【三】-2 スポーツの神
ベアリタ帝国の使節団が滞在している間、
スタジアムを開放している。
無料なのもあってか、日々の仕事の合間を縫って、
一人、また一人とスタジアムを訪れ、
選手の練習を見物していた。
その中には、昨晩会った、
使節団のリーダー、
王子のお付きの老婆クマもいた。
「隣に座ってもいいですか?」
「どうぞどうぞ。すみませんね、昨日はうちの王子が」
隣の席を軽く手で払われ、その上に座る。
ここから彼女が宿泊しているジェーン邸まではなかなかの距離があるが、
歩いてきたのだろうか。
「そういや、個人的にはまだ名乗ってなかったね。
おいは鉄火山。王子の祖母代わりみたいなもんさ。
おにぎり食べるかい?」
「ありがとう」
朝食はすでに済ませているが、ジェーンは米なら別腹なタイプだ。
真っ赤な真珠のようないくらが入ったおにぎりを頬張って、
ゆっくりと味わう。
「今日は空を飛ぶのに善い気候だねえ」
雲一つない青空を見上げる。
湿り気のない涼しい風がスタジアムを吹き抜ける。
「空を飛んだことがあるの?」
質問は、観客席の最前列から上がった悲鳴に掻き消された。
交流練習の観戦に夢中になっていた子どもが体重を載せた瞬間、
長らく使われていなかった手摺が崩れた。
「そいじゃあ待ってな」
自分が座る席の横にかけていたスケボーを杖で突き、
そのまま横に倒した。
「ただの板で何するつもり!」
ジェーンもすぐさま飛び出そうとする。
だが、その足が地面を離れるより早かった。
鉄火山は重力を感じさせない身軽さでスケボーへ跳躍し、
その上に胡座をかく。
スケボーの下で空気の流れが回転した。
五感が超鋭敏になったジェーンには、
風の道が急速に練られていくのがわかった。
鉄火山はそのまま風の道を滑り、
落下する子どもを抱きとめた。
周囲から安堵の息が漏れる。
子どもを親に渡すと、
鉄火山は何事もなかったように元の席へ戻ってきた。
観客席全体から、今の救出劇を称える拍手が巻き起こった。
スポーツは人並みくらいしか嗜まない僕でも、達人だということはわかる。
何故なら、世の中はありとあらゆる分野の達人が
ヴィランになったりヒーローになったりして、
どういうわけか僕をボコボコにしようとしてくるからだ。
そんな僕の審美眼、判別眼をもってすれば、
この老クマ、今でも現役同然。
むしろ、今が全盛期と断言してもいいほどのスケボーの使い手だ。
「御覧の通り、スケボーを嗜んでいてね」
普通は、スケボーは空を飛べない。
「父がスケボーは空を飛べないって」
「昔、スケボーを極めたら、スポーツの神様に力を貰ってね。
おいのボードは四元素を乗りこなすんだ」
「なんと……!」
この時代を生きているのはジェーンだ。
だから、僕は努めて、生者の会話に口を挟まないようにしている。
それでも声を出さずにはいられない衝撃的な発言だった。
僕の時代にも、神はいた。
それは太陽の神、怪力の神、知性の神、剛力の神、謀略の神などさまざまだ。
名だたる属性の中でも、とりわけ強力なのがスポーツの神だった。
神に必要なのは信仰、そしてそれが最も集まるのはスポーツだ。
賭博の神もかなり強力だったが、
スポーツは賭博もTVゲームも戦争さえも包括している。
ドラゴンや悪魔と敵対してもいいが、
スポーツの神にだけは気をつけろと度々警告されたものだ。
そのスポーツの神と、この老クマは契約したというのか。
「まあ、おいのことはいいさね」
静かに腰掛け、杖に顎を乗せた老婆が眉を上げた。
「あの子のことを聞きたいんだろう?」
こっちの驚愕を他所に、鉄火山は話題を変えた。
そして、ジェーンとしてはそちらの方が本命なのも事実だ。
「王子とは付き合いが長いのでしょう?」
「兄の孫だからね。
子供の頃からおいが面倒見ていたもんさ。
最近は、ばあちゃんは変な匂いするとか
紫色の香水の匂いするとか邪険にされるけどね」
「いつから世界征服の野望を持つように?」
おずおずと質問すると、
鉄火山の穏やかな横顔に、
長い時間が刻みつけた風化と痛みが見えた。
眉毛の向こうに隠れた瞳が、
抱えきれない後悔に苦しんでいる。
「ありゃあ、おいのためだよ。
あの子が本心から世界征服なんぞ望んでるとは思えない。
おいが昔、何をしていたかを知ってから──」
言葉はそこで途切れた。
鉄火山が虚空を凝視し、額に指を当てる。
「どうしたんだい。
え、ジェーン様にもっと好きになってもらうためのオシャレ?
あの人はそういうのに惹かれるタイプじゃないと思うけどねえ……。
はいはい、やってみないとわからないねえ、そうだねえ」
こちらからはわからないが、王子から連絡が来たらしい。
僕やジェーンでも何を使って通信しているのかはわからない。
クレオから送られた通信機でもないようだ。
「それじゃあね。ショーシをこれからもよろしく」
ジェーンに別れを告げ、
鉄火山は胡座の姿勢を少しも崩さず、
スケボーで風の道を走ってその場から飛び去った。
「久々にお目にかかったな、デスボーダー・鉄火山の技」
「かつてはあのスケボーが敵に向かっていたのだから恐ろしい」
「本気なら光にも乗れると言うぞ」
超聴力によって、
スタジアムで交流練習をしていた選手たちの話を聴き取った。
それだけで、穏やかな老婆クマ・鉄火山の過去の一端が察せられた。
「それでショーシ王子のことは理解できた?」
「思い入れの強い人達からしか話を聞けなかったからなあ」
僕の意志が宿った
血のマントをばさばさと手ではためかせ、 貰ったおにぎりを食べ終えた。
「結局、本人と話さないとわからないか」
持ち歩いていた水筒のお茶で喉を潤し、
ジェーンは朝から元気にボールを蹴り合う選手を見て、
小さくため息をついた。
「……恋したことないのに求婚されてもなあ」
恋。そのことについて僕が語れることは……。
結構あるな。うーーーーん、
でも時代も立場も違うし。
それにこういうのって、親の恋愛ごとを聞かされるの、
年頃の子にはあんまり喜ばれないことも──
「それよ、それ! 教えて!!」
マントをばしばし叩いて、
ジェーンが一転して声を弾ませた。
「あんまりドラマチックでもないよ?」
聖女と王子の関係と比べられると、
野暮ったさの極みみたいなものだ。
「いつものことじゃない!」
ジェーンが力強く頷く。
仕方なく、僕は語るのに良さそうなエピソードを思い出す。
王子からの求婚。
そんな物語のような出来事にも、
ずっと冷めた目を向けていたジェーンが、唯一楽しそうにしていた瞬間だった。
この日の午後、密室殺人事件が発生するけれども。




