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ジェイドが振り返ると、家のドアの前に太った男が立っていた。
男は上半身は裸で、元が高級そうな意匠のズボンはひどく汚れてまたぼろ布と大差なく、腐臭とは異なる乾いた唾液と精液を混ぜたような臭いをまとっている。
「会いたかった。ずっと君を待っていたんだ」
そんなみすぼらしい姿とは裏腹に、その表情はまるで長年祈りを捧げてきた信徒が、主との邂逅を果たしたかのような歓喜に満ちていた。
「また愛し合おう、リリー」
男はそう言うと、一歩、家の中へと入ってきた。
男の目にはリリーしか映っていない。
「止まれ」
ジェイドは腰に下げていた短剣を抜いて、男の進路にその刃を置いた。それ以上進めば、ただでは済まないという警告でもあった。
男はようやくジェイドの存在を認めて、怒りに顔を歪めた。
「なんだお前。リリーは僕のだぞ。僕のリリーだぞ!」
歯を剥き出しにして唾を飛ばし、怒鳴り声をあげるが、男は不用意に襲い掛かろうとはしてこなかった。
感情に任せて殴りかかってこようものなら簡単にあしらえるのだが、変に冷静なところは実に厄介である。
リリーの溢れる魔力が邪魔をして、ジェイドはいま、相手が魔力を持っているのかの判断がつかないのだ。
自身の攻撃を誘っている可能性もゼロではない。
この状態では、警戒しすぎるくらいでちょうどいいとジェイドは考えていた。
「悪い子だなぁリリーは。僕というものがありながら他の男に手を出すなんて。
おい、僕を無視するなよ。くそが、おい!
こっちを向けよ。リリー、こっちを向け!」
男の命令に応じるように、リリーは無意識に首を回して横顔を向けた。
リリーの目が男を捉えた。
自身を構成する数少ない要素のもう一つ。
征服感と欲情に塗れるその下卑た表情を。
愛と囁かれながら尊厳を蹂躙され続けたその過去を。
そうしてリリーは、死の淵から遠ざかり意識を取り戻す。
同時に、溢れ出していた魔力の奔流はリリーの中へと収束した。
「いい子だリリー。
さあ、こっちにおいで。
君はずっとずっと、僕の、僕だけのものだ」
命令に応じようとリリーが腰を浮かして立ち上がろうとしたとき、ジェイドは空いたもう片方の手を懐に忍ばせて拳銃を抜いた。
銃口を向けられた男は目を見開き、蛇に睨まれた蛙のように、びくりと体を震わせて固まった。
歯をガチガチと鳴らし、小刻みに痙攣しながら、一歩後退る。
「ま、まて、待て! 俺を誰だと思ってる!」
男は両手を前に出しながらさらに後退し、自分の足にもつれて尻餅をついた。
「いや、おい、それ」
男はジェイドの短剣を指差しながら、「十字に蛇の円環……」鍔の中央に象られた国章を見て驚愕する。
「お、おま、王家の」
「逃げるか死ぬか好きな方を選べ」
男の言葉を遮るように、ジェイドは言葉を被せた。
カチッと撃鉄が起こる音が静かに響き、選択までのカウントダウンが始まる。
「さん」
ジェイドが時を告げるより速く、男は翻ってしかしうまく立ち上がることができず、四足歩行でもするみたいにバタバタと、脱兎のごとく駆け出した。
男がすっかり逃げていったのを見届けたジェイドは、短剣を腰の鞘に戻し、拳銃を懐にしまった。
リリーはその光景をただ茫然と他人事のように眺めていた。
「リリー」
ジェイドの呼びかけにリリーは目だけを動かし、視線で応じた。
「とりあえず、お父さんを埋葬しよう」
埋葬、リリーには聞き馴染みのない言葉である。
最近読んだ本で、埋葬とは死んだ人を土の下に埋め、魂を天に還す儀式のようなものであり、そういった慣習があることをリリーは知った。
だが、知っているだけだ。天に還して何になるのか。魂なんてものがあるのか。
死者を弔うなどというのは所詮、生者のエゴでしかないのではないか。
リリーにはその行為がとても意味のあるものとは思えなかった。
そんなリリーの心境にはお構いなしに、ジェイドは家の中にあった木製のカゴを持ってきて、バラバラになった死体の一つ一つを入れていく。
リリーもジェイドを真似て死体をカゴの中に入れていく。
まるでゴミを漁って拾うみたいに。
そのカゴは、リリーがゴミを持ち運ぶために使っていた物だった。
〇ストーリー要約
・現れたのはリリーを犯していた男だった(1話参照)
・その男の呼びかけでリリーは意識を取り戻し、暴走が止まる
・リリーを連れ去ろうとするその男をジェイドが追い払う
・父親を弔うことを提案されたリリーは、ゴミを拾っていたカゴに死体を入れる




