第五章 軍師
隠れ家は、殺気に満ちていた。
「どういうつもりだ、榎本殿!こともあろうに主君を、敵と通じているかもしれぬ男の所へ預けるとは!」
周囲を取り囲む年老いた武士達の剣幕を前に、榎本は落ち着いたようにお茶を一息啜って答えた。
「日義丸様の安全のためでござる」
「安全だと?」
「考えてもみられよ、我らの余命はあと数日程度のもの、だが日義丸様はこのあとも生き残っていただいて、西方を復興していただかねばならぬ大切なお命」
「ならばなおさら、あのような奉行所の女と通じているかもわからぬ男に預けるのは」
「その方が安全でござるよ」
にたりと笑う榎本に、周囲の武士達が気おされる。
「その、まさか奉行所の女がいるところに預けた者が、関白殿下のお血筋とは夢にも思うまいて。奉行所の女も妙な術を持っているようだが、それでも我が弟子のように縁を見れるほどの力はない様子。ならばそのほうが安全じゃ」
ようやく納得がいったのか、何人かの武士の口から納得する声が漏れた。
「だがそれも、我らの策が成ってのこと。段取りの方は大丈夫であろうな?」
「もちろん、ぬかりはない」
武士の一人が自作と思われる東都の地図を広げた。
「付近の五箇所に、具足と武器を隠してある。頃合をあわせて集合の後、合図と共に攻め込む手はずだ」
「うむ。おのおのがた、口には注意されよ。奉行所を侮ってはならぬ。情報一つ漏れれば全てが失敗になると知れ」
「無論である」
「榎本殿のほうはよいのか?」
うむ、と榎本が頷いた。
手に持っていた扇子の先で、とんとんと西町の一部を叩く。
「釣り餌は大きいほうが魚も集まるというもの。まかされよ、この榎本良信、一世一代の大芝居で同心どもの耳目を集めてくれようぞ」
診療所は、今日も様々な事情から、早い店じまいとなった。
「榎本殿のご親戚、ですか」
疑わしさ満点の目で、お夕が日義丸と新兵衛を交互に見る。
本来なら昨日の時点で事情の確認をお夕は行いたかったが、その前に刑場での爆発事件を奉行所に報告する必要があってそのまま日が暮れてしまい、この件の調査は次の日になってしまったのだ。
そんなこんなでくたくたな状態で朝を迎えて、きわめて機嫌の悪い状態となっていることも、お夕がそんな疑念の目を向ける一因となっていた。
「う、うむ、こちらに来る前、西方の地で紹介されたことがあってな」
もはや態度から何かあると証言しているような新兵衛だが、もともと人を騙すことに慣れていない人物なのだから、それも仕方のない話である。
この日義丸だが、まさか先の西方関白のご落胤などと紹介するわけにもいかないので、新兵衛が咄嗟に考えた嘘は、この言葉通り榎本の親戚というものであった。
ある意味、人を騙す話では定石の手段ではあるが、他に適当な手が無いのだから仕方がない。
「西方から東都に出てきて、叔父上にここを紹介していただきました。元服前の若輩者ですが、立派な武士になるべく精進する所存」
そして、これである。
新兵衛が咄嗟についた嘘に反応して、短時間のうちに無理のない設定を作り上げて、それにあわせて日義丸は芝居をしてくる。
この咄嗟の判断力と行動力は、並の人間にできるものではない。ご落胤というのはともかくとして、それなりにきちんとした判断力を鍛えられた者であることは間違いない。
「その、叔父上殿は何と?」
この少年侍がどういう人物なのかわからない以上、お夕としてもいきなり厳しい言葉をかけて情報を得ようとするのは得策ではない。
お夕はとりあえず柔らかい笑みを浮かべつつ、優しい口調でそう聞いた。
「はい、元服して仕官の目処が立つまでは、この診療所にて高坂殿を手伝え、と。また、お志乃殿は非常に高い教養をお持ちの方であり、その方に師事して自らを高めよと仰られておりました」
実際のところ、日義丸の言葉は三割が真実で、残りが嘘である。
嘘の部分は榎本の親戚という話と仕官の目処という所で、これは日義丸が咄嗟に考え出した創作である。
だが、嘘と真実をまぜて話を誤魔化すのは非常に有効な手段である。事実、お夕もその内容に疑問は残しながらも納得はしていた。
「なるほど。ところでその榎本殿は?こちらにあなたが来たという事は、榎本殿に何かあったと考えますが」
「はい、叔父上はここ最近とても忙しいご様子で、一日中お戻りにならないこともしばしばでした。叔父上はそれを憂えて、ここを紹介してくださったのです」
「忙しい、と。それは何でしょう?」
「いえ、私も詳しくは」
自然な会話ではあったが、その内容の裏に潜む火花のようなものに、新兵衛は内心焦りっぱなしであった。
お夕はおそらく同心としての立場で、それとなくではあるが、榎本の情報を集めようとしている。
それに対し日義丸は、それを確実に認識した上で、言葉を返している。
その時点で相当に聡い少年であったが、しかしこんな事を毎日繰り返されたのではたまったものではない。
「まあ、ここのところ物騒な噂も東都には多いゆえ、とくに日義丸のような子供が一人だけというのは何かと危険であろう。正直貧乏暮らしの毎日だが、子供一人をどうにかできる程度の蓄えはあるつもりだ。お夕殿もできれば仲良くしてほしい」
「あ、ええ、それはもちろん」
「高坂殿、お夕殿、この日義丸、精一杯頑張ってお手伝いさせていただきます。そして、一日も早く診療所の一員となれるよう、精進いたします」
こちらこそと年長の余裕で言葉を返すお夕だが、なぜか、違和感がぬぐえない。
なんというか、日義丸という少年の仕草や視線が、どうにも新兵衛に対して何か特別なものを見るような、そんな感覚がある。
まさか衆道か、お夕は最初そう思ったものだが、どうもそれとも何かが違う。
ちなみにお夕も、そういったものが世の中にある事はよく知っていた。この国における衆道の認知度の高さには驚かされたものだが、お夕のいた国にもあった話なので、奇異に感じるというところまでではない。
