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「ふぅ。この時期に浸かる風呂がいちばん効くな」
その日の夜。風呂から上がった俺はベッドに腰を下ろしながらスマホを手に取った。
湿気で汗ばんだ体をシャワーで流し、湯船に浸かる。この時期の楽しみ方だった。
そんなことを思うくらい、俺は浮かれていた。それも当然だ。紫乃がチケットを受け取ってくれたのだから。
紫乃とのトーク画面を開く。
最後に届いているのは、視聴覚室を出たあとに送られてきた手を振っているクラゲのスタンプだった。メッセージもなし。それだけ。
紫乃と連絡先を交換したのは数日前。なのに、ずっと前から繋がっている気がする。
明後日——もう日付が変わるまで数時間しかないので、ほとんど明日。水族館へ行く。
秋斗:『日曜、十時に池袋駅の東口前でいいか?』
送信して、すぐに既読がつくと思い画面を眺める。けれど既読はつかなかった。
「……寝てるのか?」
時刻はまだ九時を少し過ぎたところだった。
いくらなんでも早すぎる気がする。いつもすぐに返信が来ていたから、それが普通だと思っていたのだが。
紫乃はスマホをほとんど使わないと言っていた。通知に気づいていないだけかもしれない。他のことをしている可能性だってあるし。
そう思い、スマホを伏せてベースを手に取った。しばらくベンベケ、ベンベケと練習をしていたら。
「っ!」
スマホが震えた瞬間、練習の手をピタリと止めスマホに手を伸ばした。
画面にはLINEの通知が来ていて。
駿佑:『来週、二人で俺らのグルーブ高めようぜ』
秋斗:『お祈り』
駿佑:『よし、来週の水曜日な』
秋斗:『おい』
いま断ったのに、予定が一つ勝手に埋まった。まあ、ドラムとの合わせは重要だ。定期的に二人で練習することも大事——面倒なので、そういうことにしておいた。
これはついでだ。たまたまLINEを開いたからそのついで。と自分に言い訳して、紫乃とのトーク画面を開いてみる。
既読はついていなかった。
「…………。いや、キモいな俺」
女の子からの返信を今か今かと待ちわびている。いやまあ、状況だけ見たらそうなんだけど……。
それから、ベースを練習しながら確認し、紫乃から借りた本を読みながら確認し、歯を磨いてから確認しても既読はつかなかった。
もしかしたら、紫乃に何かあったのでは、と考える。けど、昼間はいつも通りだった。帰るときも機嫌は良さそうだったし、体調が悪そうにも見えなかった。
けど、あの日——昔のことに思えるが、今週の月曜日のことだ。
唐突に紫乃は言った。「首、絞めて」と。別に忘れていたわけじゃない。頭の片隅には常にあった。紫乃が触れて欲しそうじゃなかったから、いったん隅に置いておいただけ。
あれが、衝動的な言葉だったのなら、紫乃には浮き沈みがあるということに——
いやいや、それは勝手に紫乃を決めつけすぎだ。
連絡が遅くなる、そんな日もあるだろうと自分を納得させ、枕元へスマホを置き電気を消した。
暗闇の中で画面が光る気配を待ってしまう。
結局、返事が来ないまま眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
翌朝、枕元で鳴るスマホのアラーム音に目を覚ました。
薄く目を開けながら手探りでスマホを掴む。時刻は七時四十二分。毎日同じ時間に鳴る。学校がある日は、これが寝ていられる限界のライン。けど今日は土曜だ。
まだ半分眠っている意識のまま、アラームを消す。画面を覗き込む。ぱちぱちと、瞬いて。紫乃からメッセージが届いていたことに気づいて、半ば二度寝しようとしていた目が覚めた。
紫乃:『ごめん。寝てた』
紫乃:『駅前でいい』
それを見て、ほっと胸をなで下ろす。
秋斗:『早寝だな』
笑ったクラゲのスタンプをセットで送ると、すぐに既読がついて、
紫乃:『一昨日、あんまり眠れなかったから眠くて』
すぐに返信が来た。
昨日の朝、紫乃がホームルーム直前に駆け込んできた姿を思い出す。
乱れた息。眠そうな瞳。やはり、寝坊だったらしい。何をしていて眠れなかったのだろう。少し気になったが、続けてメッセージが届いた。
紫乃:『あした、たのしみ』
その言葉に眠気が一気に吹き飛んだ。俺は一度打ちかけた文章を消し、もう一度打ち直す。
秋斗:『俺も楽しみ』
送ってから、朝の光が差し込む部屋で一人スマホを伏せた。
「……俺も、か」
自分で送ったくせに、声に出すと急に恥ずかしくなる。
明日は水族館、紫乃と二人で。
そう考えた瞬間、別の問題が浮上した。
「……何、着てけばいいんだ?」
クローゼットから手持ちの服を引っ張り出し、ベッドの上に並べた。
