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登校中、ふと空を見上げた。今日も降るんだか、降らないんだかはっきりしない中途半端な灰色が広がっていた。
それを見ると、なんとなく気分も湿気ったものになっていく。
けれど教室に入ると、そんな気分だったのは俺だけのようで、クラスメイトたちがワイワイガヤガヤと、教室内の空気を盛り上げていた。
ドア近くにある自分の席にカバンを置きながら、窓側の方を見やると、
「……いた」
紫乃はいつもと同じように頬杖をつきながら外を眺めていた。
その姿を見つけただけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。昨日は編み込まれていた髪が降ろされている。
そういえば、髪型も服装も結局褒めてないことに気づく。
学校には来ているようで、ひとまずは良かった。昨夜送ったメッセージは結局、既読がついただけで返事はなかったから。
……なんか、つい数日前にも同じようなこと思ったな。俺は紫乃が登校してくるかを何度気にするんだ。
そう思ってみたところで、気になるものは気になるのだから仕方ない。
六月に入ってから出来事が多すぎだ。体感的にはもう一ヶ月は経っていてもおかしくない。けれど、まだ二週目で——。
紫乃の方を見つめていてもこちらを向く気配はない。
それ自体はいつも通りではあるのだが。表情は——眉が下がっている。けど、あれは教室ではいつものことだしな。
ポケットの中からスマホを取り出すと、ケースに付けたキーホルダーが揺れた。昨日、紫乃がくれたおそろいのキーホルダー。
紫乃は昨日カバンにキーホルダーを付けていたな、と思って紫乃の机にかけてあるカバンをちらりと見てみるが、キーホルダーは付いていなかった。
それはそうか。あれは学校用のスクールバッグとは別の、お洒落な小さなカバンだった。何やってんだ俺。
「よっす、秋斗」
駿佑が両手のひらを振りながら近づいてきた。
たぶん、パントマイムを披露している。
壁があるらしい。その壁がどんどん俺の方へ近づいてきて。目の前でピタリと止まった。
微妙に上手くて腹が立つ。こいつの謎の執念はなんなんだろう。多分マイブームなのだろう。この前も教室でやってたし。
中学の頃から駿佑はどうでもいいことをマイブームにしては、そこそこ器用にこなしていた。
「ああ、おはようさん」
挨拶を返すと、駿佑の視線が俺の持ったスマホへと移って、
「そんなん付けてたっけ?」
キーホルダーを指差しながら尋ねてきた。なんと答えたものか一瞬迷う。水族館で売っているモノなので、別に珍しいものではない。
「あーこれは、水族館で——」
「デート……? 私というものがありながら?」
ヤンデレ彼女みたいな声音と顔で迫ってきた。
今までならここで「んなバカな」と言って笑っていたんだが……昨日のあれは間違いなくデートなわけで。
何を迷っているのだろうか……よくよく考えたら、俺は紫乃との関係を隠したいのか?
成瀬紫乃と行ってきた、と言えばそれで済む話ではないのか。
前に紫乃は、教室でも「成瀬」ではなく「紫乃」と呼んで、と言っていた。
なら、紫乃は別に隠したいと思っていないのだろうか。けど、教室では話すどころか、目も合わせない。それが暗黙のルールだったはずで。
いや、違うか。それは俺が勝手にそう解釈していただけで約束したわけでもない。実際、この前は目が合った。
「昨日——」
と言いかけたところで、紫乃の傷ついたような表情が脳裏をかすめて、
「……まあ、そのうち話すわ」
今はまだ言うべきじゃない気がした。
ここで紫乃のことが好きだ。どうしたらいいと思う、と相談するのも悪いことではない気がするが、それを言うと紫乃の個人的な問題も話さなければ現状が上手く伝わらない気がして。
紫乃の問題を他人にべらべら話すのは違う気がした。
「ふーん。それよか水曜日の約束忘れるなよ」
「あ、ああ、もちろん」
「それよか聞いてくれ。俺、スティック回しちょー巧くなったんよ——」
駿佑は深く追及してこず、話題を変えた。俺の表情に何か思うことがあったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
今日は、いつもより放課後まであっという間だった気がした。授業の内容はひとつとして憶えていない。
代わりにずっと考えていた。何を聞けばいいのか、何を言えばいいのか。大丈夫かとか、辛いなら一人で抱え込むなとか、そういう一般的な言葉ならいくらでも浮かんだ。
何を言えば紫乃は楽になるのだろうか。
分からない。
それでも、会いに行く。それだけは決めていた。
旧校舎の三階まで上がり、視聴覚室の前で立ち止まると、長く細く息を吐いた。
紫乃はいるだろうかと、ゆっくりと扉を開けると。
「あきと」
振り返った紫乃が小さく呟く。紫乃はいつもの場所に座っていた。窓側の前から二列目の長椅子の端。
「ああ。来た」
俺はいつものように隣へ座った。拳二つ分くらいの隙間を空けて。
その距離を、紫乃が詰めて来ることはなかった。俺の肩に頭を預けることも、袖をつまむこともない。
「紫乃——」
始めになにを言うか迷ったが、これは伝えておくべきだろう。昨日言えなかったわけだし。紫乃の方に上半身を向けると、向こうも俺の顔を見つめてきた。
「昨日、楽しかった。クラゲ、すごかったな」
「ん、くらげ」
俺が言うと、紫乃は思い出したかのように表情を緩ませた。まるで昨日見た光景が目の前に再現されているかのように目を輝かせている。
「ペンギンも可愛かったな。あの空飛んでるみたいなやつとか」
「あきとに似てる」
思い出したのか、紫乃が笑う。
やっぱり紫乃の中の俺のイメージはいまいちよく分からない。けど、雰囲気はいい感じだ。まずはトークで盛り上がるべし、と昨日見た胡散臭いインフルエンサーも言っていた。
「そうだ写真、送ってくれよ」
「ん」
紫乃はスマホを操作しだすと、数秒後に俺のスマホが震えた。写真が次々と送られてくる。それを見ながら、昨日を思い返す。
クラゲの前で笑っていた紫乃。二人で並んで写った写真。ペンギンの前に立つ俺を見て、紫乃が「似てる」と笑っていたこと。
あのときは確かに楽しかった。紫乃も楽しかったと言っていた。だから余計に、最後のことが頭から離れない。
離れなかったから。
「それで——」
俺は間を開けるように一拍、置いた。
「その、後……本屋で、さ——」
俺が意を決して切り出す。
途端、紫乃の肩がわずかにこわばり、顔を伏せてしまう。
「その……最後」
言葉を選ぼうとした。けど、どう言えば一番いいのかは結局分からなくて。探るように、恐る恐る問いかけることしかできなかった。
紫乃の細い指先がスカートをぎゅっと握り締めていた。
しばらくの間、紫乃はそのままだった。
やがて、紫乃は自分の首筋に指先を添え、ゆっくり撫で始め。
ぽつり。
「あきと……首——」
その声は、今まで聞いた声の中でいちばん震えている気がした。
だから——俺は。
「紫乃」
とっさに言葉を遮った。
紫乃が何を言おうとしていたのか。それは俺の想像通りだろう。あの日以来の言葉。一回ならまだしも、二回目だ。
つまり、紫乃の中でなにかがあるのだ。その言葉を言いたくなるような状況が。
「それ、さ。どういうときに言いたくなるんだ?」