もっとも、実際に何度かその光景を目の当たりにした時には、異国の慣習とわかっていても、軽蔑の念をどうしても拭えなかった。このあたりは彼女が自分の国で教わってきた教育の影響というのもあるのだろう。
「ああ、そういえば、叔父上殿から高坂殿に一つ渡すよう頼まれたものがありました」
「頼まれもの?」
「はい、これです。じかに手渡しするよう、言われております」
そう言って日義丸は懐から一枚の札を取り出し、それを新兵衛に渡した。
「これは、妖怪札か」
新兵衛は札に力を込めて、中に何がいるのか調べようとした。だが札には各所に強力な封印が施されているようで、何の反応もない。
「ううむ、なんであろう、師匠はこれを私にと言われた。しかしこの札は封印つき、となればこれを解けという話か」
どちらかと言うと謎解きの世界であるが、榎本は新兵衛がこれを解除することを期待して渡したことは間違いない。
そうなれば、新兵衛としてはその期待に応えるためにも、何としてもこれを解除しなくてはならない。
「高坂殿、その封印、解けそうでしょうか?」
お夕の問う声に、新兵衛は力強く頷く。
「時間はかかるが、解ける。急ぎ解除に取り掛かろう」
「では日義丸はこの婆と共に。まずは診療所の周り、この長屋について知る事からであるな。教えるのでついてまいれ」
「はい、よろしくお願いします、お志乃殿」
そしてお婆と日義丸が外に出て、診療所の中には新兵衛とお夕が残された。
早速、札の解除準備を始める新兵衛に、お夕が声をかけた。
「高坂殿、あの日義丸殿のことですが」
「うむ?」
「私も全てを額面どおり受け取ってはおりません。榎本殿が何かを考えてこちらに彼をよこしたのは間違いないと見ています」
「それはまあ、そうだろうな」
「思うに、榎本殿自身が彼をきちんと守れない状態に陥りつつあるか、それとも先の未来にそういうことが予想されるのか」
お夕の言葉を聴いて、新兵衛は内心ほっとした。
いまの想像はつまり、日義丸が榎本の甥っ子であるという前提でもって話をしているからである。
新兵衛や日義丸が口を滑らさない限りは、ご落胤という話がお夕の知れるところにはならないだろうが、それでも警戒は必要である。
もし知れた場合は、お夕は診療所全てを敵にする選択を取るだろう。
それだけは、そんな悲しい事態だけは、新兵衛は防ぎたかった。
そしてお夕が言った疑問点、それは確かに新兵衛も感じていた。
なぜ榎本は新兵衛の所に彼をよこしたのか。
「一つはこの札であろうな」
「札ですか?」
「この札の封印を解いたとき、中にあるのはおそらく何かの伝言であろう。それを私に届けるのに、それなりの者である必要があったのは間違いない」
「なるほど、血筋のものであれば確かに使者として信頼が置けると」
「もう一つはお夕殿の言葉にある通り、師匠が日義丸を診療所で匿わせなければならないほど、状況が切迫しているという事であろう。西方浪人達と繋がっているのであれば当然という話ではあるが」
ここに来て、新兵衛としては師匠に対して抱いていた印象がだいぶ変化したように感じている。
かつて師匠は人々を助けるために診療所を開設し、尊敬される偉大な人物であった。
だが今は東都の幕府に謀略をしかけ、西方を再興せんとするいくさ人である。
どの榎本も新兵衛が知る師匠の姿ではあるが、はたしていま榎本が進めているその行動は正しいものなのか、そう疑念を持つ程度に新兵衛は師匠の榎本と距離を置くようになってきていた。
「そうだ、話は変わるが、お夕殿は水の力をお持ちであったな」
「え、ええ」
「では少し手伝ってくだされ。封印にかけられている水の鍵を調べていただきたい」
札術士が使う封印は、六つの鍵から出来ている。
この鍵を、札術士たちは風火水土闇光と呼んでおり、陰陽五行と表現も思想も異なっている。これは彼らが外の国の思想を積極的に受け入れたことが理由であり、混ざり合った思想による独特の世界を構築することでその封印の秘匿性を高めていた。
しかしあまりに複雑すぎるその封印構造は、技術の発展という意味で従来の陰陽五行に遅れをとることとなってしまい、さらには札術そのものの衰退から、いまではすっかり時代遅れのものとして扱われていた。
封印解除で使われる札術陣の中で、新兵衛とお夕が、札に仕掛けられた封印を一つづつ解きほぐしていく。
封印術の場合、解除に失敗するとそれを試みた人間に対して封印術そのものが何らかの防衛攻撃をしてくるのだが、新兵衛の見る限りでは、この札にそういった意思は感じられなかった。
いくら師匠と実力差があるとはいえ、新兵衛も札術を学んでそれなりの知識と経験を積んでいる。どんなに入念に作られた封印でも、罠が仕掛けられているかどうかの区別くらいはつく。
その意味で、罠の存在を感じられないこの封印に、新兵衛は榎本の意思がそこに込められていると直感していた。
解かれたくない封印であるならば、必ず罠を仕掛けるはず。それが無いということは、これは目的の人物に解除させて、中の情報を読ませるためのものであると。
「解けた」
夜も更けて、用意していた蝋燭の明かりも危なくなってきた頃、新兵衛がようやくといった声でその結果を告げた。
「して、中は?」
「まあまあ、そう慌てるな。ん、これは?」
何かに気がついたのか、新兵衛がぱたぱたと札を振る。
すると、周囲に何か懐かしい気配が渦巻いた。
「だんなあ!ああ、ようやく出てこれたあ」
次の瞬間、首筋に抱きつく一人の女性。
それは新兵衛が使役するお供、九尾の狐のお玉であった。
「お玉か?なんと、この札に封じられていたのか」
「いやあ、大旦那の札って豪華なのはいいんだけど、居心地っていうか座り心地っていうか、何か違うんだよねえ」
「ということは、師匠はただお玉を返しただけ?」
「お玉、何か榎本殿より伝言とかないのですか?」
お玉が新兵衛から離れて、うーん、という感じで考え込む。
