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第六章 札屋新兵衛

 札術士の戦いは、使役する妖怪と、展開する札の数によって決まる。

 基本として、妖怪は刀、札は鎧である。

 しかし札にも敵を攻撃する力と術者を守る力があり、札のそれぞれがいわば一人の兵卒といえる。

 目の前に立つ榎本の姿に、新兵衛は自分の全身が緊張で強張るのを感じた。

 かつての稽古において、新兵衛は一度も榎本に勝利したことがない。

 もちろんそれは昔の話。稽古をつけ、自らを高め、新兵衛の札術士としての腕は決して他に見劣りするものではない。

 その鍛錬の成果を、師匠たる榎本はきちんと認めた。

「見事である、新兵衛」

 二十四枚の札を方円に配置して対峙する新兵衛の姿に、榎本は一言そう言った。

 普通の札術士なら十枚も展開すれば息が切れる。だが新兵衛はきちんと修行を積むことで、倍以上の札を使役している。多くは榎本の指導の賜物だが、しかし本人の努力なくして為しえる力ではないのだ。

 だが、いくら褒められても、それは勝者の余裕にしか新兵衛には感じられなかった。

 榎本の周囲で鶴翼をもって展開する札は六十四枚。この数の差が、今の新兵衛と榎本との実力差であった。

 だが、負けるわけにはいかない。

 負ければこの西町は炎に包まれ、多くの人々が傷つき死んでしまうことになる。

 もちろん、気合だけで勝てるような相手ではない。

 どんな悪あがきでもいい、少しでも時間を稼げば、いずれ奉行所の者たちが榎本を捕らえに来てくれる。

 そうすれば、榎本はこの場から逃げ去るしかない。まだまだやらなければならない事がある榎本にとって、奉行所の同心達に包囲されて捕えられることだけは避けねばならない話なのだ。

