01
屋敷に仕える者たちも寝静まったような深夜。しかしフィンチ侯爵邸の執務室には未だ煌々とした明かりが灯されていた。
領地から上げられてくる報告書に目を通すライナス・フィンチ侯爵の眉間には、深い皴が刻まれていた。短く刈り上げられた硬質そうな黒髪に、眦がやや吊り上がった濃紺の眼差し。酷薄めいた無表情さを滲ませる顔を僅かに動かして、ライナスは億劫げにペンを走らせた。
「なぁ、ライナス。確か今日はお前の結婚式じゃなかったか? なんでここにいるんだよ」
「そのせいで今日の仕事が滞った。魔物はこちらの事情を酌んで侵攻などしないからな」
「いやそうだけど。そういう話をしてるんじゃない。一応は初夜だろ?」
言い聞かせるようなその声にライナスは溜息をつき、当主の執務室の長椅子で寛ぐ男を睨んだ。フィンチ侯爵家に所属する騎士であるデルロイ・シドンズは上着を椅子の背にかけ、シャツのボタンも緩めた姿で長椅子に横たわっていた。
長い付き合いの相手とはいえ、東部の守り手であるライナスを前に恐れ知らずなことができるのはこの男くらいだった。
「無駄口を叩きに来たのなら周囲の巡回でもしてきたらどうだ、デルロイ」
「警備の人員はちゃんと残してきてますよ」
横たえていた体を起こし、椅子の背に腕を預けてじっと視線を送ってくるデルロイに、ライナスは早々と会話を続けることを選んだ。
「所詮は王命だ」
抑揚もなく切り捨てられる言葉。
デルロイは呆れるように息をこぼし、小さく肩を上下させた。
中央と東部の確執を懸念した王の独断による政略結婚。
イバルース王国の東部には魔物を生み出す森があり、建国以来東部の領主がこれの侵攻を抑えてきた。当時は中央に住まう貴族も積極的に東部の支援を行ってきたが、時代が過ぎるごとに徐々に中央と東部の間には溝が生じるようになっていた。
東部が国の守りとして魔物を抑え続けた結果、中央貴族たちは魔物を軽んじ、東部貴族たちを魔物と戦うしか能のない蛮人と見下すようになったのだ。
そして王命によって東部に嫁を出すことになったエルソム侯爵家といえば、その筆頭格であった。
「じゃあ今頃夫人はお前を待ち続けてる、ってことか?」
「いや……」
たとえ確執のある家の娘であってもそれはどうなのか。
複雑な顔をするデルロイにライナスは反射的に否定して、考え込むように口元に手を当てた。
◇
和解の象徴として、政治の道具として送られてきた娘。
貴族とはそういうものだと諦念を抱きながらも、ライナスとて無意味に他者を虐げる趣味はない。たとえそれが決して相容れない家の人間だとしてもだ。
だからこそライナスは最初に示しておくべきだと、執務室に向かう前に夫婦の寝室へと足を向けていた。
この部屋が使われることは当分ないだろうと思っていた扉の先に、彼女はいた。
日中の豪奢なドレスを脱ぎ落とし、楚々とした夜着の上にショールを羽織っただけの女が、ベッドの端で落ち着かない様子で座っていた。柔らかそうな亜麻色の髪は肩口で緩くひとつに纏められ、その毛先を白磁のような指に巻き付けてはすぐに解けていく。
式の最中は濃いめの化粧をしていたのか、今はその顔が幾分幼くも見える。
(確か二十と聞いていたが……)
ライナスよりも五つ年下の妻となった女は、人の気配に気づくと弾かれたように顔を上げた。
その瞳には政略結婚を憂う陰鬱さや、東部の蛮人に対する恐れなど微塵も窺えない琥珀色の瞳。ただひたすらに無防備で、何かを期待したように頬を紅潮させながら輝きを放つ表情に、ライナスの心は一瞬で冷めた感情に満たされていた。
(所詮はエルソム侯爵家の娘か)
結婚式でもろくにその顔を見ることもなかったロリンダを見下ろし、ライナスは冷たく口を開いた。
『この婚姻は王命に従うという相互の義務を果たすためのものだ。形式上、妻としては扱うが、それ以上の干渉は期待するな。──俺が君を愛することもない』
形式的な婚約期間は設けられていたが、ライナスとロリンダは今日の結婚式が初対面だった。ライナスは義務として「東部の地を知るため、輿入れ前に一度訪れてはどうか」と窺いの手紙を送ったが、それに対する返事は来なかった。それがエルソム侯爵家の答えだ。
最初から互いにうまくやるつもりも微塵もない。良好な関係など築くつもりはないと宣言してきた相手を妻として迎え入れるだけ、ライナスは十分義務を果たしていると言えるだろう。
そもそもこの結婚は一方的に東部が負担を抱え込むだけで、何の利益もありはしない。
『愛さない、ですか?』
呟くようにか細く聞こえた声に、ライナスは思考を切り上げ目の前の妻となった女に意識を向け直した。
そして胸の前で両手をきゅっと握りしめ、なぜか頬をほんのりと朱に染めた姿に思わず身を引いていた。
『あ、ああ……。私たちの間に愛など不要だろう』
何故いちいちそんなことを聞く必要がある、と喉元まで出かかった疑問を飲み込む前に、ロリンダの『かしこまりました!』と溌溂とした声が寝室に響いていた。
勢いよく立ち上がったロリンダは裾を揺らし、軽い足取りでライナスに近付いてくる。
『私も今回の事情は理解しています。ですから侯爵様がそう判断されても仕方ありません。ですが、私が侯爵様を愛するのはかまいませんよね』
『……は?』
『つまり、私が侯爵様を愛する分には何の問題もないということです!』
──いったい何を言っている?
