02
翌朝。早朝に起き出したライナスが訓練場で剣を握っていると、しばらくして先代の頃からフィンチ侯爵家の執事として仕えているマルコスが姿を見せた。
ライナスは剣を振る手を止め、流れ出る汗を拭いながらマルコスが近付いてくるのを待った。
「どうした」
マルコスは鍛錬の邪魔をしてしまったことを詫びるように深々と頭を下げ、困惑を隠しきれない表情で口を開いた。
「奥様が、旦那様は朝食をご一緒にされないのかと、大変心配なさっておいでです」
その言葉にライナスは眉間に皴を寄せ、深い溜息と共に払うように手を振った。
「いつも朝食は執務室で済ませているだろう。結婚したからといって私の生活を変えるつもりはない。……他の者たちにも伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
昨晩、不干渉であることを伝えていたはずだが、理解していないのか。
もう一度話し合う必要があるのかとライナスが気乗りしないまま思案していると、見られている視線に気付く。傍に控えるマルコスの躊躇った様子に彼を持ち場に下がらせようとして、思い出す。
「今日の彼女の予定はどうなっている?」
問いかけると、マルコスは淀みなく答えた。
「本日は邸宅内と庭園を散策のご予定です」
「そうか。……午後に馴染みの仕立て屋が到着する。そのつもりで過ごすよう、彼女に伝えてくれ」
了承を示して頭を下げるマルコスを下がらせ、ライナスは再び剣を握る。
王都からこの東部へとやってきたロリンダの荷物は、侯爵家の令嬢としては異様なほど少なかった。東部では中央ほど頻繁に夜会や茶会が催されるわけではなく、華美な装飾品を持ち込んでも無用な長物となってしまうだろう。
だが、随行していた使用人や侍女たちも、エルソム侯爵と共に去ってしまった。残ったのはフェリという侍女ひとりだけだ。
フィンチ侯爵家が中央から侮らされているがゆえの手抜かりなのか。
それともロリンダ自身がエルソム侯爵家の中で軽んじられているのか。
「やはり腹の探り合いは面倒だな。魔物のように切り捨てて終われば、どれほど楽か」
口をついて出た自嘲を断ち切るように、ライナスは袈裟懸けに剣を振り下ろした。
鍛錬後、水を浴びて着替えた後は、執務室で齎された急報の処理にあたっていた。
魔物対策として、常にフィンチ侯爵家が指揮する討伐部隊が森の出入り口を巡回し、防衛態勢を整えているが、稀にその防衛網を潜り抜け、魔物が近隣の村に出没することがあった。
今回魔物が発見されたのは、その森の西側の地区にある村だった。
幸いすぐに巡回の騎士が駆けつけ魔物は討伐されたが、巡回経路や手順の見直しが必要となるかもしれない。
補佐官のリナルドと共にライナスが周辺地図を机に広げ、対応について議論を交わしていた、その時だった。
薄く開けられていた窓の隙間から、遠く庭園の方で上がる賑やかな声が風に乗って流れてきた。
鈴を転がすような笑い声と、それに調子を合わせたようなデルロイの軽い声。
(──もう打ち解けたのか)
人選としてデルロイに決めたのは間違いではなかったようだ。
デルロイは騎士としては軽薄な面もあるが、それゆえに他者の懐に入り込むことにも長けた柔軟性の持ち主だった。
「ライナス様?」
閉めましょうか、と窓を睨むように見ながら話すリナルドに、ライナスは僅かに唇を歪め、首を振って答える。
「それより、今後の対応だが──」
意識を議論に戻せば、周囲の雑音が耳に入ることはなかった。
その日の夜。
ライナスはロリンダの護衛任務を終えたデルロイからの報告に耳を傾けていた。デルロイは今夜は騎士服を乱すこともなく着用し、生真面目に部屋の中央に立っている。
「午前は随分と楽しそうに散策を満喫されていましたよ」
「……どこに楽しむ要素があったんだ?」
ライナスの怪訝な問いに、デルロイは肩を竦めて「……さぁ?」と曖昧な返答を寄越した。
このフィンチ侯爵邸は東部における魔物との前線に位置する砦としての性格が強い。廊下に飾られた調度品も実用性を第一としたものばかりで、中央の貴族たちが好むような財を見せつけるための華美な装飾は一切省かれている。
庭園とて、前侯爵夫人が存命だった頃は多少の慰めにと季節の花を植え、細部にまで手が入れられていたが、今は庭師が最低限の見映えを整えているだけだ。
花を愛でるような優雅な趣向とは程遠いものを眺めて、何に興じていたというのか。
ライナスは隠すことなく溜息をつくと、続きを促した。
「言葉を濁すな。何のためにお前を護衛につけたと思っている」
「ははっ。やっぱり監視目的じゃないか」
即座に返された軽口に睨みを飛ばすと、デルロイが慌てた様子で直立不動となる。
「失礼しました! 奥様からの伝言です。庭園の一角を借りて花を育てたい、とのことでしたが。いかがなさいますか」
「好きにさせておけ。ただし庭師の邪魔はするなと伝えろ」
ロリンダが何を企んでいるのか、あるいは貴族令嬢の気紛れなのかは知る由もない。
だが、屋敷の安全を脅かさない限り、その行動を過剰に制限するつもりもまたなかった。いずれはこの東部の退屈さに痺れを切らし逃げ出すかもしれないが、それまではこちらも最大限配慮していたという建前は必要だ。
「承知しました。……ああそれと、ドレスの件は大変お喜びになられていましたよ。主君に直接お礼がしたい、とおっしゃっていましたが」
「不要だ」
「そういうと思って、そのようにお伝えしておきました」
いかにも気が利くだろうと言いたげに胸を張るデルロイには何の反応も示さず、ライナスは手元の書類へ視線を戻した。
「それ以上報告がないなら下がれ。お前の無駄口に付き合う暇はない」
「はいはい、わかりましたよっと」
早々と堅苦しさを脱いだデルロイは、ひらひらと手を振りながら執務室を後にする。扉の閉まる音を聞き、ライナスは走らせていたペンを止めると椅子に深く体を沈めた。




