ったまま俺を見ていた。
「紫乃が君を信頼していることは、疑っていない」
それだけ言って視線を逸らし、靴下を直し始めた。
「遅刻するぞ」
「失礼しました」
そう言って俺は部屋を出た。