思わず思考が停止したライナスを置き去りにし、ロリンダは心底嬉しそうに笑みを深めた。
『それでは私は部屋に戻りますね。侯爵様もお疲れでしょうし、今夜はゆっくりと休んでください!』
そう言って流れるようにお辞儀をすると、ロリンダはライナスの脇を通り過ぎ一度も後ろを振り返ることなく夫婦の寝室を後にする。
残されたのは、何が起きたのか理解が追い付かないライナスと、ひんやりとした部屋の空気だけだった。
◇
「ライナス? 顔色がよくないが……、何かあったか?」
「……何でもない。お前が気にすることではない」
心配する声に引き戻され、ライナスは無意識に眉間を揉んでいたことに気付く。深く息を吐き出しながらその手を下げ、デルロイの視線を鬱陶しく振り払う。
デルロイはしばらくの間考え込むようにライナスを見ていたが、主君が何も告げようとする気配がないことを悟ると、諦めるように長椅子に深く凭れかかった。
「それで、これからどうするんだ?」
すでに王命は果たされている。この婚姻が覆されることがない限り、何をしようと問題とはならない。
「どうもしない」
寝室でロリンダが見せた姿を払拭し、ライナスは目の前の書類へと頭を切り替える。
「部屋を与え、不自由のない生活を保証する。それで十分だろう」
「十分かねぇ? 屋敷の中を好き勝手に動き回らせて大丈夫か?」
デルロイの言う懸念も一理ある。東部を毛嫌いし、何かと足元を掬おうとしてきた家から送り込まれてきた以上、何らかの指示を受けている可能性もある。あの奇妙な提案も、こちらの油断を誘う演技だった可能性も否定できない。
「……彼女について調べておけ」
「調査ならもうやっただろ?」
「あれは表面的なものを調べたに過ぎない。中央で聞けば誰でも知ってるようなものだ」
そこで言葉を区切り、ライナスはデルロイを一瞥する。
デルロイはそれまでのだらしなさとは打って変わり、背筋を伸ばして長椅子に座っていた。……崩したままの衣服はそのままだが。
「エルソム侯爵家には娘が二人いる。先妻が産んだ娘と、後妻が連れてきた娘。血統と順序を考えれば正当な後継はロリンダであるはずだった。だが、エルソム侯爵がこの東部に寄越したのは、そのロリンダだ」
ただ誓いを交わし、宣誓書に名前を並べるだけの結婚式とも呼べない式の最中。
エルソム侯爵は何を考えているのかわからない表情で、ただその光景を神妙そうな面持ちで眺めていた。そして王家からの見届け人が宣誓書を大切そうに抱えて去るや否や、侯爵は実の娘であるロリンダに一言の労いすらかけることなく早々とフィンチ侯爵家を後にした。まるで東部には長居したくないとでも言いたげに。
そして後妻とその娘に至っては、東部の地を踏んですらいない。
好意的に捉えれば後妻とその娘は立場を弁えた、エルソム侯爵家は後継であったはずの娘を嫁に送るほどこの婚姻を真摯に受け止めている、と考えることもできなくはない。
だが、果たしてそう単純な問題なのだろうか。
「キナ臭いですね。主君は他家の騒動に都合よく利用されたとお考えで?」
「可能性の話だ。……しばらく彼女の護衛につけ」
「監視の間違いでは?」
「護衛だ」
「そうおっしゃるのでしたらそういうことにしておきます」
座ったまま慇懃に頭を下げるデルロイを部屋から追い出し、ライナスは痛みを覚える頭を指先で強く押さえた。
「まったく頭の痛くなる話だ」