「いや私ってさ、あのとき大旦那に封じられてからそのまんまでねえ」
役立たずと思わず言いそうになるお夕であったが、それを言ってしまってはお夕も榎本に対して後手にまわっている状況であり、人の事は言えないとその言葉を飲み込む。
「まあよいか。案じていたお玉も戻ってきて、これでようやく診療所の面子が全員集まったというわけだ」
「うーん、心配してくれてたのねえ、惚れるわあ」
「とはいえ、何かが解決したわけではありません。お玉も、榎本殿の手によって戻されただけですから」
だが、揃うべき者たちが揃うというのはどこか安心感を伴うものなのか、新兵衛の表情は明るいままだった。
「よし、今日はこれくらいにして、もう寝よう。いずれにしても封印解除で少々頭が痛いところでな」
「そうですね、私も少々疲れました」
「じゃああたいも、久々に自分の札に戻れるわあ」
お玉の姿が掻き消える。
すぐにその気配が落ち着いたところを見ると、やはり住み慣れた我が家が一番ということなのだろう。
そして新兵衛とお夕も、さすがに疲れたのか、準備もそこそこに二人とも横になった。
だが、新兵衛が横になって健やかな寝息を立て始めたころ、お夕はふと目を覚まして、その新兵衛の寝顔を見続けるものがいることに気がついた。
お玉である。
「お玉?」
その声に気がついたのか、お玉は人差し指を口に当てて、静かにという仕草をした。
同時に、お夕の頭の中にお玉の声が聞こえてきた。
「念話はできるね?」
「ええ、まあ。どうしたのですか、こんな夜中に」
お玉は、先ほど開放された時とは違い、何かを憂える表情をしていた。
「あたしは、これでも旦那が小さいころから、最初は興味本位で、札術士になってからはその供として今まで旦那を見続けてきた。だから今の流れってのが歯がゆくてねえ」
「歯がゆい、ですか?」
「このままだと旦那と大旦那が一緒になる流れになる。何より大旦那がその流れを作っているから、間違いなくそうなる」
その言葉に、お夕は意識が一気に覚醒するのを感じた。
お玉は、何かを知っている。
「有江は大旦那一筋だから聞く耳持っちゃくれないし」
「お玉、何か知っているのですね?」
お玉が目を閉じ、何かを決意する表情をして、お夕の方に向き直った。
「大旦那が、明日の夜丑三つ時、西町で火をつける」
お夕が驚愕で硬直した。
「そう、旦那に伝えろと言われたんだ。でもそうすれば、旦那は大旦那の所へと一人で行ってしまう。なんだかんだ言っても大旦那は師匠だからね、いろんなことがあっても旦那は大旦那の味方をするだろうさ。そうなれば旦那は反逆者としていずれ幕府に殺される」
「なぜ、それを私に?」
「どこの誰がどうなろうと、あたしの知ったことじゃないけど、旦那の命を危険に晒すことだけはできないのさ。となれば、誰かが邪魔な大旦那を倒してくれれば万々歳」
妖怪は、自分に関わらないものについては、どこまでも冷酷である。
逆を言えば関わった人間、家族といった情があるものについては、どこまでもその人間を中心として考える。
これは世界共通の傾向で、竜の一族であったお夕の母も、自分の命が狙われるその時までは、夫のことが何よりも第一であった。
「なるほど、私が榎本殿を捕まえれば、高坂殿へのお咎めは無い」
「いくら大旦那といっても、幕府の権力と戦うには力が足りないさね」
もっともそうなれば、新兵衛はお夕の事を拒絶するようになるだろう。
理屈ではわかっていても、感情がそれを許すはずがない。
隣で静かに寝息をたてる新兵衛。
この生活はとても暖かさに満ちたものであったが、それも終わりに近づいているということなのか。
お夕は心の中に堪えようの無い寂しさを感じながら、それでもお玉に礼を言った。
「よく言ってくれました。あとはまかせなさい」
「すまないね」
そう言って、お玉は消えた。
お夕は静かに再び布団に入ると、何かを惜しむかのように、暗い部屋の中を目を開いて見つめ続けた。
榎本良信動く。
お夕からもたらされたその情報に、南町奉行所は一気に緊張した雰囲気となった。
「よく伝えてくれた、お夕。手柄である」
「ありがたき幸せ」
早朝、用事が出来たと言って急ぎ奉行所へとやってきたお夕は、すぐさま南町奉行である備前守に報告を行った。
これで、自分はもう診療所には戻れない。
そう覚悟を決めての報告である。
本来であればお玉から話を聞かされた夜に、すぐにでも奉行所へと向かうべき話であったが、これが最後の夜かと思うとなかなか行く気になれず、悩んでいるうちに結局朝になってしまったのである。
診療所を出る時、気をつけて行かれよと見送る新兵衛の姿に、後ろを向いて奉行所へと向かうのが、とにかく辛かった。
「全ての奉行所に使いを出せ。ことは緊急を要する。手のあいている同心は、今日の夜より西町の各地で見張りを行い、榎本ほか西方の者たちを見つけたら直ちに捕縛するのだ」
「備前守様、術士も何名かつけてください。榎本の傍らには強力な妖怪がいます。同心だけでは返り討ちにされてしまいます」
「なんと、それほど強いのか?」
「私では力が及びませんでした」
「わかった、奉行所直属の術士も向かわせよう」
ここで備前守は、奉行所が見張られていることも考慮して、対応する動きを可能な限り静かに行うよう指示を出した。
奉行所内で何か大きな動きがあると西方浪人達に見られて、警戒されて逃げられてしまったのではどうしようもない。
「ところで診療所にいる高坂新兵衛の方はよいのか?」
「はい、高坂殿はこの件を知りません」
「ふむ?」
「高坂殿に火付けの件を伝える使者を、その前に捕らえて聞き出しましたので」
「なるほどな。して、その使者は?」
「妖怪でしたので、封印しました」
なんとも嘘がうまいものだ。お夕は心の中でそう自嘲したが、新兵衛が何も知らないというのは事実なので、これくらいなら方便という所だろう。