「お玉、有江は抑えられそうか?」

「何を言ってるんだい、うちの旦那は。そういうのはね、さっさと相手を倒せって言うもんだよ」

「おやおや、狐風情が吼えるねえ」

 方や、お玉と有江が正面からにらみ合いを続けている。

 新兵衛の記憶では、この二人がまともにやりあった事はない。その必要もなかったからである。

 むしろ、仲の良い姉妹という雰囲気が強かった。

 だが今や互いの主人の命令に従って、相手の命を奪わんと隙をうかがっている。

 この状況に新兵衛は少々心が痛むが、お玉の言葉ではないが、妖怪とは友情などよりも縁を大事にする者たちである。

 魂の奥底から付き従う主人が殺せといえば、躊躇いなく友人を切り裂く、それが妖怪なのである。

「この蜘蛛女は、あたしがきっちり止めるさね。だから旦那も負けるんじゃないよ」

「すまんが、頼む」

 勝てと言わずに負けるなと言うのは、お玉もまた主人の置かれている状況をよく理解しているといえよう。

 負けなければ、いいのだ。

 負けなければ、あとは時間が解決してくれる。

「さて新兵衛よ、準備はよいか?」

「はい、お待たせしました」

 とはいえ、ここまで実力差がある相手を前に、勝つことはおろか、対等に戦うことも困難であるのは間違いない。

 とりうる手は二つ。

 一気に榎本本人へ全戦力をもって突撃を行い、一撃を加えて倒すのが一つ。

 残る一つは守りを固めてのらりくらりと逃げ回ることである。

 もちろん、新兵衛のそんな状況など師匠たる榎本は百もお見通しだろう。

 不利な状況が予測される場合、榎本は新兵衛に対してかならず複数の策を用意してことにあたるべしと教えている。

 新兵衛は、榎本の正面に展開する鶴翼の札に対し、自らの札を魚鱗に展開した。

「ふむ、定石であるな」

 方円から魚鱗への見事な転換に目を細めながら、榎本が言った。

 だがこの状況下で魚鱗の陣を使うということは、相手の力が強大なために短期決戦を挑まざるをえないということを宣言したようなものである。

 さてどう来る、榎本は新兵衛の初手を楽しみに待った。

「展開!」

 新兵衛が、突如懐から別の紙束を取り出した。

 それは空に舞い上がると、何十もの札となって、そのまま榎本に襲い掛かった。

 そして同時に、新兵衛が仕掛けた。

 小太刀を抜き、さきに展開した二十四枚の札と共に一気に距離を詰める。

 それは、瞬間的な飽和戦術であった。

 紙の札は、一枚では弱い。札術士が戦いに用いるものに比べたら、何十枚とあったとしても一瞬で蹴散らされる程度である。

 だが、そのうちの一枚でも相手の本体に攻撃が通れば、その打撃力は無視できるものではない。よくて痣、悪ければ骨折もありうる。

 初手で相手に怪我を負わせられれば、集中力は途切れることとなり、同時に使役できる札の数も減らせる。

 この技は、榎本は新兵衛に教えたことはない。となれば新兵衛が独力で編み出したか、それとも誰かに教えられたかのどちらかである。

 このままでは、一発か二発の打撃を受けて、運が悪ければそのまま戦えなくなってしまうだろう。

「ふむ、悪くないな」

 そう言って、榎本が腰に差していた刀を抜いた。

 同時に鶴翼の陣を展開していた札を方円にし、己の周囲を守らせる。

 その展開の速さは、新兵衛も見たことのないほどに見事なものであった。

 だが、だからといって止まれない。

 周囲の札に一斉攻撃の呪を放つと、新兵衛は一気に榎本の懐へ飛び込んだ。

「師匠、お覚悟!」

「踏み込みが甘いぞ、新兵衛」

 榎本が軽く新兵衛をいなす。

 続けて降り注ぐ札の攻撃を、榎本は札の素早い展開で次々と叩き落した。

「なっ!」

「剣術に関しては修練が足りぬか。まあ仕方がない話ではあるが」

 新兵衛の剣術については、元服前までに基礎的な鍛錬として会得したもので止まっている。

 自衛のためにその後もある程度は扱えるようにしてきたが、所詮は付け焼刃の腕、戦国の世を渡り歩いた榎本から見れば稚技に等しい。

 だが、この攻撃は新兵衛にとって必ずしも無駄ではなかった。

 かつての実力差を考えれば、今の攻撃は榎本の手によってそのまま切り倒されてもおかしくなかった。

 しかし、榎本は新兵衛を倒せなかった。

 もちろん榎本が新兵衛との対決を楽しんでいて、悪くいえば新兵衛を弄んでいるのは間違いない。

 それでも、まずは一太刀、勝負になった。

 勝負ができれば、勝機はある。

「なんの、まだまだです」

 だからといって、それだけで勝てるほど世の中は甘くない。

 榎本がこうやって新兵衛につきあってくれる間に、なんでもいい、勝機を見出さないと。

 再び札を展開する。

 今度は鋒矢である。寡兵で正面突破を行うための陣形。

「基本だな」

 一言、榎本が感想を言う。

 基本に忠実であること、これは榎本が新兵衛に徹底させたものである。

 基本をおろそかにする者は間違いなく失敗を犯す。

 もちろん今のように基本に従っただけでは勝てない状況もあるが、それで奇策に走るよりは基本に忠実であったほうがよい、榎本はそう信じていた。

 そしてその教えを、弟子の新兵衛はきちんと守っている。

 それに従ったがゆえに劣勢でありつづけるのは皮肉でしかないというところだが。

「さてと、受けるだけでは稽古にならんな。こちらからも行くとしよう」

 榎本が動く。

 札の陣形を鶴翼に戻し、新兵衛と相対する。

 本来、鶴翼は能動的な陣形ではないのだが、榎本の操る札はまるで生き物のように展開して、新兵衛を包囲し始めた。

 新兵衛もそれに対して動く。

 そのまま榎本の所へ突撃するのは敗北への道である。最初の突撃ではほとんど全ての攻撃を弾かれた。紙札という奇策が二度通じることはないだろうし、かといってそのまま突撃して、包囲殲滅されるわけにもいかない。

