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翌朝。登校すると教室の景色が少しだけ違った。
窓際の席に紫乃がいない。登校したらまず、カバンを机へ置きながら窓際を見る。それが最近のクセになっていた。
まだホームルームまでは三分もある。来ていなくても不思議ではない。
そう思いながらも、休むのだろうか。体調でも崩したのか——そこまで考えたところで、紫乃が教室へ入ってきた。
肩で息をしており、いつも整っているショートボブもわずかに乱れていた。
ギリギリに駆け込んでくるとは、紫乃にしては珍しいな。
ドアの近くで呼吸を整えている。そんな紫乃を見上げていると、乱れた髪を両手で整え始めた。眠たげな瞳も今日は本当に眠そうに見えた。
夜ふかしでもして、寝坊したのだろうか。
来たことに安堵してしまう。
息を整えた紫乃は俺の前を足早に抜け、席へ着いた。直後、チャイムが鳴った。
◇ ◇ ◇
「はい、解散。週末だからって羽目を外すなよ」
黒川先生がそう言い残し、教室を出ていった。今日は金曜日ということもあり、教室内の空気はいつもの放課後より浮ついている。
今日の学校も特に変わったことはなかった。いつも通りと言っていい。
俺は帰り支度をしながら、カバンの中を確かめる。
中には昨日買った『冷蔵庫。月付き』と水族館のチケットが二枚。どちらもちゃんと入っていることを確認してから教室を出た。
渡り廊下を抜け、旧校舎へ向かう。紫乃はすでに教室にいなかった。先に向かっているのだろう。
いつもの道。なのに、体がふわふわしている。これは浮かれているのか、緊張しているのか、分からない。
深呼吸してから視聴覚室の扉を開けると、紫乃はいつもの長椅子に座っていた。俺を見るなり隣をぽんぽんと叩き、
「となり」
いつも通りだ。そのことに安心しながら少し間を空け隣へ座ると、紫乃はずいっと距離を詰め、俺の肩に頭を預けてきた。
いつもより密着している気がするのは俺の気のせいではないだろう。
紫乃の体温と桔梗の香りが混ざり合う。
「……昨日、悪かった」
どう切り出すべきか迷った末、最初に出たのはその言葉だった。紫乃は肩に頭を載せたまま、僅かに顔を上げた。
「なに、が?」
「行けないって分かった時点で、連絡すればよかったかなって」
「……べつに」
「でも、待ってただろ」
紫乃は俺の袖を指先でつまみ、長机の一点を見つめていた。
「待ってなかった?」
「…………」
長い沈黙のあと、袖を握る力が少し強くなった。
「……待ってた」
「ごめん」
「ん」
紫乃はそれだけ答え、また俺の肩に額を預けた。
「もういい」
「許された?」
「はんぶん」
紫乃が小さく笑うと、胸に引っかかっていたものが、ようやく少しだけ軽くなった気がした。
「それでさ、これ」
俺はカバンから昨日買った本を取り出した。
「昨日、見つけたんだ。紫乃が好きそうだと思って」
長机に置いたのは『冷蔵庫。月付き』。表紙を見た紫乃が、眠たげな瞳を僅かに見開いた。本を手に取り、帯から裏表紙までじっくりと眺める。
「冷蔵庫を開けたら月が入ってて、キツツキと一緒に犯人を捜すらしい」
「……いい」
「まだ読んでないのに高評価だな」
それから紫乃は何かを思い出したように自分のスクールバッグを引き寄せ、中を探り始め、
「私も」
取り出した一冊を俺の前へ差し出してくる。
『火曜日の海には骨が降る』
表紙には白い砂浜と、打ち上げられた傘描かれていた。
「……なんだこれ」
「あきとに読ませようと思った……昨日」
紫乃は『冷蔵庫。月付き』を胸元へ抱えながら、そう言った。口元が微かに緩んでいる。
昨日、俺は本屋で紫乃のことを考えていた。紫乃も俺のことを考えていたらしい。そう思うと、胸の奥が妙にこそばゆくなった。
「俺も、紫乃に読ませようと思って買った」
「ん、こうかん」
紫乃が『火曜日の海には骨が降る』を差し出す。
「プレゼントじゃなくて?」
「読み終わったら、また交換」
それでいいらしい。俺は紫乃から本を受け取った。紫乃はさっそく本を開く。俺も倣ってページをめくった。
文章自体は妙に綺麗なのに、何が起きているのか全く分からない。隣を見ると、紫乃も『冷蔵庫。月付き』を真剣な顔で読んでいた。
紫乃が小さく肩を揺らしている。機嫌が良さそうだ。どうやらお気に召したらしい。
それから二人で静かに本を読み続けた。窓を叩く雨音と、古い空調音にページをめくる音が重なる。
紫乃はいつの間にか俺の肩に頭を預けていた。昨日、俺が来なかった時間も、紫乃はこうして一人で本を読んでいたのだろうか。
そう考えると、胸の奥にまた小さな痛みが走る。
けれど、いま隣にいる紫乃は俺が選んだ本を読んでいる。俺の手元には、紫乃が俺のために選んだ本がある。
それだけで、昨日の空白を少しずつ埋められているような気がした。
◇ ◇ ◇
最終下校十分前を知らせるチャイムが鳴った。紫乃は栞を挟み本を閉じ、
「帰ったら、続きよむ」
「ああ、俺もそうする」
紫乃は本で口元を隠した。耳の先が微かに赤い。悪くない雰囲気だ。今なら言える気がした。
「あの、さ」
「ん?」
歯切れ悪く切り出すと、紫乃が本を膝の上へ置いて俺を見た。カバンから封筒を取り出すより先に、口を開いた。
「水族館、行かないか……一緒に」
紫乃が何度か瞬きをする。水族館の魅力をアピールするように、「クラゲ、たくさんいるらしい——」と言おうとしたけれど、
「二人?」
「え、あ、ああ……二人、で」
「行く」
即答だ。
「じゃあ、これ」
俺が封筒から二枚のチケットを出して、一枚を紫乃に差し出した。紫乃はそれをじっと見つめた。
「いつなら行ける? 来週とか——」
「あした」
「早いな」
「だめ?」
「いや、だめじゃないけど……せめて日曜にしないか?」
「なんで?」
「ふ、風水的に……」
今日の明日はまずい。主に心の準備が。あと服とか、行き方とか、水族館のあと何をするのかとか。何も考えていない。
紫乃は疑うように俺を見つめていたが。
「日曜日なら、運気がいい?」
「か、かなりいい。クラゲ運が最高潮だ」
「そんなのない」
「今、俺が作った」
「…………。日曜日でいい」
紫乃はチケットを一枚受け取り、両手で大切そうに抱えた。受け取ってもらえたことに俺は安堵しつつ。
「詳しくは、帰ったらLINEする」
「ん」
紫乃はチケットと本をスクールバッグへしまった。
立ち上がると、小さく手を振った。いつもは扉の近くで振り返り手を振っていたのに、今日は長椅子から立ったところで手を振った。
「あきと、日曜日」
「ああ、また日曜」
「ん、まってる」
それだけ言って、紫乃は視聴覚室から出ていった。
一人になった部屋で、俺はしばらく扉を見つめていた。
日曜日。
紫乃と二人で水族館。
二人で。
改めて頭の中で並べると、急に現実味が増してくる。
「……これ、デートでは?」
誰も答えてくれない。長机の上には、紫乃から受け取った本が置かれている。
本を交換して、二人で水族館へ行く約束をして。
俺はそのまま長机へ突っ伏した。