「よし皆の衆、ここがまさに正念場であるぞ。今日をもって西方浪人達の企てを阻止し、その全てをひっ捕らえて東都の平和を守るのだ」
「おう!」
これでいいのです、これで。
お夕はぽっかりと心の中に穴が開いたような感じを覚えながら、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
備前守の言う通り、これで騒乱を企てる西方浪人達を壊滅させられれば、東都の平和は守られる。
新兵衛も、師匠を二度失うことになるが、命を奪われるようなことはなくなる。
唯一失われるものがあるとすれば、それは新兵衛とお夕の間にできていた絆。
それだけ、たったそれだけを我慢すれば、東都の平和は守られる。
ぐす、と声が漏れる。
お夕は周囲に気づかれないようにしながら、建物の奥へと身を隠した。
そこで、我慢が切れた。
胸の奥にあった苦しみが激情へ代わり、涙となって零れ落ちる。
それは、長い時間、収まることはなかった。
「お夕殿、今日は遅いな。泊まりかな」
日が傾き、人の影が長くなり始めた頃、戻らないお夕に新兵衛がそんな声を出した。
「高坂殿、そういえばあのお夕というお方は、どのような関係なのですか?」
新兵衛の隣で診療所の手伝いをしていた日義丸が、中の片付けを行いながら言った。
まだ元服前なので大したことはできないが、小さいことにもよく気がつき、きびきびと動き回る。
その姿は先の西方関白のご落胤などという大層なものではなく、歳相応の真面目な子供という感じであった。
「ん、日義丸殿にはそういえば話をしていなかったかな」
「殿なんていりませんよ、高坂殿。ここではただの日義丸です」
そんなわけには、そう新兵衛は言いかけたが、確かに日義丸の言う通り、呼び名はきちんと考えておかないといけない。
なにしろ新兵衛が下手に丁寧に日義丸のことを対応すれば、それを見た人々は何事かと日義丸の事を怪しむだろう。
日義丸を守るためには、怪しまれたり注目されたりすることは何よりも避けなければいけない。
「うむ、では日義丸、お夕殿のことですが」
「はい」
にこにこと笑顔で答える日義丸。
「彼女は奉行所の同心で、南町で発生した火付けの捜査をしていたのです」
「火付け?なぜ火付けの捜査でこの診療所に?」
その言葉に、新兵衛は手元の仕事を止めた。
「西方浪人です」
日義丸がはっと顔を上げた。
「火付けの犯人として西方浪人達の存在が浮かび上がり、西方と関係の深い私が疑われたという訳です」
「ではお夕殿は、ここを見張っていたと?」
新兵衛が頷く。
「もっとも、お夕殿の見立ては大当たりとなってしまったようですが」
「そんな、それでは私のことは!」
「いえ、気がついていませんよ。師匠の親戚、という話を信じていましたから」
その言葉に、日義丸が安堵の息をつく。
「しかしそのような状況で、よく落ち着いて一緒にいられましたね」
「いや、お夕殿はどちらかといえば、私を守りに来てくれたのです。診療所が貧しい人々の支えとなっていることを理解していて、西方浪人の手が及ばないようにと」
日義丸が、それを聞いて沈鬱な表情を浮かべた。
「高坂殿、ひょっとして、私はご迷惑でしたか?」
「そなたを守るのは師匠の願い、迷惑など微塵も感じておりませんよ。ただ、師匠がそなたを私の所によこしたということは、何かお考えがあっての事でしょう。それはきっとこの診療所にとって仇となるものではないはずです」
それは確証のない考えである。
だが、新兵衛はそう信じたかった。
「榎本殿は、この未熟な私を支え守ってくれた大切なお方です。高坂殿のおっしゃる通り、私がここに来たのは何かお考えがあってのことのはず」
考え、そういえば新兵衛はなぜ榎本が日義丸をこの診療所に預けたのか、まだ真剣に考えていなかったことに気がついた。
そういえば有江は言っていた。いろいろあって新兵衛を迎えに行けそうもないと榎本が言っていた、と。
ということは榎本の計算が狂う何かが起きた、ということである。
「そういえば、師匠と共にいたときに何かお困りの様子はなかったか?」
「ええと、同士の方々の血の気が多いとよくこぼされていたくらいで、特には」
もともと騒乱を起こす目的で東都にやってきた西方浪人達の血の気が多いのは、誰にでも予想できる話であり、榎本がそれを計算に入れていないということは考えにくい。
第一、日義丸は西方浪人達にとってその命に代えても守らねばならぬ主君である。いくら乱暴者の集まりとはいえ、日義丸を害そうなどと彼らが考えるはずがない。
「師匠は、日義丸を守ることが難しい状況に陥ったということか?」
もしそうなら、それはどういうことか。
一つは裏切り。西方浪人達と師匠との間に深刻な亀裂が入ったというもの。
だがそれなら、今頃は主君である日義丸を取り返そうとやってきた西方浪人達によって、診療所は襲撃されているはず。
また、師匠も西方浪人達も、互いを裏切るべき理由が見当たらない。可能性としては低い話である。
もう一つは、敵である奉行所の手が師匠に伸びつつあるというもの。
こちらの方が現実味がある。もし奉行所の手によって日義丸が捕まったりでもしたら、西方浪人達の企ては全て失敗に終わってしまう。奉行所はかつて何人もの西方浪人達を捕まえてきた所、その組織力はこの国一番であることは間違いない。
そういえば、今日はお夕が奉行所に用事があると言って朝から出ていった。
お夕の外出は前にもあったことだが、不意に、新兵衛の心の中に妙なざわめきのようなものが走った。
「高坂殿、いかがなされました?」
黙ってしまった新兵衛に、日義丸が心配げな声をかける。
「日義丸、念を押すが、師匠は本当に何も言っていなかったか?たとえば診療所に危険が迫った場合などは?」
新兵衛の言葉に、うーん、と日義丸が腕組みをして考え込む。
「動きがあれば使いをよこす、あとは高坂殿の指示に従うよう言われておりますが、それ以上のことは」
