52
ニーナの声ではない。
どこか懐かしく下腹部に疼くような声のした方をリリーは振り返った。
「ああ。ああ、リリーだ。本物だ現実だ本当の、僕のリリーだ」
少し離れた位置に立っていたのは、リリーを犯していたあの男だった。
まるで神の啓示を得た信徒のような歓喜の表情を浮かべ、呆然として、わなわなと唇を震わせながらしかし、一歩一歩と近付いてくる。
「誰? 知り合い?」
ニーナが尋ねると、「はい」掠れた声でリリーが答えた。
男とは対称的に、大きく目を見開いたリリーの表情は固く、両手でぎゅっと握った短剣を胸に抱えて、体を強張らせている。
その様子から察したニーナはリリーを守るように一歩前に出た。
「止まれ」
「あ?」
その男はニーナの存在に今気が付いたみたいに驚いて立ち止まる。
「あんた誰。リリーに何か用?」
男はリリーとニーナを交互に見返しながら、ギョロギョロと動く瞬きのない目玉が、徐々に徐々に充血し赤くなっていく。
「お前こそなんなんだ」
「あたしはリリーの友達よ」
「……違う」
「はぁ?」
「リリーに友達なんていない」
「ああ、そう。それで?」
「リリーには家族も仲間も同僚も何もいらないあってはならない。
僕がいればいい。僕だけがそばにいる資格がある。僕だけのリリーだ。
僕の、僕の僕の僕の僕の僕の! リリーは僕のものなんだ!」
雨とも似つかぬ唾を飛ばしながら激昂する男に、ニーナは呆れを通り越して哀れさを滲ませた目をし、リリーは平静を取り戻しつつあった。
「あんなの無視して帰ろ。行くわよリリー」
「え、あ、はい」
ニーナとリリーが背を向け、男とは逆方向へと歩き出そうとすると、「だめだ!」大声が木霊し、それさえかき消すような衝撃音が爆発した。
瞬間、男は跳躍してニーナたちの頭上を飛び越え、進行方向へと着地する。
「逃がすもんか」
男の呟きは、着地で跳ね跳んだ土や泥や水が落ちる音に紛れたかと思えば、雨足に並ぶみたいに激しさを増していく。
「やっと見つけたんだぞ。ずっと探していたんだぞ。
あの王族の男に連れ去られてからずっと、ずっとずっと探していたんだ。
もうだめかもって思ったさ。諦めようと言い聞かせたさ。
だから! 似た女の子を見つけては愛そうとしたんだ。
でもダメだった。ダメだったんだ。みんな僕の愛を受け取れない。
とてもうるさく泣くし、すぐに壊れて動かなくなった。
アリシャみたいな動かない死体を抱いても意味がないんだ。
僕にはリリーしかいない。リリーが相応しい。リリーリリーリリー!
確信さ。君しかいない。そんな時、目の前に君が現れた。
これはさ、もうさ、そういうことだろう。
一緒にイコ。また僕と愛し合おう。
さあ、リリー。こっちに来い」
男は一息に言い切ってしばらく、沈黙が帳を下ろして、ニーナが口を開いた。
「きっしょ。リリー、あのブタに現実ってもんを教えてあげなさい」
「なんだお前。嫉妬してるのか?」
「はっ?」
「ああ、分かった分かった。いいさ僕は寛容だから。お前みたいな行き遅れたアバズレだって抱いてやるから。ほら、まずは口より先に股を開けよ」
額に青筋を立てたニーナはポケットからライターを取り出し蓋を開ける。
「グ」
「わたしは」
割り込むように、リリーが声を発した。
「ん?」
「わたしは、たしかにあなたに体を許していました。
当時は分からなかったけど、今はどれほどおぞましいことかも分かります。
だからこそ、断言できる。
わたしは、心まであなたに許した覚えはない。
わたしは、あなたを愛したことなんてない。好きになったこともない。
そもそも誰なんですか。あなたの名前さえ、わたしは知りません」
顔を上げ、真っ直ぐと男の目を見てリリーは言い放った。
ぽかんと口を開けて聞いていた男は、生気を失ったように顔面が白くなっていく。
そうして、歯を鳴らし、「そう」小さく呟いた。
「ああ、そう。そう、そうか。いいよ、じゃあもういいよ。こんなに優しくお願いしてやったのに。女ってのはすぐにつけ上がるんだ。もう、頼まない」
男は全身を力んで強張らせると肉が膨れ上がり、ボンと音を立てると、衣服が弾け飛んで全裸になった。
身長や体の体積はダズよりも大きくなり、しかして筋肉質というわけでもない出っ張った腹に、脂肪がついた手足はだるだるのままである。
「ぶへぇ」
臭気でも漏れてきそうな大口を開け、上下の歯に唾液の橋が架かる。
「僕のものにならないなら、手足もいで僕専用の肉便器にしてやる」
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