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家に帰ってすぐ、リリーは逃げるように自室へと入った。
汚れた服もそのままで、ベッドに横になる。目を閉じて、眠ってしまいたかった。
眠ってしまえば、その間だけは何もかもから逃げることができるから。
だがどれだけ経っても、一向に眠ることはできなかった。
そればかりか逆に頭が冴えてきて、父との日々が濁流のように押し寄せてくる。
リリーが思い出せる一番古い父との記憶は、手を引かれて街を歩いたことだった。
その頃はまだ父も穏やかなことが多くて、一緒にゴミを拾い、売って、家でご飯を食べる。リリーがニコリと笑うと、父は苦しそうに笑みを浮かべた。
次第に父の足の怪我が悪化して、長時間歩くことが困難になった。
リリーは幼いながら一人でゴミ拾いをすることが多くなった。
そんな時あの男がやってきて、父と何か口論を交わしたあと、行為が始まった。
父がよく怒るようになったのもこの頃からである。
稼いでくる金が少ない。食い物がない。酒が足りない。
泣くな笑うな表情を変えるな。声を出すな、動くな、迷惑をかけるな。
リリーはいつしか家にいても一人ぼっちになっていた。
ゴミ拾いの最中、あまりに喉が渇いて、一般市民用の井戸で水を飲んだことがあった。
通報されたらしく、すぐにやってきた警官隊に捕まり、むち打ちと尋問を受けた。
どういうわけが父までやってきて、リリー以上にむちで打たれていた。
野犬や人に襲われて怪我をしたり、病気になったことが何度もある。記憶は判然としないが、父に看病してもらったはずだ。
父はまだ自分を必要としてくれている。それがリリーには嬉しかったし、心の拠り所でさえあった。
帰りが遅くなった時、複数人の男たちに囲まれて、より人気のない場所へと連れられた。
あの男と同じ行為を何度も何度もされた後、道端に捨てられた。
気が付くと父に髪を引っ張られながら、引きずられていた。
星と月がやけにきれいだった。
夢か現か、首を絞められながら「お前さえ生まれて来なければ」と父は言っていた。
死のうと思ってみたこともあったけど、父に一度も死ねと言われたことはなかったので、行動に移すことはなかった。
それからそれから。そうしてここに誘拐されてきて、父は死んでしまった。
リリーはふらふらと立ち上がり、バルコニーに出た。
梯子を上って屋根に上がり、膝を抱えて座った。
雲の晴れて無数に点在する星々と欠けた月がよく見える夜だった。
虚空をじっと眺めていると、自己が溶け、闇に混ざって境界が曖昧になっていく。
カンカンカンと梯子を上ってくる音がして、リリーは我に返った。
「こんなところにいたの」
やってきたのはリゼだった。リリーは思わず「リゼ」と蚊の鳴くような声で呟いていた。
まるで赤子から初めて母と呼ばれた時のように、驚きと得も言われぬ充足に満ちた表情を隠しきれないリゼは、咳ばらいを一つして「隣いいかしら」リリーの横に腰を下ろした。
「いい夜ね」
肩が触れ合い、リゼの体温がリリーに伝わる。
「聞いたわ、お父さんのこと。残念だったわね」
リリーは頷くことも首を横に振ることもしなかった。
代わりに「ごめんなさい」風の音にも負けそうな擦れた声で謝罪を口にした。
「それは、何に対して?」
まさか謝られると思っていなかったリゼは困惑しながら、リリーの顔を見て問い返す。
「服、汚しちゃった」
何が語られるのかと身構えたリゼだったが、なんとも可愛らしい理由に思わず吹き出して笑ってしまった。
「なんで笑うの」
リリーは至って真剣であり、笑われる理由が心底分からないといった風に不思議な顔をして尋ねた。
「あなたが可愛いからよ」
そう言われても納得のいかないリリーは顔を背けた。
「ごめんなさい、笑ったことは謝るわ」
頭を優しく撫でられて、膝に乗せた顎がぐらぐらと揺れる。
抵抗はせずされるがままだったが、唇は小さく尖っていた。
「でもね、服なんて洗えばいいのよ」
「でも」
「そんなに悪いと思うなら自分で洗いなさい。教えてあげるから」
「うん」
「ふふっ、良い子ね」
良い子。いい子。いいこ。
その言葉がリリーの脳内で反芻される。
「違う」
一瞬のうちに漂白され、無味乾燥的な記号の羅列になってなお溢れる嫌悪感に、リリーは反射でぽつりと呟いていた。
〇ストーリー要約
・自室に戻って寝ようとするも父親との日々を思い出す
・眠ることができず、バルコニーから屋根の上に出て夜を眺めていた
・そこへ、リゼがやってきた