「動きがあれば、か。それはいつごろの事か言われていたか?」
「近々とは言っていました」
近々、という言葉に新兵衛は愕然とした。
事件こそ起きていたが、身の危険を感じるほどではなかったので、少々漠然と時を過ごしすぎたのではないか、と。
動いているということは、榎本がもうすぐ何かの事件を起こすということ。
そうなれば、奉行所も動く。お夕以外の同心や、その手下である岡っ引き達も診療所を見張りに来るだろう。
そんな中で、もしこの日義丸の正体が奉行所に知れたら。
それどころか、日義丸は榎本の親戚ということでお夕に紹介をしている。もし何かあれば、その時は事情を何か知っているかもしれないということで奉行所へと連れて行かれてしまうかもしれない。
それは、それだけは何としても防がないといけない。
「日義丸、そなた、この東都の地理は覚えたか?」
「え、いえ、さすがにそこまでは」
突然何を言い出すのかと驚く日義丸。
そして、新兵衛は一つの決断を下した。
「よし、日義丸、よく聞いてくれ。念のため、いつでもこの場から逃げられるよう、身の回りのものをまとめておくのだ」
「高坂殿、それはどういう?」
「今までの聞いた話から、何か大きな事件が師匠によって引き起こされる可能性がある。その場合、奉行所の追及は必ずやこの診療所にも及ぶことになるだろうから、そうなる前に日義丸は逃げるのだ。状況によっては一人で逃げてもらうことも考える必要があるか」
「逃げる、ですか。高坂殿は、これからそれほどの事態が起きると?」
「そう思うのがもっとも安全であろう」
かつての西方決戦において引き起こされた混乱は、当時元服前であった新兵衛に、かなりの大きな影響を残すことになった。
その一つがこれで、想定される状況に対して、慎重を通り越して杞憂の状態にまで物事に対する熟慮を重ね、あらゆる準備を惜しまないというものである。
もちろん多くの用意は無駄に終わったのだが、そのうちのいくつかは確実に役立ち、時には新兵衛の命も救ってきた。
「しかし逃げるといっても、あてがありません」
「そのあたりは、師匠が何か手を打ってくるであろう。もしくは、当初私が潜伏する予定だった吉原の新町恵比寿屋という店に逃げるのも手だな」
「高坂殿は、その時になったらどうなさるのですか?」
「まずは診療所を守る」
それは、お夕との会話の中で見出した、新兵衛の一つの結論。
「しかしそれでは!」
「うむ、奉行所から来た役人に捕まるかもしれんな。だがこの診療所を見捨ててはおけない。騒乱で怪我人も運ばれてくるかもしれん。その時、誰かが彼らを治さねば」
「高坂殿は、もしその時になったら、私と共に逃げては下さらぬのですか?」
不安げな、縋るような目で日義丸が新兵衛を見た。
西方の希望とはいえ、その肩書きが無ければただの少年侍である。まだまだ誰かがどこかで支えてやらないといけない年頃である。
だが、新兵衛はその言葉に応えてやれないもう一つの理由があった。
「日義丸、そなたが逃げている間、誰かが診療所で奉行所の役人を止めなくてはならない。それはおそらく私にしかできないことだ」
愕然とした表情になる日義丸。
「そんな!それでは高坂殿は!」
「案ずるな、これでもいくつもの地獄を生き抜いてきた。何とかするよ」
そう言って新兵衛は日義丸に笑いかけたが、日義丸は下を俯いたままであった。
「私は、私にはそんな」
言いかけて、日義丸は言葉の続きを飲み込んだ。
「さて、私は私のほうで準備がある。そなたもすぐにとりかかりなさい」
その言葉に、日義丸は小さくはいと答えて、自分の荷物がある場所へと向かった。
そして新兵衛も、いつでも万全の体制で事態に臨めるよう自分の部屋に戻って準備を始めた時、診療所にお夕の使いを名乗る者がやってきた。
「南町岡っ引き、五郎太と申します」
「高坂です。こんな時間に、いかがなされました?」
「南町のお夕はご存知ですな?伝言です。本日、奉行所の用事にて戻れないのでそのつもりでいてほしい、最近物騒なので外出は控えられよ、と」
「わかりました」
では、と言ってその岡っ引きは去っていった。
「高坂殿、今のお方は?」
と言って、日義丸が新兵衛の顔を見て、硬直した。
新兵衛の顔は真っ青で、今にも崩れ落ちそうであった。
「な、高坂殿!」
そんな日義丸に、手振りで大丈夫だと新兵衛は伝え、やや平静を欠いたような動きでもとの場所に戻っていった。
わざわざ使者をたててまで、あのような内容を新兵衛に伝えてきたお夕。
「お夕殿、それは、それでは、何かあると言っているに等しいではないか」
その呟きは、誰の耳にも届くことはなかった。
そして新兵衛は顔を上げると、今度は別の準備にとりかかった。
周囲はどうあれ、とにかくまずは、新兵衛の周りにいる人々を誰一人不幸にしないための準備に。
この日に賭ける南町奉行所の意気込みは、後の世に伝えられるほどであった。
そろえた人数は、与力七名に同心二十四名、さらに岡っ引きなどは百名以上を数え、ひとつの事件に対する動員数は空前絶後といえる。
その中には、悪名高い盗賊団の烏組討伐に活躍した小寺左門次や、三つの絹問屋を襲撃した強盗団を見事全員ひっ捕らえた近藤八郎といった剛の者もおり、倍の悪党どもが襲来してきたとしても対応できるだけの陣容であった。
さらに榎本良信という稀代の術士を相手とするため、東都でその人ありと知られた術士を三名、奉行所は用意した。
とはいえ、この数をもってしても西町全体を見回るのは厳しい話である。
もともと東都全体の治安を守るという点でも、今でさえ様々な武家や寺社の協力があって、辛うじて維持に成功しているという状態である。しわよせは奉行などに当然のようにおよび、彼らの激務状態は後に問題とさえなっている。
また、他にも問題はあった。
今回の見回り地域となる西町、これはもともと西町奉行所の管轄である。
当然のことながら、管轄が異なる組織が同じ場所で活動すれば大きな軋轢が生まれる。