 ならば、包囲の一番薄いところを突き破る。

「ふむふむ、きちんと右に避けおるか」

 札の間隔が若干ほかより広いところに、自らの札を当てて叩き落し、新兵衛は榎本が作った包囲網を突破する。

「なっ!」

 突破したはずの場所、両脇に榎本の札。

 誘われた、新兵衛は直感した。

 鋒矢は正面突破のための陣形、横の防御力は皆無である。

 数少ない、横に展開していた札が瞬く間に叩き落される。

 陣形を変更する余裕も隙もない。

 新兵衛はそのまま強引に包囲網を突破する。

 が、追いつかない。

 新兵衛の左腕に、強烈な一撃が叩き込まれた。

「ぐわっ!」

 左の肘から先が動かなくなる。

 札の一撃は傷をつけて血を流すのではなく、相手に流れる気を徹底的に乱し、動きを止める力である。今は腕だけで済んだが、これが頭や胸であれば、それは容易に致死の打撃として成り立つ。

 残る追撃を、右手に握った小太刀で新兵衛はかわした。

「高坂殿!」

 そのとき、もう一つの声が走った。

 新兵衛に迫っていた札に、強烈な水の塊が文字通りぶちあたり、その勢いを止めたのである。

 その支援によって、辛うじて新兵衛は安全地帯へ逃げることができた。

「お、お夕殿」

 痺れに顔をしかめながら、自分を救った人物の名を言う新兵衛。

「無礼とは思いましたが、助太刀いたします」

「だが、そなた、体のほうは」

 迫る榎本の札を十手ではたきながら、お夕が新兵衛の傍に寄る。

「万全ではありませんが、高坂殿の左腕程度にはお力になれるはずです」

 痺れて動かない新兵衛の左腕に、そっと手をそえるお夕。

 すると、何の力か、左腕の痺れが若干引いていった。

 だが、新兵衛を治療したお夕の息は荒い。さきに榎本と戦ったときの影響と思われるが、その姿だけを見ればとても戦える状態ではない。

「ありがとう。だがお夕殿のほうが真っ青ではないか」

「東都に住む人を守るためです、これしきで!」

 いつの間に脱げたのか、頭巾を失い、光り輝く金色の髪がその姿を新兵衛に見せている。

 作務衣もところどころ汚れて、破けている。

 普通ならそのまま下がらせるところだが、新兵衛は、今だけはどうしてもその気にはなれなかった。

「師匠は強い」

「はい」

「力及ばずとも、時間を稼いで奉行所の方々が来るのを待ちたかったが、そんなこと、師匠はとっくにお見通しだ」

 そして、と新兵衛は心の中で付け加えた。

 お夕が共に戦うのであれば、時間は逆に敵となる。この傷だらけの体で、どこまで持ちこたえられるというのだろうか。

「ならば決死の一撃をもって下がっていただく、これしかない」

 もちろん、これも榎本はお見通しだろう。

 だが現時点で取り得る手の中で、もっとも成功する率の高いものはこれである。

「幸いにして、お玉は有江をきちんと抑えている。師匠一人であれば、手はある」

 お玉と有江は、周囲にその姿はない。

 一騎打ちとなっているため、肉体ではなく精神世界での戦いとなっているのだ。

「この手はおそらく一度しか使えない。力及ばなかったときは許せ」

 新兵衛が、地面に置いていた札入りの鞄を再び開く。

 中には、使いきれなかった残りの札。

 この鞄はもともと榎本が使っていたもので、中には予備も含めて百枚以上の札が収められている。新兵衛はその中の二十四枚を使いこなすのに精一杯であり、つまりはこの鞄にある力すべてを使いこなせていない。

