19
19
紫乃の背中をただ見送った俺はしばらくの間、立ち尽くしていた。
やがて、周りが暗くなってきたころになってようやく、足を動かした。朝、家を出たときの軽さとは正反対な、重い足取りのまま。
玄関の扉を開けると、母がちょうど洗面所から洗濯物の入ったカゴを持ちながら出てきたところだった。
「おかえり、秋斗。楽しかった?」
休みの日に外出すると、母はいつも「楽しかった?」とだけ聞く。
昨日、俺が洗面所の姿見の前で唸っていたのも見ていたし、今朝も鏡の前で首を捻っているところに出くわしていたので、なにかしら察してはいそうだが。
いつものように深く踏み込んではこない。
……そういえば、中学のころ駿佑が、おしゃれしようとしたとき姉に「色気づいてんのか?」と言われるのが嫌だと言っていたな。
それを聞いて想像だけで胸がざわめいたので、こういうとき何も言わない母に感謝なのかもしれない。
……今の心境で茶化されても上手く返せる気もしないし。
「……まあ」
曖昧に返事をして、階段をあがる。「ご飯の前にお風呂入っちゃいなさい」という母の声を背中に受けながら自室へ入った。
ベッドに寝転がってポケットからスマホを取り出すと、キーホルダーが小さく音を立てた。透明なケースの中でペンギンがゆっくり揺れている。
昼間、紫乃と並べたときは同じ揺れ。
けれどいま揺れているのは、俺の手元にある一つだけだった。
「紫乃……」
頭の中では、リピートされるように今日の光景が何度も流れている。
青い水槽の前でクラゲを見上げていた紫乃。ペンギンを見て子どもみたいに目を動かしていた紫乃。キーホルダーを差し出すとき、耳まで赤くしていた紫乃。
それから——葛城まふゆに声をかけられ、俺の背中に隠れるような動きをした紫乃。
同じ一日なのに前半と後半で、まるで別の曲みたいだ。
「ともだち、だった、か」
中学のとき、ともだちだった。
ともだち、だった。
その言い方が、ずっと耳に残っている。
葛城の言葉は、ただの再会の挨拶にも聞こえた。久しぶり。相変わらず顔が整っている。髪も似合う。言葉だけ拾えば、ほとんど褒め言葉だ。
なのに紫乃の手は冷たかった。雨に打たれたみたいに。
昔から、ああいうことを言われていたのだろうか。
顔が整っているとか、黙っていればとか、喋らなかったとか。ならあれは、たぶん一回や二回のことじゃない。
そういえば初めて視聴覚室で話したとき、紫乃は言っていた。
『思ってた成瀬と違った?』と、諦めのような冷たさと、ひどく傷ついたような表情。
あれは、こういうことを言っていたのだろうか。
上手く言えないが、紫乃のことを紫乃個人ではなく見た目や反応だけで覚えている、みたいな。
悪意はなかったように見えた。葛城は本当に懐かしそうに笑っていて、だから余計にタチが悪い。言い返す言葉が見つからず、俺にできたのは紫乃の手を握って引くことだけだった。
それでよかったのか。
今は分からなかった。
◇ ◇ ◇
風呂から上がり、夕食を食べて部屋に戻った。
二人の食卓で「味噌汁の塩分減らしたんだけど味どう?」と母が尋ねてきたが、正直、味はよく分からなくて、「まあ」としか返せなかった。それでも母は「お父さんにも聞いてみる」と笑った。
ベッドに寝転んで、紫乃とのトーク画面を出す。最後のやり取りは、今朝に交わした待ち合わせのものだった。
ケースに付けたキーホルダーは変わらず呑気に揺れていた。屋上で紫乃が俺に似てると言ったペンギンみたいなお気楽さに見えて。
「紫乃……」
葛城のことも気になるが、それと並んでもう一つ。
事実に気づいて、気恥ずかしくて、頭の隅に置いてみたが存在感は消えなくて。むしろストラップを眺めていると、より存在が大きくなっていく。
成瀬紫乃のことが好きだと気づいた。
いつからか、なんて考えてみても分からない。初めて会った日と言われれば、そうかもしれないし、水族館で紫乃の横顔を眺めているときと言われれば、そんな気もする。
そうなると、頭にちらつくのは。
「……告白、か……?」
紫乃も俺のことを嫌ってはいない……はずだ。デートとも言ってくれたし。普段だって。けれど、それがイコール俺のことを好きなのかと言われると……経験がないせいで分からない。
「はぁ……」
『初心者でも絶対に分かる!! 最強恋愛講座!!』とか売ってないのか。音楽理論なら捨てるほど売ってるぞ。見習ってくれ。
と、思考を逃がしてみたところで現実が変わるわけでもない。
一旦落ち着け。
いろいろありすぎて頭の中がごっちゃになってる。
立ち上がって、大きく深呼吸をした。スーハー、スーハーと何度か繰り返して。
冷静に考えて、今は告白どうこうの状況じゃない。紫乃は傷ついていて、でも、明確に何に傷ついているのかが分からない。
今日撮った写真は送られてきていない。
クラゲの前に立つ紫乃。二人で並んだ写真。ペンギンの前に立つ俺。紫乃のスマホの中には、今日の俺たちが残っているはずなのに。
今、紫乃はその写真を見ているのだろうか。それとも、もう見たくなくなっているのだろうか。
『大丈夫か?』
そこまで打って、消した。
大丈夫じゃないことくらい分かっている。そんなことを聞かれても、紫乃はきっと「ん」とか「平気」とか、そんな返事をする気がした。
『何かあったのか?』
打って、また消す。
聞きたい。知りたい。けど、画面越しにいきなり聞くことではない気がした。
紫乃の冷たい手。拳二つ分の隙間。帰る、と言ったときの横顔。
今は、いい。あの言葉を思い出すと、指が止まる。
しばらく画面を見つめたあと、
秋斗:『今日は楽しかった』
それだけ送ってから、迷うように親指を彷徨わせて続ける。
秋斗:『明日も行く』
どこに。なんて書く必要はない。送信しても、すぐに既読はつかなかったが、それでいいと思った。返事を求めて送ったわけじゃない。俺が、行くと伝えたかっただけだ。
スマホを伏せる。けれど、すぐに気になってまた手に取った。既読はついていない。
「……落ち着けよ」
自分に言い聞かせて机の上を見る。そこには、紫乃から借りた本が置いてあった。それを見て今日、『その日限りの存在証明Ⅳ』を書店で見つけたときの紫乃の顔を思い出す。
目を大きく開いて、信じられないものを見るように本を見つめていた。
あんな顔もするんだな、と思った。
今日、知らなかった紫乃をたくさん見た。
けれど最後に、俺の知らない紫乃がまだいることを思い知らされた。
スマホケースを持ち上げ、つけたキーホルダーを指先でつつくと、中のペンギンが水色の液体の中でゆっくり揺れた。
同じものを紫乃も持っている。
今は別々の場所で揺れている。それでも、同じものだ。紫乃が買ってくれた、おそろいのキーホルダー。
ひとつ、細く長く息を吐いて、
「明日、会いに行く」
声に出すと、少し勇気が湧いてくる気がする。
何を聞けばいいのか分からない。何を言えば紫乃が楽になるのかも分からない。
でも、会いに行く。
それだけは決めていた。