もちろん、東西南北四つの奉行所が一致協力してお互いの担当地域を見回るという光景は別に珍しいものではない。だがそれらは必ず綿密な段取り調整などがあって行われるものであり、それでも岡っ引き同士などでの諍いは発生してしまう。
そして今回の場合、時間的な制限から、そういった調整はほとんどされなかった。
こうなると、動くものも動けなくなる。
西町は表向きとりあえず協力の姿勢は見せたものの、実際のところきちんと連携が取れているとは言えず、むしろ南町を出し抜いて榎本を捕らえようという有様だった。
これは、事件の犯人が西方浪人という大きな話なので、説明などしなくても西町は協力するだろうと思い込んでいた備前守の失敗なのだが、それを彼が思い知るのはもう少し後の話である。
そして南町同心のお夕は、もちろんではあるが、榎本良信追討の一人として西町で待機していた。
彼女が参加していたのは、新兵衛との関係はもちろんであるが、唯一といっていい女性の同心ということで女性への対応と、水竜の一族という火消しに対する適性から選ばれた形である。
多少の火であれば、彼女の力をもってすれば、鎮火は厳しくても延焼は抑えられる。その時間で周囲を取り壊してしまえば、少なくとも大火にすることは防げる。
そのためか、お夕は西町の番屋で待機状態となっており、いまも榎本の姿を追い求めて見回りを行う仲間達を羨ましく感じたものだが、それぞれの役割というものがあるので、こればかりは仕方がないと諦めていた。
それに、とお夕は思う。
万が一、榎本が火付けに成功した場合は、己の命をなげうってでもそれを止めなくてはならない。
ここは西町、新兵衛のいる診療所もそれほど遠くはない。ひとたび大火となれば、あの場所も無事ではすまない。
だからこそ、あの場所は、新兵衛達の居場所だけは、必ず守る。
僅かな間であったが、一緒にいた新兵衛の師匠である榎本を討つという、公儀のためとはいえ新兵衛を裏切る行為に対する、それはせめてもの償いの気持ちであったろう。
「そろそろ時間か」
番屋の中で、お夕と同じく待機していた岡っ引きの一人が呟いた。
お玉が伝えてくれた時刻は丑三つ時、東都の人々が寝静まる時間帯である。
そしてそれは、犯罪を企む者が最も多く活動する時。
「静かですね。聞こえるのは犬の遠吠えばかり」
「まったく、静かな夜じゃのう」
愕然と、お夕が声の方を振り向いた。
その声は年老いた者特有の響きを持っており、そんな人物はこの番屋にはいない。
では、誰か。
「小野寺殿!」
隣にいた若い岡っ引きが、椅子に座ったまま眠りこけている。
いや、直前まで話をしていて、さらにいま大声を上げても起きないというのは明らかにおかしい。
「これは、術?」
「ふむ、この眠り結界が効かぬとは、ただの女ではなさそうだな」
声はすれども、姿が見えない。
「おのれ曲者!」
お夕はそれを敵と判断した。
すぐさま周囲に霧を発生させ、さらに空気の流れでそれをかき混ぜる。
その水滴が、番屋の近くにあった木の下で、人の形を作った。
「ほほう、これはこれは。なるほど、水滴で姿を浮かび上がらせるとは」
お夕が袖の中にあった笛を取り出す。
そしてそれを口につけると、一気に吹いた。
「おお、うるさい事だな」
その声に、お夕の中に疑念が沸いた。
この笛は周囲にいる者たちを呼び寄せるもの。
笛の音を聞いた同心や岡っ引き達は、さらに同じく笛を吹いて、より多くの人間を呼び寄せる。
どんな人間であっても、自らの包囲を意味するこの笛の音を聞いて、冷静ではいられないはず。
「さて、人が来るのであれば、そろそろ姿を見せねば失礼だな」
そう言って、木のところにいた影が姿を現した。
年のころ初老の男。禿頭で、背筋はしっかりした優しげな風貌。
まさか、とお夕が驚く。
「南町同心、お夕です。そこの男、名を名乗り、大人しくしなさい」
「ふむ、女の同心と見てもしやと思ったが、策はきちんと働いたようじゃな」
うむ、と満足げに頷く男。
「ではもう名を名乗ってもよかろう。お夕よ、こうして出会うのは初めてであったな。それがしこそ西方総大将が侍医にして軍師、榎本良信よ」
「おまえが榎本良信!」
お夕が十手を構えた。
「榎本良信、東都騒乱を企てた罪により、南町奉行所の名において捕縛します。大人しくお縄を頂戴なさい」
「おお怖い。新兵衛のやつ、よくもこんな恐ろしい顔を持つ女と共にいたものだな。もっと大人しい女が好みと思っていたが、意外であった」
その言葉に思わず反応しそうになるお夕だが、明らかな挑発でもあったため、それは何とか堪えた。
何より、そもそもの前提からして、何かがおかしい。
なぜ榎本がこの場に現れたのか。
火付けを行うというのであれば、番屋を襲撃するのではなく、もっと火が燃え広がりやすい場所で、見つからないよう隠れて行うものではないか。
それとも、邪魔者を片付けてから行うつもりなのか。
もしくは共犯者がいて、彼らから同心達を引き離すための策か。
「考えておる顔だの」
図星だったので、お夕が驚きの表情を見せる。
「いやはや、南町に異人の女がいるとは聞いていたが、ふむ、国が違えども浮かべる表情や仕草はそう変わらぬものだな」
「戯言を!」
「正直な感想なのだがな。さて、ではそろそろ動くとするか」
その言葉に、お夕は一瞬だけ逡巡し、そして選択を決めた。
お夕は着ていた法衣を脱ぎ捨て、身軽な作務衣姿になると、一気に跳躍して榎本のもとへ向かった。
「榎本良信、覚悟!」
「おお、捕まえるのではなかったか?はは、元気のよいおなごじゃな」
その時、お夕の視界にいくつか通り過ぎる影が入ってきた。
そのうちの一つが、お夕の正面に立つ。
反射的にお夕はその影を叩き伏せようとして、そのまま弾かれた。
「なっ!」
月明かりが、一瞬だけその影の正体をあらわにする。
頭部に角を生やした、それは鬼であった。
