03
結婚から一週間ほどが経過しても、ライナスの日常には何の変化も訪れなかった。
午前は早朝の鍛錬を済ませた後で政務に入り、午後は遅くまで騎士たちと訓練を行う。魔物発見の知らせがあれば必要な人員を送り出し、事態が切迫していればライナス自身が出ることもある。
時折自分が妻を迎えたという事実すら意識の底へ薄れかけていく生活の中、だが、彼女の存在を完全に忘れ去ることはできなかった。
屋敷のどこかの廊下や庭園から響いてくる、この屋敷では聞き慣れない女の明るい笑い声。
ロリンダは、いつの間にか屋敷内の使用人たちとすっかり打ち解けていた。
最初こそ使用人たちも中央からやってきた侯爵令嬢という肩書に警戒し、その一挙手一投足を観察するように眺めていた。しかし、屈託のない笑顔で話しかけたり、無邪気に振る舞う彼女の素朴な明るさは、勝手にイメージしていた「お高く留まった貴族令嬢」という印象を打ち砕いた。
一人、二人と警戒を緩める者が出始めると、周囲もそれに追従するようにロリンダを受け入れていった。
護衛として付けたデルロイからの報告も、特に問題となるものはない。
(何を考えているのか、何も考えていないのか……)
どちらにせよ、ライナスが密かに巡らせていた警戒網は今のところ拍子抜けするほど空を切っていた。まるでライナスの懸念のすべてが無駄骨であるように、ロリンダは自らの立場を弁えている。
(ならばこちらから誘ってみるか……?)
いつの間にか止まっていたペン先で机を叩き、思考に耽る。
だがその動きすら止まり、不意に訪れた静寂を高らかに弾む声が破った。外から聞こえたその声にライナスは思わず背後の窓を振り返り、立ち上がった。
主の行動を察したリナルドが素早く先回りし、執務室の窓を開け放つ。見下ろした前庭には、ロリンダとデルロイの姿があった。
こちらを見上げるロリンダと目が合ったと思った瞬間、きゃあきゃあとはしゃぐ声がライナスのところまで聞こえてきた。ロリンダは何かを訴えるようにデルロイの腕を叩き、デルロイが仕方がなさそうに言葉を返している。
「侯爵様ー! 許可して下さりありがとうございます! 可愛いお庭を作りますねっ」
ロリンダは頭上で大きく手を振り、満面に笑みを浮かべてはしゃいだ声を弾ませる。
告げられた言葉に改めて彼女の装いを見ると、ロリンダはドレスではなく動きやすさを重視したシャツとズボンを穿き、作業用のエプロンを身に着けていた。
今朝、彼女が注文していた花の苗と種がようやく届けられたという報告はライナスも把握している。だが、ライナスは当然、彼女が庭師に細かな指示を出すものだとばかり思っていたのだ。
まさかそれが、侯爵夫人の立場にありながら、自ら土いじりに励むつもりだったとは。
ロリンダが上げた声につられるようにして作業をしていた使用人たちがライナスの視線に気づき、慌てて手を止めて頭を下げる。
ライナスが窓際から離れると短く残念そうな声が上がり、デルロイが取り成す声が聞こえてくる。しかしその声もリナルドが窓を閉めると、ぱたりと聞こえなくなった。
その日の夕方。ライナスは普段よりも早く訓練を切り上げると、汗を落としてから食堂へと足を向けていた。
使用人が開けた扉の先ではすでにカトラリーの軽やかな音が響いていた。テーブルの端、主人の席の近くに座っていたロリンダは、ライナスの姿を認めるや否や目を丸くし、次の瞬間にはパッと花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「侯爵様! 今日はこちらにいらっしゃったんですね。そうとわかっていたら待っていたのに……」
カトラリーから手を離し、どこか本気で悔しそうな顔をするロリンダを奇怪に眺めながら、ライナスも席に着く。すぐにライナスの前にも料理の皿が運ばれてきて、結婚してから一週間後にようやく、食堂に夫婦が揃うこととなった。
壁際に控える使用人たちの奇妙な緊迫感には気付かない振りをしながら、ライナスは料理に手を付けながら問いかけた。
「不自由はないか」
「はい! 皆様とてもよくしてくださっています」
とても元気の良い答えだった。
ロリンダの言葉にも表情にも、夫から蔑ろにされている不満や翳りは一切見当たらない。腹に一物を隠した貴族特有の遠回しの嫌味にも聞こえない。
彼女は心の底から現状に満足し、喜びを感じているようだった。
ライナスは予想外の純粋さに一瞬面食らいつつも、グラスを傾けて会話を続けた。
「昼間は庭で何をしていたんだ?」
その問いかけに、待っていましたと言わんばかりにロリンダが前のめりとなる。
「私の好きなデイジーと、ビリーさんおすすめのお花を植えていました!」
ビリーは代々庭師の家系に生まれ、彼自身もフィンチ侯爵家に長く勤めてくれている。
無口で職人気質なため、他の使用人たちとの仲は可もなく不可もなくといったところだが、あの頑固者の懐にもロリンダはあっさりと飛び込んでしまったらしい。
「そうか」
「はい!」
ライナスの素っ気ない相槌にすら、ロリンダは嬉しそうに何度も頷いて見せる。そして笑みを浮かべたまま、言葉を重ねた。
「侯爵様の好きな花はなんですか?」
「……花など気にしたこともない」
「じゃあ、好きな花が見つかったら私に教えてくださいね!」
「あ、ああ」
関心のなさを隠さずに答えても、ロリンダは落胆することもなく希望に満ちた眼差しで弾むような声を返してくる。
ライナスはそんな彼女に押され気味になりながらも、短く答えを吐き出すのが精一杯だった。