 榎本よりこの札一式を譲り受けて後、新兵衛としても、これらを使いこなすためにいろいろ試行錯誤を行った。

 本来ならば毎日の訓練でその実力を培ってから使いこなすものであるが、やはりそこは人間というべきか、近道ができないかと思ってしまうのである。

 もちろん、その結果は全て徒労に終わっており、成果と呼べるものがあったとすれば、それは努力に近道なしという当たり前のことを新兵衛が思い知ったということだろう。

 だが、その無駄な行為が、新兵衛の頭の中で一つの策として動き始めている。

「お願いしたいのは、その力で私が師匠の懐に達するまで守ってほしい」

「もとより、守るのが水の力。力の限りお守りいたします」

 とはいえ、榎本ほどの人物を相手とするのに、この程度の策でどうにかなると新兵衛も思っているわけではない。

 だが他に手がなく、策を練る時間もない。ぼやぼやしていたら榎本から仕掛けてくるだろうし、そうなれば主導権を握られて為すすべなく倒されるのが目に見えている。

 たとえ力及ばずとも、常に先手を仕掛けて、少しでも自分に有利な形で戦わなければ。

「お夕殿は私の後ろに。いきますよ」

 ようやく作戦がまとまったか、と榎本が興味深げにその動きを待つ。

 本来であれば、二人がいろいろ話をしているときに仕掛けてもよかった。いや、本気で勝つつもりであれば、そうしなければならない。

 だが、この戦いは勝つことが目的ではない。

 正確に言えば、榎本が定める勝利の条件から見れば、この場で完全に勝利してはいけないのである。

 そういう意味では芝居をかけてしまっても良かったのだが、榎本といえどさすがに一番弟子の成長は気にかかるところである。騙す形で離れていったという自責の念もあったであろう。

 新兵衛が札を展開する。陣形は魚鱗。定石である。

 その後ろには、お夕の姿。周囲にはうっすらと霧が立ち込めており、先ほどの戦いでは逐次強力な水の弾を放ってきた。

 陣形から見れば、本命はお夕である。確かにお夕の力は、傷つき疲弊しているとはいえ侮れない。

 そこで、榎本は気がついた。

 新兵衛が、刀をしまって鞄を持っている。

 盾にするつもりか、と榎本は鼻で笑った。

「話はまとまったか?」

「師匠、今一度のお相手、よろしくお願いいたします」

「よかろう、来るがよい」

 榎本と、新兵衛達の間は三十歩ほど。

 槍は届かず、弓は近すぎる。どちらかといえば鉄砲の距離だが、鉄砲は複数の手があって初めて脅威となる。

 そして札術は、この槍と鉄砲の間でもっとも高い威力を発揮する。

 新兵衛が動く。

 動きは真っ直ぐ、榎本に向かっていく。

 魚鱗をもってしての、大将狙い。

 これもまた定石。

 榎本も反射的に自らの札を展開、新兵衛を包囲する。

「む?」

 その札が、次々と水の弾によって弾かれ、地面に叩きつけられた。

 お夕の力である。

 だが、榎本もそれを予想していなかったわけではない。なにしろ最初に彼女を相手にして戦ったときに、既にそれは経験していたからだ。

 それならば正面に展開した札でもって迫り来る新兵衛を弾き返すのみ。

 さて新兵衛よ、どうする?

 残り五歩。榎本の札によって、新兵衛の札が次々と落とされる。お夕が必死に新兵衛を守るが、いくつかの攻撃が新兵衛に到達し、よろめいている。

 残り四歩。新兵衛が鞄を地面に落とす。さらにその腕で、懐から紙札を取り出す。

 それを見て榎本がすぐさま防御の用意を整える。最初と違い、今回は二度目、対処など榎本にとっては容易い話だ。

 残り三歩、これで終わりかと榎本が呟く。

 残り二歩、新兵衛が仕掛けた。

「展開!」

 先ほど落とした鞄から、次々と札が飛び出してきた。

 それは、新兵衛が使い切れなかったはずの札。

 だが、ならばどうやって使った?

 素早く榎本が状況を確認する。

 新兵衛が先ほどまで使っていた二十四枚の札、榎本に向かっていたはずのそれらが、瞬間的にその方向を変えて、鞄の周辺で舞っている。

 いや、それどころか、その札が他の札を操って浮き上がらせている。

 そこに何の意味が、榎本は首を捻り、次の瞬間にその意図を理解した。

 札を使って他の札を動かす、確かにそれは可能な技であるが、そんなやり方で動かした札など基本的には何の力もない。ただ浮いているだけだ。

 だが、見た目ではどうか?