大きさは子供ほど。いわゆる小鬼である。
「リュタン?いや、違う。これは?」
「りゅたん、ふむ、それがおぬしの国での呼び名か」
リュタンとは、お夕の母国で小悪魔を意味するものである。
もっともいま目の前にいるのは、お夕がかつてそこで見た小悪魔達とは異なる外観をしており、一瞬言いよどんだのもそのためであった。
「いや、あってるよ」
お夕の背後に声。
それは聞き覚えのあるものだった。
「有江!」
振り向かず、それでいて愕然とした声でお夕は言った。
いつの間にか、お夕の背後には刑場で出会った女妖怪である有江が立っていた。
「戻ったか」
「はい、大旦那様。腕の立ちそうな者たちはあらかた縛り付けておきました」
そう言って、動きを止めたままのお夕に有江は言葉を続けた。
「こっちだとコオニって言ってるけどね。ただ、向こうの世界と違って、こっちのは地獄界で雑用とかしてるから、舐めてかかると痛い目みるよ」
「あなた、リュタンを知っている?いったい何者です?」
「有江はかつて神に勝った女よ」
その言葉に、お夕は目を見開いた。
人外の強さを持つ妖怪といえど、神相手となれば話が変わる。
伝説的な強さを誇る竜の一族ですら、それほどの力を持つ存在となると片手で数えるほどしかいない。
「いやですわ大旦那様、私は織物で勝っただけですよ」
「それでも勝ったことには変わらん。もっとも疎まれてこの国まで流れてくることになってしまったが」
「いえいえ、大旦那様と出会えたのです、私はこの国に来て満足ですわ」
織物の腕で神に勝った女といえば、お夕の知識でも一人しかいない。
たしかその女は勝利した後に死んでしまい、怒り冷めやらぬ女神によって蜘蛛の妖怪にされたという話であったはず。
「たしか、リュディアの地にそんな話が」
あら、と有江が感心したような声を出した。
「懐かしい名前を出すわね。この地でその名前を聞くとは思わなかったわ」
「私も、遠い祖先の記憶にある話です」
「ふうん、竜族ってのは祖先の記憶も引き継ぐって本当なのねえ」
だが、もしお夕の予想が本当であれば、もはやこの場所は死地に等しい。
かつて西方にてその人ありと知られた術士の榎本と、背後には先日手も足も出なかった有江がいる。
さらに榎本は小鬼のような妖怪を出してきて、数の優勢は完全に榎本にある。
本来なら数の優位は自分達にあったはずなのにと、お夕は愕然とした。
そして有江の言葉が本当なら、周囲に配置されていたはずの同心や岡っ引き達は、この有江の手によって身動きがとれない状態にある。先ほど吹いた笛の音に呼応する笛があったので全員ではないだろうが、残る者たちがどれほどのものかは心もとない。
「で、どうします、大旦那様?」
「うむ、こうもうまくいってしまうとな。もう少し苦労するものと思っていたが、戦がなくなって呆けたか」
「ふたりとも、この私を!」
「まあよい、予定通り火をつけて逃げるとしよう」
もはや敵として扱わなくなった二人に対し、お夕が一気に仕掛ける。
榎本の正面にいた小鬼二匹が次々と打ち倒され、消えていく。
だが次の瞬間、全身各所に鉄の棒で痛打されたような衝撃が走り、そのまま番屋の壁まで吹っ飛ばされた。
「きゃあっ」
痛みで意識が遠くなりながらも、お夕は自分を叩きつけたものの正体を見極めた。
それは、札であった。
榎本の周囲に札が浮かんでいる。
それはお夕も見たことがあった。
なぜなら、毎日のように修行で新兵衛が使っていた札にそっくりであったから。
「あなた、公儀に忠実なのはともかく、相手の実力差くらいは把握したほうがいいと思うんだけどねえ」
その姿を見て、有江が呆れたような声を出した。
「少なくともさ、私に勝てないのが大旦那様に勝てるわけないじゃないさ」
「そう言うな、有江。役目を果たさねばならないという点では我らも同じよ」
有江の言う通りだ、お夕は相手の言葉を認めた。
実力差がありすぎる。今のままで戦っても殺されるだけである。
だからと言って逃げるわけにはいかない。ここに火がつけば、西町一帯、そして新兵衛のいる診療所も灰となる。
お夕は意識を切り替えた。
「ん、何かする気かい?」
急激に、周囲の霧が濃くなった。
お夕の、竜としての力である。
「なにをいまさら。この前これは破ったじゃないさ」
「いや違うぞ、有江。そこの女同心、なかなかどうして考えおる」
面白い、という表情を榎本は浮かべた。
「この女同心、この辺一帯を水浸しにする気だ」
「え、ああ、なるほど」
「確かにこれなら、なかなか火はつけられんな」
だが一つ、この技には欠点があった。
発動中、お夕の動きもまた重くなる。今でこそ濃い霧の効果でお夕の姿は隠されているが、見つかれば抵抗もできず叩き潰される。
「そして時間が経過するうちに、何人か同心どもが来るかもしれん。悪あがきだが、その心意気は認めよう」
だが、と榎本が一枚の札を振った。
すると周囲一帯の霧が一瞬だけ晴れて、お夕の姿をその時だけあらわにした。
「だが、こちらも役目よ。恨むなよ」
榎本の周囲に札がいくつも展開した。
勝てない、お夕の心に絶望感が芽生える。
そして脳裏を走った光景は、いつか共に居た新兵衛の姿であった。
悪い予感ほどよく当たる。
よく言われる話だが、新兵衛はとくにその言葉を信じていた。
だが、今日この時ほど、自らの予感が当たってほしくないと思ったことはなかった。
新兵衛が急ぎ現場に駆けつけたとき、すでに一つの勝負は終わっていた。
「こ、高坂殿」
新兵衛は素早く状況を確認した。
木の幹に縛られている、憔悴した表情をしているお夕。
その近くで、こちらを見る師匠と有江。
「やれやれ、新兵衛よ、いいつけを守らなかったな?」
困ったものだという表情を浮かべて榎本が言った。
「使者の言葉によれば、日義丸を連れて西へ脱出せよ、でしたね」
新兵衛は先ほどやってきた黒ずくめの忍者との会話を思い出した。