黒や白のシャツ。無地のTシャツ。バンドのロゴが大きく印刷されたTシャツ。少し色落ちしたデニム。黒いパンツ——and more , and more。
「…………。……ここからメンバー選べってか?」
普段なら着られれば何でもいい。学校は制服だし、休日も部活やスタジオへ行く程度なので困らなかった。むしろバンドTシャツを着ながらベースを背負う姿は、かっこいいまである。
しかし、明日は女の子と水族館へ行く。しかも相手は制服を着て座っているだけで絵になる成瀬紫乃。
そんな紫乃の隣を歩く俺が、胸元にロゴがデカデカと描かれたバンドTシャツではまずい気がする。
服を両手いっぱいに抱えて一階に降りると、洗面台の隅に置かれた姿見の前に立った。
黒いシャツと黒いパンツを着て、
「……葬儀?」
黒い。これはダメだ。太陽光集めそうだ。どう考えたって紫乃はノット太陽光派だろう。シャツを薄いグレーのものに替えると、
「休日のサラリーマンか?」
なんか違う。
正解が分からない。その後も着せ替え人形のごとく服を着ては脱ぎ、着ては脱ぎ。
——やがて。
「まあ……これか?」
結局、選んだの白いTシャツに薄い青のシャツを羽織り、下は黒いパンツという組み合わせだった。
一言で言えば無難。いや、いい。無難こそ人類が長い歴史の末にたどり着いた最適解なのだ。
困ったらベースはルート弾きをしておけばまず間違いはないのだ。つまり無難というのは=最適解と言っても過言じゃない。ただ、その無難が最も難しいという罠もあるわけだが……。
「いや、それを考えていたらキリがない」
というか、紫乃はどんな服で来るのだろうか。
私服姿を見るのは初めてだ。
◇ ◇ ◇
道順くらいは調べておいたほうがいいだろうと、下見をするために俺は自宅を出て最寄り駅へ向かった。
改札へ向かおうとしたところで、
「お兄さんどこ行くの。暇なら私とお茶しない?」
背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると星鳴と伊織が並んで立っていた。
星鳴はギターケースを背負い、伊織はいつもは下ろしている長い黒髪をお団子状にひとまとめにして帽子の中にしまっていた。
「お前ら……。今日も撮影か?」
「今日は機材見に行くの。伊織ちゃんとデートだよー!」
そう言いながら、星鳴はぎゅっと伊織に抱きついた。抱きつかれ、顔だけ嫌そうな表情をしている伊織。嫌がるフリ。いつもの光景だ、その証拠に伊織も星鳴の背中に手を回している。帽子もお揃いだし。
こいつら、仲良しかよ。
「秋斗は何してんの?」
星鳴が俺の格好を上から下まで眺める。なんと答えようか迷って。
「…………。ち、地形の調査を少々」
「なんで?」
それを聞かれると困る。思わず言ったことに理由なんてあるかよ。
「ち、地形とのグルーブ感を、な」
「へー、誰と行くの?」
「…………」
俺が答えあぐねていると、星鳴がニヤリと笑った。
「伊織ちゃん。秋斗、デートだって」
「な、何も言ってないだろ」
「否定もなかったね」
こんなあからさまなカマかけに引っかかってしまう自分が情けない。まあ、確かにデートではあるんだけれど……人から言われると余計に意識してしまう。
水を向けられた伊織は俺を見て、穏やかに微笑んだ。
「頑張ってね」
「……何をだよ」
「全部」
あまりにも抽象的すぎる応援を残し、二人は反対側のホームへ向かっていった。追及される前に別れられたことへ安堵しつつ、俺は電車に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
池袋駅に着くと、駅前は土曜日ということもあって人で溢れていた。
明日は紫乃とこの中を歩くことになる。東口を出た俺は、スマホの地図を頼りに水族館へ向かった。
できるだけ人通りの少ない道を探しながら歩く。大通りを避けて一本裏へ入ると、人の数が減った。
数分、余計に時間がかかるが、こっちの方がいいだろう。水族館のある商業施設へ着くと、入口までの道を確認する。
近くの飲食店なんかは、昼時にはかなり混みそうだった。水族館を先に見るか、早めに昼を食べるか。そもそも紫乃は何が好きな食べ物なのだろう。
「……聞くこと、まだまだあるな」
館内には入らず、入口の前で足を止める。壁にはクラゲの展示を大きく写したポスターが貼られていた。青い水の中を半透明のクラゲが漂っている。
明日、この展示の前には紫乃が立っている。
きっと眠たげな瞳を、少しだけ見開いて。その顔を想像するだけで自然と口元が緩んでしまった。
駅から水族館までの道は分かった。待ち合わせ場所も確認した。
あとは——明日を待つだけだ。




