04
翌朝、ライナスは朝食後のロリンダを執務室に呼び寄せていた。
ロリンダは執務室に足を踏み入れてすぐ、物珍しい様子を隠さずに部屋を見渡した。まるで幼い頃から憧れ続けた場所に足を踏み入れたかのようなその姿を、ライナスはじっと観察するように眺めていた。
その視線に気付いたロリンダが慌てて取り繕う様子に小さく息を吐き出し、長椅子に座らせる。
そしてライナスが傍らに視線を向けると、心得ているようにマルコスが一歩前に踏み出した。
「すでに顔は合わせているだろうが、改めて紹介する。執事のマルコスだ。マルコスの家は代々フィンチ家に仕えている家系だ。マルコス自身、先代の頃からよく仕えてくれている」
「マルコス・エルムと申します。改めましてお見知りおきを、奥様」
「ええ、よろしくね。マルコス」
「これまでこの邸の差配はすべて彼に一任していたが、これからは君に任せるつもりだ。しばらくの間、マルコスを君の補佐につける」
「何かと不慣れな点もございましょうが、このマルコスがお支え致しますのでご安心ください」
「とても心強いわ。侯爵様、私、精一杯務めさせていただきます!」
拳を小さく握り締め、やる気に満ち溢れた表情を見せるロリンダに、ライナスは浅く頷いて応じる。
「しばらくは家回りの仕事を覚えることに専念して欲しい。知っての通り、我がフィンチ侯爵家の主な役割は魔物を王都に入れないための防衛だ。中央とは勝手も違うだろうが、何か質問は?」
問いかけに、ロリンダは少し考えるような素振りの後、控えめに手を挙げた。ライナスは視線で言葉を促す。
「侯爵夫人としての社交の必要はありますか?」
「ない。……いや、いずれは披露目の場を用意しなければならないだろうが、当分は先になると考えてくれ」
否定した後で、ライナスは言葉を改める。
面倒事を最小限にするため、ライナスは東部で結婚式を執り行うことに何ら疑問を挟まなかったが、そもそもこの結婚は中央と東部との関係改善のためのものだ。
王家も絡む、高位貴族の結婚でありながら式の参加者はほぼおらず、あまりにも質素すぎた。
ロリンダ──フィンチ侯爵家からも不満の声が上がらなかったため、深く考えはしなかったが、東部貴族たちへ向けたロリンダの披露目は今後必要となるだろう。
(煩わしいと積極的に動かなかったのが仇になったか。……まさかここまでとはな)
ライナスは可能な限り結婚の日取りは先延ばしにするつもりだった。それはフィンチ侯爵も同じだろう。だがその状況に先に王家が痺れを切らした。
結果、強引に日程が組まれ、ライナスは慌ただしく妻を迎えることになった。
それほど王家は中央と東部の関係に憂慮しているということか。あるいは別の狙いがあるのか。
机に伏せて置かれた紙面を目でなぞり、ライナスはロリンダに視線を戻した。
「わかりました。だから先日仕立てたドレスの中に、パーティ用のものはなかったのですね!」
小さく手を打ち合わせて、ロリンダがすっきりとしたような笑みを浮かべる。
ドレスの購入はすべてロリンダに一任していた。どこまで贅沢を求めるのか、どんな振る舞いをするのか試す側面もあったが、結果はただ肩透かしを食らっただけだった。
ロリンダが選んだドレスはどれも華美とは言えず、しかし侯爵夫人としてふさわしい趣きあるものだった。宝飾で着飾るより生地や見せ方にこだわりがあるようで、思うほど予算は割かれなかった。
今も彼女が着ているのは、薄い青に染めた上質な絹混じりのドレスだった。柔らかな布地をたっぷり使った裾に、生成りのレースと小さな花刺繍を添えた、控えめな装いだった。
片側へと緩く編み込み反対の肩へ流された髪にも、淡い青のリボンが一筋編み込まれており、彼女によく似合っていた。
そう考えてから、ライナスはハッと我に返り首を振る。
「侯爵様?」
「……なんでもない。他に質問がなければ下がっていい」
「はい。では失礼いたします、侯爵様」
マルコスの手を借りてロリンダが立ち上がり、デルロイを従えて執務室を辞していく。
扉が静かに閉められ、去っていく足音も聞こえなくなると、それまで黙って控えていたリナルドが懸念の声を漏らした。
「よろしかったのですか? ライナス様。まだ彼女の疑いが晴れたわけでもないのに、家を任せるのは危険ではないでしょうか」
「そうだな」
「でしたら……!」
勢い込むリナルドを視線で制し、ライナスは伏せていた書類を表に戻した。
そこにはデルロイが情報屋を使って集めたロリンダの情報が記されていた。彼女がエルソム侯爵家でどんな扱いを受けていたのか。およそ予想通りだったとはいえ、読んでいてあまり気分のいい話ではなかった。
「もし彼女がエルソム侯爵から何らかの指示を受けていたとすれば、これ以上ない餌になるはずだ」
そう口にして、ライナスはおかしげに笑う。
