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リリーが父を埋葬してから半月以上が経過していた。
まだ霧の出る早朝に家を出たリリーは、行きつけのパン屋さんまで歩いていく。
算術の勉強と地域の人とのコミュニケーションを目的としたリゼの方針で、朝食に食べるパンを買いに行くのがリリーの日課になっていた。
「おばさん、おはようございます」
「あらリリーちゃん今日も偉いわね。いつもの?」
「はい、いつもので」
「ちょっと待ってて」
この頃のリリーは誰に対しても背筋を伸ばすような、やや内向的かつ面映ゆい様子ではあるものの、年相応の好奇心と、いい意味での子どもっぽさが出てきていた。
「おー、リリーおはよう」
おばさんと入れ替わるように、今度はおじさんが出てきた。
「おはようございます」
軽く会釈をして恥ずかしそうに微笑むのは、こうすると印象が良くなるとリゼから教わったからである。
リリーは半信半疑だったが、その思惑通り、彼女の笑みに当てられた者たちは老若男女問わず顔をほころばせていた。
「毎日偉いなぁほんとに。孫に欲しいくらいだ」
「そしたら美味しいパンがたくさん食べれますね」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
おじさんはガハハと笑い、カウンターから手を伸ばしてリリーの頭を乱暴に撫でた。
「今度はリゼさんも連れてきなさい。うんとサービスするから」
「そんなこと言って、下心が見え見えですよ」
背後から声がして、びくりと肩を震わせたおじさんは、錆ついたブリキのおもちゃが首を回すみたいに後ろを振り返った。
「いや、これはその、違くて」
「お待たせ。はいこれ」
「ありがとうございます、ってあれ、ちょっと多くないですか?」
「サービスよ。いつも買ってくれるし、食べ盛りなんだから」
「たくさん食べたらおばさんみたいにキレイになれますか?」
「あらやだ本当のこと言ってくれちゃって。これもう一つおまけね」
「ありがとうございます」
リリーがお礼を言ってお会計をする横で、「お世辞だろ」と呟くおじさんの足をおばさんは踏みながら対応する。
受け取った釣り銭を数えて確認したリリーは、それをポケットにしまった。
「ありがとうございます。また来ます」
そう言って店を出るリリーの背をおじさんたちは名残惜し気に見つめていた。
「あんな孫が欲しいなぁ」
「世迷い事は死んでから言ってください」
溜め息がこぼれて、二人は各々の仕事を再開しはじめるのだった。
リリーはすぐに帰ることはせず、街を散歩していた。
カーテンと窓を開けて寝ぼけ眼を擦り大きなあくびをする男性。
犬を連れているのか犬に連れられているのか分からないおじいさん。
営業準備で店の前を掃除しているお姉さん。
露店の品を並べている怪しげなおじさん。
よく買い物をする八百屋のお兄さん。
包丁を持っているとまるで殺人鬼のような肉屋のおじさん。
街が眠りから覚めて準備運動を始めるようなこの静寂が、ここひと月の間にリリーが好きになったものの一つであった。
初めておつかいに出た時、リリーはおっかなびっくりに体を縮こまらせて歩いていた。
というのも、リリーにとってつい最近まで、その住人たちは自分のことを人とすら思っていない目で見ているものと思っていた。
たしかに身ぎれいになり、リゼという保護者がついたとはいえ、また嫌な目に遭うのではないかとリリーは半信半疑だったのだ。
一人で街に出て、歩いてしばらく、それが杞憂であったとリリーは知った。
誰もリリーのことを蔑んだ目で見たり、絡んできたりしないどころか、丁寧に挨拶をしたり笑顔を向けてくれる。
今ではもうすっかり、リリーの方から声をかけれるようになっていた。
リリーは道行く人や知り合いに挨拶をして歩き、いつかジェイドに抱えられて街を見下ろした時計塔の前までやってきた。
下から覗くとかなりの高さで、建物の四、五階分くらいはありそうだ。
リリーはここに来るといつもあの夜のことを思い出し、一度でいいから自分でも上ってみたいと思っていた。
しかし、関係者以外立ち入り禁止なので、勝手に中へ入るというわけにはいかない。
闇夜に紛れて上ることも考えたが、リゼにバレたら後が怖い。
怒声や罵詈雑言を浴びせてきたり、鉄拳制裁があるわけではないのだが、理詰めと正論で規範や道徳的精神を説いてくるのだ。
ぐうの音も出ないほど言葉でぼこぼこにされた挙げ句、勉強内容を増やされるのが目に見えている。
思い出すだけで冷たい汗が背筋をなぞり、リリーの好奇心を抑え込む。
よし、帰ろう。
リリーはそう決めて時計塔に背を向けた。
いつか上れたらいいなと頭の片隅に願いをどけて。
その時は、リゼも一緒にと付け加えて。
リリーは帰路を急いだ。
〇ストーリー要約
・父親を埋葬してから半月以上が経過
・早朝、リリーは朝食のパンを買いに出かける
・パンを買ったあと、街を散歩する