 いかに熟達した技を持つ榎本といえど、数十に達する数の札のうち、どれが力のあるものでどれが無力なものなのかを瞬時に見分けるのは難しい。

 さらに、新兵衛の手には何枚あるかもわからない紙札が、いまにもそれを放とうと握られている。これが展開されれば、僅か一瞬とはいえ、この場の札は百を超えるだろう。

 いわば最初に行われた攻撃の強化版であるが、ここでさらにもう一人の役者がこの場にいる。

 水の力を操るお夕だ。

 彼女の援護は、強力ではないにせよ、確実に榎本の対応能力を削っている。

 今度こそ、本当の意味での飽和攻撃。

 榎本は己の危険を悟った。

「放て!」

 それはどちらの声だったか。

 榎本の体に札の攻撃が通る。多くは紙札で、威力は低いのか、榎本の意識が途切れるほどではない。

「大旦那!」

 すぐさま、精神世界で戦っていた有江が榎本を庇うように立つ。

「高坂殿!」

 そしてお夕の叫び声。

 見ると、地面に新兵衛が倒れている。榎本の札が行った攻撃によるものである。

 捨て身であったのだろう、新兵衛は札でもってその攻撃を止めることをしなかった。

 死ぬほどの打撃ではないが、複数あたれば危険ではある。実際、地面に倒れる新兵衛に動きはない。

 やりすぎたかと榎本は思ったが、反射的にそれだけの力を出してしまったのは、間違いなく新兵衛の攻撃に脅威を感じたからである。

「お夕、旦那は?」

 新兵衛の前に、有江と同じく精神世界での戦いから戻ったのだろう、お玉が鬼の形相で立っている。

「大丈夫、怪我で意識を失っているだけ。今なら大丈夫」

 新兵衛のすぐ後ろにいたはずのお夕が榎本の攻撃から無事であったのは、理由があった。

 榎本の攻撃が到達する直前、新兵衛の札の一枚がお夕を軽く後ろに押して転ばせたのである。

 その結果、榎本の攻撃範囲からお夕は離れ、全ての攻撃は新兵衛に集中した。

 何を考えての行動であったのかを理解しないほど、お夕は鈍くはない。

 新兵衛は最後にお夕を守ったのだ。

 お夕の言葉にほんの少しだけほっとした表情を見せたお玉は、周囲に鬼火を走らせる。

「もう我慢ならない、今すぐ殺してやる」

 お玉の前に、有江が一歩前に出る。

 一触即発の雰囲気の中、その時、不意にどこかで鐘が打ち鳴らされる音がした。

「この鐘、火事の?いえ、ここでは起きてない。であれば、まさか別働!」

 お夕が榎本の方を見る。

 それに気がついたか、榎本が満面の笑みを浮かべた。

「有江、空から奉行所を見れるか?」

「ええ、でも、いいのですか?」

「安心せい、お玉は新兵衛から離れられん」

 では、と有江の姿が消え、すぐに戻った。

「奉行所で火の手が上がっております」

 その言葉に、お夕が言葉を失った。

 いま初めて、お夕は榎本の策に気がついたのである。

「有江、帰るぞ」

「はい」

「お、おい、大旦那!」

「お玉よ、こちらを見る前に、そなたにはやるべきことがあるのではないか?」

 その言葉に、お玉がぐっと堪える。

 その背中には今も動かない新兵衛の姿。

 このまま地面に放置しておくわけにはいかない、どこか休めるところできちんと横にして、治療を行う必要がある。

「え、榎本!いったい何を!」

「そこの女同心よ、こちらを気にする前に、まずは自分のいた奉行所を気にかけるべきではないかな?」

「なっ、ではやはり、今のは別働の!」

「別働?」

 そこで榎本がもう一度、にやりとお夕に笑ってみせた。

「向こうこそ本隊よ。あそこを守るは備前守の若造であったな。もし生きていれば伝えておけ、次は本丸だ、とな」

 そう言って、榎本が懐から札を取り出した。

 それは以前、古寺で新兵衛と会ったときに使った、姿隠しの札である。

「ではさらばだ。すまぬが新兵衛のこと、よろしく頼むぞ」

 怪我をさせた本人が何を言うか、そうお夕が言う前に、榎本の姿は忽然と消えた。

 そして有江の姿も消える。

 残されたのは、未だ倒れたままの新兵衛と、それを介抱しはじめるお夕とお玉。

 こうして、新兵衛にとってのこの事件は、いったんの終わりを見せたのであった。