執務室に入った時、ロリンダが見せた反応は到底、家の後継者として教育を受けた者のそれではなかった。後継者教育を受けていれば少なからず当主の執務室に足を踏み入れたことはあるはずで、たとえ他家のそれであろうと珍しくもなんともないはずだ。
「エルソム侯爵はよほど彼女を箱入りに育てたようだな」
「はい?」
「なんでもない。……それに、魔物の動向次第では私も長く家を空けることもある。その時には彼女が取り仕切らなければならない。もし腹に抱えた膿があるなら、早いうちに取り除くにこしたことはないだろう」
疑わしいから遠ざけるのではなく、手近に置いて監視する。そのためにロリンダにデルロイとマルコスをつけたのだ。
「……仮に、こちらの信用を得るために一切の尻尾を出さなかった場合は?」
補佐官の追及に、ライナスは再びおかしげに喉を鳴らした。決まり悪そうに体を揺らしたリナルドを眺めて、肩を竦める。
「その時はまたその時に考えるさ。こちらに不利益がなければ大した問題ではない」
「出過ぎたことを申しました。いかなる罰も謹んでお受けします」
「気にしない。東部を考えてのことだろう。お前が慎重でいてくれたほうがちょうどいい」
部下が主人を恐れず意見を述べられるのは、職務が健全に機能している証拠だとライナスは考えている。権力や武力で従えたいとは思わない。
魔物という直接の脅威が隣にある以上、必要なのは味方への支配ではなく背中を預けられる仲間と信頼を築くことだ。万一の際、魔物に倒されるよりも先に味方に背中を斬られれば目も当てられない。
「何が出てくるか……」
その呟きは無意識のものだった。
◇ ◇ ◇
ロリンダが鏡台の前で深く溜息をつくと、幼少の頃から傍にいてくれている侍女のフェリが濡れた髪を拭きながら小さく笑いをこぼした。
手際よく髪を乾かされていく心地よさに身を任せながら、ロリンダはもう一度深く息を吐き出した。
「お疲れですね、お嬢様」
あらあらと困ったような笑い声を混ぜながら話しかけてくるフェリに、ロリンダは勢いよく振り向こうとしてフェリに止められる。あ、と体を正面に戻してから、ロリンダは脱力するように肩を下げた。
「知らないことを知るのは楽しいけど、覚えることもたくさんあって頭から湯気が出そう。だけど私が間違うわけにもいかないから頑張らないといけないし、もう大変よ!」
「お嬢様は頑張っていらっしゃいますよ。マルコス様も『飲み込みが早くて感心する』と褒めていらっしゃいましたし」
「ほんとっ?」
ぱっと表情を輝かせたロリンダの瞳が、嬉しさに大きく見開かれる。
ライナスの執務室に呼ばれたとき、初めて足を踏み入れる場所にドキドキしたのと同じくらい、何かいけないことをして叱られるのではないかとビクビクしていた。
けれど蓋を開ければ侯爵夫人としての務めを任され、ライナスは本当にロリンダを「侯爵夫人」として扱ってくれるのだと分かり、浮足立つ感情を抑えることに苦労した。
その期待を裏切るような真似はしたくない。
王都で聞くライナス・フィンチ侯爵の噂といえば、血に飢えた非道で残虐な人間だという恐ろしい話題に満ちていた。優雅さもない、血に濡れた蛮人だと誰もが彼を恐れていた。
そんな相手と結婚することになったと聞いた時、恐れなかったといえば嘘になる。だがそれ以上に、そんな噂が付き纏う相手に王命とはいえ、平然と娘を差し出す父に失望した。
そうして結婚式の前日となって初めて東部に足を踏み入れたのは、完全にエルソム侯爵による嫌がらせのせいだった。対象はライナスとロリンダどちらもだ。あの男はライナスのもとでロリンダがどういう扱いを受けようと、痛む良心など微塵も持ち合わせてはいない。
だから平気で娘を嫌がらせの道具として利用できるのだ。
だがエルソム侯爵のそんな思惑とは違い、ライナスは王都で流れる噂話とはかけ離れた人物だった。常に理性的で、声を荒げることもなく、不義理を働く相手を前にしても剣を抜くこともない。
ライナスがこの結婚についてどう思っているのか、その本音も素直に話してくれ、その誠実さがロリンダにはとても好ましかった。
出会った瞬間から胸の奥で鼓動はうるさいほど高鳴っていたが、言葉を交わすほどにその高鳴りは間違いではなかったと確信した。
気高く、誇り高く、それでいて芯の通った優しさを持つ騎士様。
物語の中にしか存在しないと思っていた理想の相手が、現実の夫として目の前にいたのだ。
それからはずっと、ロリンダは彼に失望されない妻としての振る舞いを忘れなかった。
「早く侯爵様に認められるように、もっと頑張らなきゃ……!」
「侯爵様はもうお嬢様をお認めになられているのではないですか? だからマルコス様をおつけになられたのでしょうし」
髪を梳かしながら返すフェリの言葉に、鏡の中でロリンダが困ったように微笑んでいた。
「それよりフェリ。私はもうお嬢様じゃないわよ」
「失礼いたしました、奥様」
よろしい、と威厳を見せるように重々しく頷き、ロリンダは隠すようにそっと息を吐き出した。