不意に壁際から聞こえてきた小さく噴き出すような声にライナスは素早くデルロイを睨みつけ、何事もなかったように食事を再開させる。
言葉を交わせばかわすほど、目の前にいる女の真意がわからなくなる。計算された演技にしてはあまりにも破綻しており、無垢な無知にしてはあまりに恐れを知らなすぎる。
胸の奥に芽生えた捉えどころのない惑いを隠すように、ライナスは静かにナイフを動かし続けた。
そしてふと、何かにようやく気付いたように視線を巡らせ、その眼差しは自分よりも前に席に着いていたはずのロリンダの手元で止まる。
彼女の前に置かれた皿の料理が、ライナスが席に着いてからほんの僅かにしか減っていない。
「……口に合わなかったか」
無意識にこぼれ落ちた呟きに、ライナスは配慮が欠いていたことを自覚する。
東部の食事は中央の料理に比べて肉や根菜の主張が強い。特にフィンチ侯爵家には騎士が多いため、料理の味も体を動かす者たちの口に合わせたものが多くなっていた。
繊細な舌を持つ令嬢には重すぎたか──そう考えたライナスだったが、ロリンダは弾かれたように慌てて首を横に振った。
「い、いえ! とっても美味しいです、本当に!」
取り繕うように浮かべられた笑みは、けれど明らかにぎこちなく歪んでいた。
ライナスが返事もせず、ただ静かに見つめ続けると、沈黙と視線に耐えかねたように彼女の瞳が泳ぎ始める。そしてやがて観念するように小さく肩を落とし、申し訳なさそうに重く口を開いた。
「……実は、その……。私には少し量が多くて……」
「なぜ言わなかった」
「だってせっかく作ってくださったのに、残してしまうなんてもったいないじゃないですか!」
「そんなこと君が心配する必要は──」
ない、と言いきろうとして、ライナスはロリンダの細い肩が小さく震えていることに気付いた。視線だけをデルロイに向けると、僅かに首を振って返される。
吐き出しかけた溜息を飲み込むと同時に、妙に胸の奥が重くなる。
「料理長とて、君が無理をして胃を痛めることは望まないはずだ」
そう声をかけても、ロリンダの俯いた顔は上がらない。
「あとどれなら食べられそうだ?」
問いかけたあとに続く重苦しい沈黙に、先に白旗を揚げたのはロリンダだった。
「……スープと、あとデザートくらいなら……」
か細く伝えられる答えを聞き、ライナスはロリンダの前に置かれていたメインの肉料理の皿に手を伸ばした。それを自身のもとへ引き寄せ、代わりにスープ皿を彼女の目の前に差し出す。
「侯爵様っ!?」
驚きに声を上げるロリンダを無視して、ライナスは手元に寄せたステーキ肉に淡々とナイフを入れる。
「君は少し痩せすぎている。もう少し肉を付けたほうがいいとは思うが、いきなり量を増やすのも体に差し支えるだろう。後で料理長を向かわせるから、話し合うように」
「……はい」
平然と食事を再開させるライナスの姿に、ロリンダも恐る恐るスプーンを握り、スープに口をつける。しかしすぐに、何か重大なことに思い当たったように突然悲鳴を上げた。
何事かと、壁際を離れてデルロイが飛び出そうとするより早く、ロリンダが再び声を上げる。
「だ、だめですっ!」
「なにがだ」
「そんなことをしたらドレスが入らなくなっちゃう……!」
切実な表情でドレスのウエスト部分を表現するように両手で虚空を掴む仕草を見せるロリンダに、ライナスは今度こそ深く頭を抱え、心底呆れた溜息を吐き出した。
その傍らでは素早く駆け寄ろうとしていたデルロイが安堵したように気の抜けた笑いを浮かべ、身を固くしていた使用人たちもほっと胸を撫で下ろしていた。
そんな彼らの様子にロリンダもハッと事態を察した表情となり、慌てて彼らに「ごめんなさいっ」と声をかける。
侯爵夫人がスープを口につけた直後、声を上げたのだ。食事に何か仕込まれていたのではないかと想像するのは当然の結果だ。
「君はもう少し落ち着きを身につけるべきだ」
「……はい。申し訳ありません」
反省しています、と両手を膝に置き項垂れるロリンダに、ライナスは痛む頭を抑えたまま言葉を続けた。
「それから、ドレスのサイズ調整などいくらでも間に合う。明日、もう一度仕立て屋を呼び寄せよう」
「あ……、ありがとうございますっ!」
先ほどまでの悲痛な表情が嘘のように、一瞬でぱっと輝くような満面の笑みを咲かせる。
(これが演技であれば大したものだな)
気を持ち直したように楽しそうに食事を続けるロリンダを見つめながら、ライナスは静かにその横顔を観察していた。
◇
「相変わらず邸宅内を探るような素振りもなければ、生家へ手紙を送るような動きも一切ありません。それどころか、中央のご友人とも連絡を取り合っている様子は見られません。時間があれば侍女に本を頼み、それを読んで過ごされています」
深夜とも呼べる時間帯。
ライナスはデルロイの報告に僅かに眉を動かした。
「本? 何を読んでいる?」
「主に東部の歴史や風土について記された本ですね。あとはこちらで流行りの絵本など。侍女の話では、夫人はエルソム侯爵家でも本を読んで過ごされることが多かったようです」
ワインの入ったグラスを静かに揺らしながら、ライナスは思考を繰り返す。
「本については問題ない。どこでも読めるようなものばかりだからな。……ところで、調査の方はどうなっている?」
気掛かりなのは食堂での一件だ。
「明日、情報屋と会う予定です」
「そうか」
静寂を取り戻した室内に向けて深く息を吐き出し、ライナスはグラスに残ったワインを呷った。




