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「やっぱ、人多いな……」
日曜日の駅前は、昨日来たときよりも人が多かった。
空は灰色で、予報では雨が降るかもしれないとのことだったが、関係ないと言わんばかりに人で溢れている。
信号が青になるたび、人の波が寄せては返していく。待ち合わせ場所を決めたときは、分かりやすければいいとしか考えていなかったが。
「……ミスったか?」
池袋という街である以上、人とすれ違わないのは不可能だ。けれど、もう少し人混みを考慮するべきだっただろうか。いや、無理か。だったらもっと辺境で待ち合わせろという話になってしまう。
スマホで時間を確認すると時刻は九時半だった。待ち合わせの時間まで、まだ三十分もある。ひとまず、わかりやすい場所にいたほうがいいだろう。
あたりを見回そうとしたところで、駅から出ようとする人の流れの中に見覚えのある黒髪を見つけた。
というより、目が勝手にその姿を捉えていた。
歩くたびに、膝下まである薄いグレーのスカートがひらりひらりと揺れる。白いカットソーの上から羽織ったシャツは曇天の空とは対照的な空のような薄い水色だった。
「…………」
どこにでもいる服装のはずなのに、俺の視界の中で紫乃がいちばん目立っていた。なんだろう。制服姿は毎日見ているのに、まるで知らない女の子を見ているような気がした。
紫乃も俺を見つけたようで、眠たげな瞳を僅かに開いた。人の間を縫うようにこちらへ歩いてくる。
「あきと」
「お、おう。おはよう」
「おはよう」
近くで見ると、いつもより髪が丁寧に整えられていた。
黒髪は片側だけ細く編み込まれ、小さなリボンで留められている。
編み込んでいるので内側の薄紫色のインナーカラーがいつもより目立っていて、横顔にひそかな特別感を醸し出していた。
「早いな」
「あきとも」
「30分前行動を心がけてるからな——」
そのとき、紫乃の傍を歩いていた男がすれ違いざまに振り返るのが見えた。
別の方向から来た女子二人も、紫乃の顔をちらりと見て何かを囁き合っている。芸能人でも見たかのような表情。
途端、紫乃の口元からさっきまであった柔らかさが消えていく。視線が下がり、肩から下げた黒い小さなバッグの持ち手をぎゅっと握った。
もしかして、前に紫乃が言っていた「見られる」というのはこういうことでもあるのだろうか。
「こっち。少し遠回りするけど、人少ないから」
「……ん」
俺はその場から一刻も早く離れようと、紫乃を引き連れ歩き出した。
一本裏道へ入ると、大通りと比べて人の数が目に見えて減る。隣を歩く紫乃のバッグの持ち手を握る手からも、力が抜けていたけれどその顔はうつむきがちで。
「ごめんな。待ち合わせ、駅前なら分かりやすいと思って」
「……べつに」
「次からは別の場所にする」
「……次、ある?」
俺が言うと、紫乃は期待するような眼差しで見上げてきた。
「…………。そりゃ、まあ」
「ん」
答えると、紫乃が俺の袖を指先でちょこんと摘んできた。
学校で何度もされた同じ仕草。けれど今日は制服でもなければ学校でもない。
それだけなのに、いつも以上に意識してしまう。目的地へ着くまで紫乃は、俺の袖を握ったまま歩いていた。
◇ ◇ ◇
水族館へ入ると外の喧騒が嘘のように遠ざかった。人の数は多いがみんな水槽を見るのに夢中で、こちらに目をくれることもない。
薄暗い館内。青い照明に照らされた水槽の中を魚の影がゆっくりと横切っていく。
「クラゲ、もう少し先らしいぞ」
「順番」
「全部見るタイプか」
紫乃は入口近くの水槽から足を止めた。小さな魚の群れを瞬きもせずに見つめながら。
「せっかくの……デートだから」
小さな声で、けれどはっきりと言った。
「……そ、そういう認識なんだ」
