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遅めの昼食を終えた俺たちは水族館を後にし、最寄りの駅まで戻ってきていた。
まだ別れるには早いと大型書店へ向かうことにしたのだ。俺が『冷蔵庫。月付き』を見つけた書店。
「ここで、この前の本見つけたんだ」
「新作、探す」
紫乃は俺の袖を握りながら店内へ入っていく。一般文芸の棚へ着くと紫乃は一冊ずつ背表紙を確認し、気になるタイトルがあれば抜き出してあらすじを読んでいった。
この前は見つけられなかっただけで、探せばいくらでも出てくるものらしい。紫乃は次々と本を引き抜いては確認していく。
俺は紫乃が見ている棚とは別の棚を眺め、
「おい、これ見てくれ」
目に入った本を引き抜き、テンション高めに紫乃に差し出した。
俺が見つけたのは、なんと『その日限りの存在証明 Ⅳ』だった。
ⅠもⅡもないのにⅢの後のⅣとはどういうことなんだろうか。それより、続編出るほど売れてたのか。実は俺の読みが甘いだけで重厚な作品だったとか……いや、ないな。
紫乃は本を受け取ると大きく目を見開いた。そんなに見開いているのを初めて見た。裏表紙のあらすじを読み始める。
俺はその横顔を眺めていた。
今日一日で、知らなかった紫乃の表情をいくつも見た。
クラゲを見て目を輝かせる顔。おそろいのキーホルダーを渡すときの赤い耳。二人の写真を見つめる、柔らかな表情。
学校へ戻れば、紫乃はまた窓際で外を眺める成瀬紫乃に戻るのだろうか。
けれど今は、俺の隣で変な本を探している。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
そのときだった。
「あれ、紫乃ちゃん?」
背後から明るい女子の声がして、途端、紫乃の肩が僅かに跳ねた。さっきまで緩んでいた口元が消え、表情が静かに曇っていく。
◇ ◇ ◇
振り返るとそこには、俺たちと同じくらいの年齢の女子が立っていた。
アッシュグレーの髪色とシースルーの前髪、ゆったりとしたシルエットの服装。スマホで【今風 女子】と検索したら出てきそうな風貌だった。
少し離れたところに連れらしい女子が二人いて、ちらちらとこちらの様子を窺っていた。
その視線が紫乃に向かっている。駅前で紫乃を見た人たちと同じような気がして少し気になった。
声をかけてきた女子はというと、親しげな笑顔を浮かべながら紫乃を見つめている。
「やっぱり紫乃ちゃんじゃん。久しぶりー」
「…………」
紫乃は答えなかった。代わりに俺の袖をつまんで、そのまま俺の背中へ隠れるように身を寄せてきた。さっきまで『その日限りの存在証明Ⅳ』を見つめて輝いていた瞳が、今は仄暗い。
「相変わらずの顔整いじゃん」
紫乃の様子を気にした様子もなく、女子は続けた。
なんだ……? 普通に聞けば久しぶりに知り合いを見つけて声をかけただけに見える。けれど紫乃は黙ったままで、
「……知り合いか?」
そんな様子を不思議に思いながら小声で尋ねると、紫乃は俺の袖を握ったまま微かにあごを引いた。
すると、
「えっと、紫乃ちゃんの——彼氏さん?」
意外そうに目を丸くして、俺をちらりと見上げてきた。まるでそこで初めて俺の姿を捉えたかのように。
「あ、私、葛城まふゆって言います」
それだけ言って小さく頭を下げた。葛城と名乗った女子は俺と紫乃を見比べて、
「紫乃ちゃん……そういうの興味あったんだ。昔は男子に話しかけられても、ずっと黙ってたからてっきり興味ないのかと」
驚くように言った。
何も言葉を返さない紫乃。けれど、紫乃が俺の袖を掴む力だけは強くなっていた。状況がうまく飲み込めず戸惑う俺をよそに、葛城は一方的に話を続けた。
「でも良かったじゃん。紫乃ちゃん、ほんと昔から顔強かったもんね。黙ってるだけで目立つし——」
「髪、インナー入れたんだ。何しても似合う——」
葛城は本当に懐かしそうに笑った。冗談のつもりなのだろうか。本人には悪意の欠片もなさそうに言う。
なんだ、上手くは言えない違和感が襲ってきた。目の前でニコニコと立つ彼女は言葉だけを拾えば褒めている。なのに、嫌な感じだ。
演奏自体は間違っていないのに、鳴っている音が一つずつズレている。ずっと不協和音で緊張が解決されない。そんな感覚。