 奉行所を襲った西方浪人は総勢六十名に達したという。

 多くを西町での榎本探索に向けていた南町奉行所は、年老いたとはいえ熟練の武士達を相手に劣勢を免れず、最後は周囲の旗本による増援をもって辛うじて勝利した。

 もともとそこを死に場所と定めていたのだろう、西方浪人達は逃げることなく、自らの名を大声で叫び、その全員が討ち死または自刃するという凄惨さであった。

 もっともこれは、戦国の掟がまだ武士達の間に残っており、西方浪人達に自刃の時間を与えたという状況もあったのだろうが。

 しかし奉行所にとって、これは間違いなく失態である。

 西方浪人達の動きをつかんでいながら、軍師である榎本の策に翻弄される結果となり、奉行所への侵入を許してしまった。

 これで奉行所の手勢で攻め込んだ者たちを倒せればまだ何がしかの面目も保てたであろうが、それも行うことができなかった。

 唯一、成果があったとすれば、これによって東都にいた西方浪人達の多くは死んでしまったことになり、これ以上の動きは当面ないだろうということくらいである。

「高坂診療所を見張れ」

 事件の後、自らの屋敷にて沙汰を待っていた備前守は、榎本との戦いの件で報告に来たお夕に一言、そう告げた。

「立場、理由は何でも良い。榎本は必ずあの診療所に再び関わりを持つであろう。その時を逃さず、捕えるのだ」

「しかと承りました」

「そなたの親代わりであるご老中には申し訳ないが、あの榎本を捕えられるのは、今となってはおぬしが最も近い場所にいると見てよいだろう。頼むぞ」

「はい」

 その指示が、お夕が聞いた備前守の最後の言葉となった。

 数日後、備前守は奉行所討ち入りの責任を取って自刃して果てることになる。

 お夕自身は、少なくとも西町において榎本を抑えて火付けを防いだということで、取り逃したことへの責任は問われなかった。他の同心達は、用意していた三名の術者も含めて榎本が使役する有江の手によってほぼ全員が無力化されており、そのふがいなさが目立ってしまったがゆえの結果というのもあったであろうが。

 二度と戻るつもりはなかった診療所に再び戻ることができる。

 奉行所のことはあったが、それを差し引いてもどこか心が躍っている自分をお夕は自覚する。

 それは、自分が失った家族という姿を追い求めてのことなのか、それとも何か別のものがあってのことなのか。

「ただいま戻りました、お志乃殿」

「おお、お夕か。よう戻ったな」

「いろいろありましたが、またしばらくご厄介になります」

「なに、気にせんでええ。そなたの力は奉行所ではなく、むしろこちら向きじゃ」

 ほほほ、と笑うお婆。

「ありがとうございます。ところで高坂殿は?」

「いまは診療所じゃよ。さて、その荷物は先に家に置くとええ」

「そうさせてもらいます」

 そう言って、お夕は新兵衛の部屋へと向かった。

 わずか数日いなかっただけなのに、今はとても久しぶりに感じられる。

 部屋の扉の前に立つと、その中から水の音が聞こえた。

「あら、診療所ではなくこちらにいたのですか。高坂殿、入りますよ」

 とくに何も考えず、鈴を鳴らして鍵を開けたお夕が、がらりと扉を開けた。

 そこにいたのは、桶に入れたお湯で体を拭いていた少女だった。

 僅かな胸のふくらみと体つきから、年のころは十二かもう少しほど。だが、こんな年頃の少女がこの場所にいたという記憶は、もちろん、ない。

 だがさすがにこの状態で扉を開けたのはまずかったので、お夕は慌てて扉を閉めた。

「ご、ごめんなさい!まさか湯浴みの途中とは知らず」

「い、いえ」

 中から恥ずかしがっている様子がありありとわかる声、だがお夕はそれに聞き覚えがある事に気がついた。

 見知らぬはずの少女なのに、聞き覚えのある声。

 首を傾げながら、中の様子を伺ってもう大丈夫であることを確認して、お夕は再び部屋に入った。

 先ほどの少女は既に体を拭いて着替えを終え、部屋の真ん中で正座している。

 いや、聞き覚えがあるなどという話ではない、この姿は見覚えがある。

 だが、誰だろう?

