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誘拐されてからのリリーは、ただただ日々に必死だった。
ゴミを拾わずとも手に入る温かく美味しい食事、朝まで安心して眠れるふかふかのベッド、変な男の相手や暴行を受けるための肉袋にならなくていい環境。
それらの日々がリリーを苦しめていた。
元の生活が類を見ないほど劣悪であると学んでしまった。
今の生活が一般的なものであると経験してしまった。
もはや、元に戻ることなどできようはずもなかった。
この生活を維持しなければならない。そのためには、自分に求められていることを十全以上に完遂する必要がある。
半ば強迫観念のようなものに駆られながら、リリーはリゼから教えられる文字の読み書きや健康体になること、また日常のちょっとした会話の隅々にまで気を張り巡らせては、常に期待に応えられるよう死に物狂いで努力してきた。
ここ数日の鬼気迫るようなやる気と成果は、こうしてもたらされていたのだ。
そうしてまた今日も今日とて、覚悟を決め、緊張した面持ちで朝食を摂っていた。
そんな時のことだった。
「今日はお勉強も運動もなしよ」
リゼから告げられた言葉で、リリーの心は一瞬にして日向から追い出された。
冷たい影の内に転がるどころか、一直線に崖へと落ちて、あわやと片手で掴んだその縁が、心許ない最後の命綱となっていた。
有り体に言うなら、見捨てられた。
心境がありありと表情に投射されたリリーを見て、言葉を間違えたと反省したリゼはすぐに訂正をした。
「そんな顔しなくて大丈夫よ。見捨てたりなんてしないから」
リリーはすっと目を逸らし、誤魔化すようにパンを一欠けちぎって口に運んだ。
「ジェイドがリリーに用事があるって言っててね」
用事とは何だろうか。リリーはリゼの顔に視線を移して首を傾げた。
「あなたの家に行きたいんですって」
なんだ、ほら、やっぱりじゃないか。非難するような目がリゼを射抜く。
この幼子の疑心暗鬼が解ける日もいつかは来るのだろう。そう思うとどこか惜しく、寂しさを覚えたリゼは小さく溜め息を吐いた。
「リリーを預かることを報告に行くのよ」
思いもよらぬ言葉に、リリーは目を白黒させた。
「ただ例えあなたが望んでいなくても、そして相手方が拒否をしても、私たちはあなたを返すつもりはない。それだけは先に謝っておくわね。ごめんなさい」
リゼの謝罪に、リリーは安堵すると同時に今の今まで忘れていた父のことを思い出した。
未だあの日向へ戻ることは出来ていないまでも、なんとか崖を登りきって一安心と息を吐き、覗いた崖下から自身の足を取ろうとしてくる父の手が伸びてくる。
心臓の輪郭を指でなぞられたような、そんな感覚にリリーは陥っていた。
無論、無意識下ではその影響力を如何なく発揮されているのだが、思考する意識の表層は新たな生活に適応することでいっぱいいっぱいだったため、思い出されることがなかったのだ。
リリーの呼吸が浅くなる中、リゼは「それでね」と自身へ意識を向けさせた。
「家に行くのは午後になるわ」
リリーが疑問を挟む間もなく、リゼはさらに言葉を重ねた。
「午前中はその準備をしましょう」
準備、と言われて考えてみても、リリーには見当がつかない。
「せっかくなんだし、おめかししないと」
そう言って、リゼは午前中の予定を共有した。
まずは床屋へ行って髪を切り、整え、ついでに簡単にメイクも施す。
次に、普段着とは異なるパーティードレスのような一張羅を買いに行く。
どこからどう見ても貴族令嬢のような恰好で、別人のように変身した姿形で、父の下へと赴こうということらしい。
そうは言われても、リリーにはおめかしをした自分の姿が想像できなかった。
そんなことよりも、今日一日をそのおめかしに費やしてしまうんじゃないかという不安の方が、幾分か現実的であった。
「大丈夫、私に任せなさい」
自信満々なリゼを見て、リリーはただそれに従うだけであった。
〇ストーリー要約
・リリーが父親のもとへ行くことを告げられる