きれいな包装でラッピングされた刃物が紫乃へ突き刺さっているような。
紫乃の指が震えている。俺の袖を握っているだけなのに、その手は何かにしがみついているように見えて。
俺は袖をつまんでいる紫乃の指先ごと手を握った。
初めて握った紫乃の手は雨にでも打たれたかのように冷たかった。手を取っても握り返してこない。抵抗もせず、されるがまま手を預けている。
「ごめん急いでるから。行こう、紫乃」
それだけ告げ、紫乃の手を引き書店の出口へ向かおうとして、紫乃が本を持ったままだったことに気づいた。
棚に戻すのも惜しくて、平積みされた本の上に置いてしまった。申し訳ないとは思いつつ、今はなにより紫乃をここから離す方が先だと直感的に思った。
背後から「え、あ、また今度話そうね」と声が聞こえてきたが、紫乃は振り返らなかった。
商業施設を出ると、空は灰色の隙間から茜色が覗いていた。
振り返ると、紫乃はうつむいたまま引かれるがままについてきていた。紫乃の手は冷たいままだった。
人の多い大通りから、脇の裏道へ入った。ただ人が少なくて、紫乃が落ち着ける場所を探して。
確か、この先に公園があったはずだ。遊具が砂場と滑り台だけの公園——ベンチもあったか。
少し歩いたところにその公園はあった。日曜日だが、子どもの姿はなかった。
「ここ、座れるか?」
「ん」
「あ、待って」
屋根の下にあるベンチへ紫乃を座らせようとしたが、いつの間に雨が降ったのか、ベンチが少し濡れていた。ポケットからハンカチを取り出し濡れたベンチを拭いてから座らせた。
そこでようやく、手を握ったままだったことに気づく。慌てて離すと、紫乃は両手を膝の上へ重ねた。バッグにつけたペンギンのキーホルダーが小さく揺れている。
俺は座るべきか悩んでから、隣へ座った。
いつもなら紫乃はすぐに距離を詰めてくる。肩へ頭を預け、袖をつまんでくる。けれど今は、拳二つ分ほどの隙間が空いたままだった。
「…………」
俺たちの間に、沈黙が降りる。
なんと切り出したものかと指先を擦り合わせてみるが、これと言った言葉は浮かんでこない。
「紫乃……」
うつむいたままの紫乃の名前を恐る恐る呼びかけてみる。
「……なんでもない」
「なんでもないやつがそんな顔するかよ」
紫乃の表情は今にも切れてしまいそうな細い糸みたいだった。
「さっきの子……」
尋ねかけると、紫乃が俯いたまま口を開いた。
「中学のとき……ともだち……だった」
言葉を一つずつ探すような話し方。「ともだちだった」という言い方が気になって、けど直接聞くことはできなくて。
「よく、一緒にいたのか?」
「……放課後とか、たまに休みの日とか」
紫乃はそれ以上、何も言わなかった。代わりに自分の首筋を撫でた。
どうして、葛城を見た瞬間に隠れたのか。どうして、褒められているはずなのに、あんな顔をしていたのか。中学のとき、何かあったのか。
聞きたいことはいくつもあった。
けれど紫乃は両手を強く握り、指先が白くなるほどスカートを押さえている。
話したくないなら、無理に聞くべきじゃない。そう思った。それが紫乃のためなのか、俺が怖がっているだけなのかは、分からなかった。
「今日……」
紫乃がぽつりと声を漏らした。
「楽しかった」
「ああ。俺も楽しかった」
「ん」
そこで会話が途切れ、また沈黙が降りてくる。
さっきまで、水族館で見たものを話していた。おそろいのキーホルダーを並べて、昼飯を食べて、変な本を探していた。
それが、もうずっと前のことのように感じる。
しばらくして、紫乃は立ち上がった。
「……ごめん帰る」
「送るよ」
「いい」
拒絶されたことが、思っていた以上に胸へ刺さった。
「でも——」
「今は、いい」
紫乃は俺を見なかった。バッグの持ち手を握ったまま踵を返す。呼び止める言葉が見つからないまま、俺はその場に立ち尽くしていた。
歩くたび、紫乃のバッグについたペンギンが揺れる。俺のポケットに入ったスマホにも、同じキーホルダーがついている。さっきまで二つ並んでいたそれが、今は別々の場所で揺れていた。
俺はなにも言えないまま。
紫乃の背中が見えなくなってもベンチの前から動けなかった。