相当の腕利きなのだろう、突然部屋の中に現れたその男は、必要なことだけを伝えると即座に消えていなくなってしまった。
「東都の夜といえば門も閉ざされ、出ることも難しいのですよ?ましてこの騒ぎ、下手に動けば奉行所に捕まえてくれと言っているようなものではありませんか」
「だからこそ、あの奉行所の女をああやって引きつけて、逃げやすい環境を整えたのではないか」
はあ、と新兵衛はため息をついた。
確かに、新兵衛が日義丸と共に逃げるのであれば、榎本のやったことは全て筋が通る。
だが現実としては、新兵衛はいまここにいる。
「師匠、お玉に何か吹き込んだのは師匠でしたか」
「わかるか?」
お玉がお夕に榎本の事を話して捕まえさせようとした件、それを新兵衛が知ったのはついさっきのことだった。
事件の状況から、逃げるのではなく師匠の所へと向かおうとする新兵衛をお玉は必死に引き止めたのだが、その時にぽろっとその事を漏らしてしまったのだ。
もちろん新兵衛は、それがお玉一人の考えによる行動だとは思わなかった。
師匠ほどの人物が、不用意に自分の行動予定をお玉に話すはずがない。何かそこに意図があるはず、そう新兵衛は確信していた。
「お玉の主人はそれがしです。何年もの長い付き合いなのですから、なにかあればすぐにわかります。ということで、お玉、お夕殿を解放してきて下さい」
ぱっ、と新兵衛が懐から一枚の札を取り出し、宙に向けて放った。
その瞬間、新兵衛の傍らにふわりとお玉が出現した。
「まったく、妖怪使いが荒い旦那だねえ」
ばつが悪そうな表情を浮かべているお玉。
無理もない、主人のためと思っていた行動が実は榎本の策であったなどと言われては、さすがの九尾の狐も羞恥は感じる。
「隠し事をするからです。今日は荒事になりそうだから、働いてもらいますよ」
とはいえ、彼女の主人が相変わらず頼りにしているとなれば、力を奮わないわけにはいかない。
少し頬を赤く染めながら、お玉は縛られたままのお夕の所へと向かった。
「新兵衛よ、指示通り逃げずにこちらに来たこと、理由は話してくれるな?」
「もちろんです、師匠」
新兵衛が榎本と向き合う。
横ではお玉が、お夕を縛る蜘蛛の糸を燃やして引き剥がしていた。
榎本も有江も邪魔をしなかったところを見ると、お夕はすでに敵にならないと見ていたのかもしれない。
「とはいっても、ことは簡単です。師匠、私はあの診療所を、あそこを頼る人々を見捨てることができません」
「ふむ、手は打つと言ったはずだが、聞いてなかったか?」
「詳細を聞かされておりません。それに今、師匠は何をなさるおつもりですか?」
榎本が黙った。
「西町でいったん大火となれば、診療所も無事ではすみません。死人や怪我人も多く出ることでしょう。大儀のためとはいえ、これは納得できません」
その時、お夕がようやく蜘蛛の糸から開放され、お玉に支えられるように地面に座り込んだ。
おそらく先ほどの戦いで精魂尽き果てていたのだろう、全身に力は感じられず、ただ荒い息をするだけだが、その視線は新兵衛の方を向いていた。
「いえ、まさかとは思いますが、西町一帯を火にかけることで、診療所に通う病人全てを焼き払うなどということをお考えではありませんか?」
「ふむ、それは考えつかなかったな」
楽しそうに答える榎本。
実際のところ、榎本は己の弟子の成長ぶりに感心していた。
新兵衛に与えられた情報は、決して多くはなかったはずである。
むしろ与えられた情報の多くは、榎本の手によって意図的に流されたものである。
その中で新兵衛は、己の目標をきちんと見定め、選択し、この場に来た。
師匠の言葉にただ従っていれば楽だったろうし、榎本自身もそうあってほしかったが、新兵衛は榎本の予想を超えて動いた。
それが正しい行動かは、ここで論ずるべき話ではない。
弟子が一人で考え、決めて、行動したことが何よりも大事なのである。
それを成長と呼ばずして、何と呼ぶべきか。
「新兵衛よ、日義丸様はどうした?」
「お婆様にお願いしました。先日の銀も渡してありますので、お婆様なら間違いはないでしょう」
言いながら、新兵衛が手に持っていた鞄の蓋を開ける。
来るか、榎本も肩にかけていた包みを解く。
「問おう、新兵衛よ。おぬしの目的は何だ?」
普通なら答えるはずのない言葉。
だがそこは師匠と弟子であった。
「師匠、私とて師匠と同じ道を歩みたい。ですが、私にはもう背負わねばならぬものができてしまいました」
「だがその道は天下国家に通じるものではないぞ?男として、そんな小さい人生で良いというのか?」
「そのために、目の前で多くの人が死にました」
「今のままではもっと多くの者が死ぬかもしれないのに?」
「たとえそうであっても、今はこの西町にいる人々を救いたいと思います」
ふう、と榎本が息をついた。
「人を救う道を選んだか、新兵衛」
「師匠の教えにございます」
それは、ある意味、榎本の持つ二つの面の争いであったのかもしれない。
医者である榎本良信という男と、軍師である榎本良信という男。
医者である榎本は新兵衛に姿を変えて、いま自分の前に立っている。
そして軍師である榎本は、と思おうとして榎本はやめた。
西方総大将が自刃した日に、軍師は共に炎の彼方へと消え去ったのだから。
「有江、お玉を抑えろ。久々に新兵衛に稽古をつける」
その言葉に有江が驚く。
大勢は榎本に有利とはいえ、時間は決して榎本の味方ではない。
南町奉行所の者たちを西町にひきつける役目は成功している。ここで無理に新兵衛と戦う必要などないのだ。
有江の驚きに気がついたか、榎本がにやりと笑った。
「案ずるな有江、少し稽古をつけるだけだ」
「師匠、お願いです、火付けをやめてください。こんなこと、誰も幸せになんかならない!」
「そういう言葉は、見事この榎本良信を止めてから言ってみせよ」
はっとして、新兵衛が身構えた。
いま、師匠と弟子、二人の戦いが始まった。