「ええと、私はこの診療所のお夕と申しますが、あなたは?」

「あ、えと、その、そうですよね、わかりませんよね」

 そう言って、少女は後ろに垂らした髪を手にとって、後ろで結わえた。

「これでいかがでしょう?」

「え、えええ!」

 思わず、自分でさえ今まで聞いたことのないような驚きの声を、お夕は上げた。

 それは間違いなくあのときの、日義丸という名の若武者であった。

「実は女性だったのだ」

 その後に騒ぎを聞きつけてやってきた新兵衛は、お夕の戸惑いに一言そう言った。

「女性って、高坂殿、この前は元服前の若武者で、ええと、なんといえばよいか」

「お夕殿が戸惑うのもわかる。それがしも驚いたのだ」

 新兵衛の隣には、照れくさいのか、真っ赤になって俯く日義丸の姿。

 いや、今はお千代と名乗っていた。

「なんでも西方から東都へ向かう道中は危険が多いので、男装で来るよう師匠から指示を受けていたらしい」

「では東都では?」

「あまり治安のよくない場所にいたようでな、そのままの方が安全であろうという師匠の判断だ」

 もちろん、新兵衛の話は半分ほどが嘘である。

 もともと日義丸は西方関白のご落胤であり、西方浪人達にとっては男性でなくてはならない人物である。

 それが実は女性であったなどと知れたら、さきの戦いはいったい何だったのかという話になってしまう。

 そのあたりの事情は、あの戦いの後、お夕がいない時に榎本の使者が新兵衛のもとにやってきて、説明を行っていた。

 お千代自身が西方関白の子供であることは、どうやら間違いない話であるらしい。持っていた懐刀などは本物であり、それを偽る証拠はない。

 だが母親の身分が低いこと、お千代が女であることなどから、西方の一族からその存在は秘され、おかげで様々な追求の手からも逃れることができたらしい。

 しかし記憶は残っていた。

 西方関白に仕えていた者の一人がそれを知っており、西方再起の一助になればと榎本に教えたというのである。

 それがちょうど二年前の話。

 榎本はそれを聞いて、西方再起のためではなく、西方の血を後世に残すため、影武者を使って自分は死んだことにして、姿をくらませてこのお千代のために動いていたというのである。

 すでに大勢は決しており、いま武力をもって再起を図ろうとしても、逆に殺されるだけである。どんな組織もいずれは滅びさるものであるから、それまでこの血を絶やさぬことこそが臣下の勤めであろう。

 そう、榎本はお千代に言ったという。

 それを聞いて、新兵衛は今まで師匠に抱いていた違和感が解消されたのを感じた。

 なぜこの少女を手元ではなく自分のところによこしたのか。

 西方再起に血眼となっている西方浪人達の所に置いたのでは、いずれ奉行所の追及を受けて捕まり、殺されてしまう可能性がある。

 それならば、彼らからこの少女を遠くの場所において、隠したほうがいい。

 しかもその場所が、信頼できる相手の場所であればなお良い。

 さらに、お千代が女であることを榎本が今まで隠していたのは、その正体が西方浪人達に知れ渡ってしまったら、錯乱した彼らによって殺されたり、より酷い目にあわされてしまうことを恐れたのだろう。

 いずれにしても、このお千代にとっては、西方浪人達の所にいることが身の安全に繋がらない状況となっていたのは間違いないところである。

 そしてその使者は最後に、榎本の言葉として、こう新兵衛に伝えた。

 当面は死に別れたと思っていた妹として共に暮らすのが最善であろう。もちろん嫁にしてもかまわぬし、それが選択として最高なのだが、まだまだ子供を作るには早いので、その選択はもう何年か待ってからにするように、と。