「あきとは、違う?」
紫乃は顔を俺へと向け首を傾げた。俺だけが「デート」という言葉を過剰に意識しているみたいで、余計に落ち着かない。
「いや、その……一般的には、そうかもしれないな」
「ん。デート」
確認するようにもう一度言った。紫乃もデートだと思ってくれているということか。その事実は、やけに温かかった。
「次いこ」
紫乃は満足したらしく次のブースへ歩き出す。
その声はいつもより弾んでいて、楽しんでいることが分かった。そのままいくつかの展示を順番に見ていき、クラゲのエリアへたどり着いた。
「本日のメインきたな」
青い光に満たされた円形の水槽。その中を、半透明のクラゲがふわふわと漂っていた。傘が開いて、閉じる。開いて、閉じる。
そのたびに長い触手が水の中で揺れている。
紫乃は水槽の前で立ち止まると、
「ん。くらげ」
眠たげな瞳がゆっくりと見開かれていく。水槽に顔をめいっぱいに近づけて、クラゲの動きを追っている。いつもの紫乃とは違う子どものような瞳で、口元は微かに緩んでいた。
これも俺の知らない紫乃の一部なのだろう。そう考えるとこっちも自然と口角が上がっていくのが分かる。
俺も紫乃の隣に立って、
「ほんとに好きなんだな」
水槽を眺めながら尋ねた。
「好き。かわいい」
「でも、紫乃には似てないな」
「そう?」
「紫乃はこんなにふわふわしてないしな」
「ん」
返事はそれだけだった。けどその一言に喜びが混じっているような気がした。
紫乃はそれから何も言わず、ずっとクラゲを見つめていた。
その間の俺はクラゲではなく——紫乃の横顔をずっと見ていた。青い光が白い頬に映り、薄紫色のインナーカラーが水の中に溶けているように見える。
絵になる、という言葉では足りない気がした。ふいに紫乃が何かを思いついたかのようにこちらを向いた。
カバンからスマホを取り出して、
「撮って」
スマホを渡された。紫乃は水槽の前に立つとクラゲを見上げた。
「じゃ、撮るぞ」
紫乃にカメラを向け、何枚か撮る。どの画角で撮ってもカメラに映る紫乃の横顔は綺麗だった。それが単純に楽しい。カメラマンってこういう気持ちなのだろうか。
「こんな感じでいい?」
「みせて」
紫乃は俺の隣へ戻り画面を覗き込んだ。肩が触れあう。
写真を一枚ずつ見ていくと、三枚目で指を止めた。
「これ、好き」
「確かにいいな。紫乃っぽい」
さらにスワイプして、
「これとか、紫乃がクラゲに連れて行かれそうに見えるな」
「宇宙旅行」
「でも紫乃は透明人間じゃないからな」
前に紫乃に借りた珍味本『その日限りの存在証明 Ⅲ』を思い出す。
透明人間のヒロインとクラゲに転生した主人公が、なんの脈絡もなく最終的に二人で宇宙に旅立つという謎の結末を迎える一冊。
そういえば、あの日だったな。紫乃に突然あんなことを言われたのは。そんなことを思い返していると、紫乃は自分の首筋を撫でて。
「見えてる?」
ふいに、あの日と同じ質問をしてきた。
あのときは質問の意味がわからなかった。今でも紫乃の言葉の意味は分かっていない。けれど、これだけははっきりと言える。
「めっちゃ見えてる」
「ん」
俺が答えると紫乃はほっとしたような表情を見せる。
それから俺の袖を引いてうつむきがちに、
「……あきとも」
自身の近くに俺を引き寄せた。
「ん?」
「一緒」
言うや否や紫乃は近くにいた係員へ話しかけると、スマホを渡して戻ってきた。
「はーい。もう少し寄ってくださーい」
紫乃は当然のように俺のすぐ隣へ立つ。係員の言葉に従い、腕が触れ合う。どうしてだろう。こんなに緊張するのは。
視聴覚室にいるときよりもずっと。
どうすればいいか分からず直立していると、紫乃が俺の腕に自分の腕を絡めてきて。
「はい、撮りまーす」
写真に映った俺は、酷くぎこちない表情をしていた。