 何を言っているのだと思わず叫ぼうとした新兵衛だったが、その使者はけらけらと笑うと煙と共にいなくなってしまった。

 もちろん、その言葉がただの冗談でないことは、新兵衛も理解していた。

 つまり榎本は、いずれお千代を嫁にして子供を作り、その血を後世に残せと言ってきたのである。

「それで、妹、ですか」

 もちろんその説明全てをお夕に話すわけにはいかないので、多くを改変しながら新兵衛は説明を行うことになった。

「はい、いろいろありましたが、いまは兄様の妹としてここにご厄介になることになりました。あらためてよろしくお願いいたします」

「あ、いえ、こちらこそ」

 なにかこう、もやもやとした違和感がお夕の心の中を流れていたが、まったく隙のない丁寧な口調でこう対応されたのでは、それを表に出すわけにはいかない。

 しかし女性とは。

 なるほど、日義丸と名乗っていたときの、新兵衛に対する視線が妙に色っぽかったわけだ。お夕はあの時の感覚を思い出してそう納得した。

 納得して、さらに思う。

 このお千代、新兵衛に懸想していないか、と。

「いけませんね、これは」

「ん、何か言ったか、お夕殿?」

「いえ、何も。高坂様、私も奉行所の指示から、またしばらくこちらにご厄介になることとなりました」

「ほう、では、あの件は」

「西方の件、まだ片付いてないと見ております」

 むしろこうなると片付いては困ると、なぜかお夕は思ったものだが、それを口に出すことはない。

「わかった、またしばらく頼む」

「はい、もちろん」

 にっこりと特上の微笑みをお夕は浮かべ、それにあてられたか、新兵衛が赤くなりながら頷く。

 それを見て、新兵衛の隣に座っていたお千代がむっとした顔をして、新兵衛の尻をつねった。

「いてっ」

「兄様、あまりだらしない顔をなさらないで下さい」

「だらしないって、そんな顔だったか?」

「高坂家の主人がそれでは困ります。びしばしいきますからね」

 やれやれまいったな、と新兵衛が頭を掻く。

 それを見て、お夕がくすくすと笑った。

「ん、いかがなされた?」

「いえ、すみません、なぜか微笑ましくて」

 笑いながら、お夕はしばらくこのままの関係でも良いか、と思い始める。

 そこにあったのは、暖かい家族の姿。

 もうしばらく、もうしばらくはこの暖かさに触れていたい。

 西方浪人達の多くが死んだとはいえ、榎本は逃げたままである。いずれ、何かの動きを見せるだろう。

 だけど、それはしばらく先の話であることは間違いない。

 それまでは人を捕まえるのはお預けにして、人を救うほうで生きよう。

「では改めて、よろしくお願いしますね、新兵衛殿」

「ん?うむ」

 下の名前で呼ばれたことにびっくりする新兵衛。

 その仕草がおかしくて、再び笑うお夕。

 それは、暖かい木漏れ日が降り注ぐ、ある平和な日の光景であった。


[終]


読んで頂いてありがとうございます。


この小説は、不意に「時代劇っぽいファンタジー書きたい」と思って書き上げたものです。創作なので史実を大きく改変させてつじつまを合わせています。

本来であればもう少し埃っぽく、今とは別の常識・感情での動きというものを盛り込むべきだったかとも思っていますが、話の雰囲気を崩しかねないのでこんな感じで。

「この時にこのエピソードができるのはおかしい」という人もいるかと思いますが、ええすみませんそれ正しいのですが、このあたりは物語の嘘ということで。

作品を作るにあたり、該当の時代についていろいろと調べましたが、現代の感覚ですと、変な言い方ですがかつて存在した完全な異世界ですね、あの時代は。

私などがあの時代に召還されたら、どんなに幸運があっても一ヶ月くらいですかねえ。もちろん死んでしまう的な意味で。


さて次は何を書こうかな・・・。


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