第四章 我が師
新兵衛がお夕に連れられて診療所へ戻っていったという知らせは、その日のうちに榎本の所へと届いていた。
西町奉行所は診療所へ戻る二人を尾行したり監視する者がいないか、かなりの人数をかけて調べた様子であったが、結局は榎本が東都で作り上げた情報網が勝った形となった。
その日、榎本は東都のはずれ、北側に広がるうらびれた地域の小屋に潜伏していた。
「しかしこの女同心の存在、まずいのではないか?」
榎本と共にこの知らせを聞いた西方浪人の一人が言った。
小屋の中には十名ほどの年老いた浪人がおり、薄暗いろうそくの明かりを中心として座っていた。
彼らは薄汚れた身なりとなっているが、顔つきは精悍であり、その雰囲気はまさに武人と呼べるものである。おそらくは戦場で受けたものであろう、顔や体に傷跡を残している者もいる。
もし西方で活躍した武人の名や顔を知っている者がこの場にいたら、その顔ぶれを見て驚いたことであろう。
年老いてこそいるが、この場にいるそれぞれが、かつてこの国の戦場において少ない者で数十、多い者では数百の兵を率いた名のある者たちであった。
「榎本殿の弟子というのはわかるが、どうもここまで来るとその女に篭絡されている事を考えるべきと思うが」
「うむ、昔から若い女には、あれも弱かったからな」
その男の意見に、榎本も困ったものだという表情を浮かべながら言った。
「おい、笑い事では」
「なに、篭絡されているのであれば、そう考えて動けばよい」
榎本はにやりと笑った。
「南町奉行所が女同心を新兵衛に貼り付けたということは、わしの事はその線でしか情報を手繰れる目算がないということを暗に示しておる。新兵衛が奉行所でどこまで話したかは想像するしかないが、わしが新兵衛に教えた程度の情報であれば問題は無い」
だが、新兵衛とお夕、この二人が本格的に情を通じる間柄となっても、それはそれで榎本としては困る。
新兵衛には一つ、やってもらわなければならない事がある。そのためにはお夕の存在は邪魔である。
策を一つ練る必要があるな、そう榎本は心の中で呟いた。
「ところで、東都へ潜入できた味方はどれほどかな?」
「うむ、確認できただけで五十四名を数えておる。幕府の目を恐れて潜伏している者たちも多いだろう」
「確認できた者たちの腕は?」
「過去に一番槍の誉れを受けたものが五名、他も戦場でいくつもの首級をあげた者たちばかりよ。心配なのはすでに皆が老いぼれの域に達してしまっていることで、今回が死んだ御大将への最後のご奉公となるであろうな」
その報告に、榎本が頷いた。
現時点における兵士の質として、これ以上を望むのは贅沢の域である。
できればもう少し数が欲しいところではあったが、人数が増えれば計画が露見してしまう危険性が増大する。これがちょうど良い塩梅であろう。
「彼らには、今回ばかりはすまんと思っている」
「榎本殿、なにを今更」
「生きて帰れる望みはなく、ひとたび決行となれば、腹を切ることもできずに討ち死にするのを待つだけじゃ」
「いや、榎本殿、それは違うぞ。今回の件は我らにとっても最後の戦、名を上げるにおいてこれほどの舞台はないと皆が思っておるよ」
とはいえ、軍師として配下の兵を全滅とわかっている場所に送り込むのは、勝利のためでなければただの愚策である。
榎本としては、この作戦を愚策としないよう、死に行く彼らのためにも万全の体制をもってことにあたる必要があった。
幸いというべきかは微妙であるが、今回の企てに参加する武士達は、みな死を恐れないどころか、死に場所を求めている感じさえも見受けられる。
これほどの条件がそろって、策に失敗するとなれば、その時はもう榎本も責任を取って腹を切るしかないというものだ。
「しかしこうなると、先日の火付け失敗が痛いのぉ」
浪人の一人がため息交じりに言った。
新兵衛の家にお夕が入り込むきっかけとなった南町火付けの事件は、奉行所が睨んでいた通り、やはり彼らの起こしたものであった。
本当であればあの日に東都で大火事を引き起こし、その混乱に乗じて西方浪人達が城へと攻め入る手はずであった。だが予想外の鎮火によって計画は失敗、彼らは再び東都の奥底で潜伏を強いられることとなった。
失敗の原因はいろいろあったが、やはり最大のものは彼ら自身が東都の火事対応能力を見誤ったことであろう。
いくら気候的に大火事となりやすいところであっても、そこに住む人間がきちんとそれを理解し、対応する知恵と能力があれば、いくらでもやりようはある。彼らとて自分達が住む家を失いたくはないのだ。
「この都にある全ての奉行所は、我ら西方武士に対する警戒を強めておる。夜の見回りもいつもの倍は歩いておる状況、これは生半可ではいかぬぞ」
じろり、と何名かの浪人が榎本を見る。
軍師とはいえ、もとは医者である榎本を快く思っていない者も多い。さらに弟子である新兵衛の状況も含めて、負の感情は悪化の一途を辿っている。
それは榎本自身もよくわかっていた。
だからこそ、ことは慎重を要する。これ以上の失敗は榎本を軍師から外す流れとなり、そうなればあの幼い日義丸を守る者がいなくなる。
いや、この場にいる彼らなら、何の考えや準備もなく無理やり日義丸を頭目に担ぎ上げて、矢面に立たせるくらいはやりかねない。そうなれば日義丸の命は風前の灯だ。
そんなことになってしまったら、信頼する弟子を騙し、影武者を使ってまで死んだことにして地下深くへと潜伏した意味が全て失われてしまう。
そろそろ彼らとの関係も潮時なのかもしれない、そう榎本は静かに胸の奥で思った。
「その件は、先も話したとおり、奉行所が火付けに目を向けるというのであればやりようはある」
「ほう、何か策があると?」
「皆の衆、近くに」
榎本が全員を呼び寄せ、小声で策を話す。
その内容に、全員に静かな動揺と、それ以上の興奮が広がった。
「お坊!」
昼過ぎ、お夕に支えられるようにして戻ってきた新兵衛の姿に、朝からひたすらその姿を待っていたお婆が声を上げた。
「おお、おお」
「お志乃殿、高坂殿はお疲れです。すみませんが中で何か休めるものを」
「う、うむ、承知した」
お婆の声に、周囲にいた長屋の住人達が不安そうな表情を新兵衛に向ける。
それに気がついたか、新兵衛が無理やりとわかる笑顔を彼らに見せて、こう言った。
「はは、みっともない所を見せてしまいました。医者の不養生で、病にかかりまして」
「せ、先生、大丈夫なんですか?」
「少し休みますが、その後は大丈夫ですよ。皆さんにもご迷惑をおかけします」
「迷惑だなんて、何かあれば遠慮なく言ってくだせえ。なあ、みんな?」
そうだそうだ、と長屋の住人達が頷く。
彼らの誰もが、新兵衛の治療を過去に受けたことのある者たちで、命を救われた者も中にはいる。
病人と見間違うほどに疲れ果てた新兵衛にとって、この長屋の人々の言葉は、なによりほっとする材料となった。
「じゃあお言葉に甘えて、何日か診療所を休みにしますので、患者さんが来たらそう伝えてください。急患は別で」
「はい、先生」
そして二人は新兵衛の部屋へと入った。
慣れた自分の部屋に入ってようやく落ち着いたのか、新兵衛が深い息をついて、布団の上に座り込んだ。
「お坊、お茶と饅頭じゃ」
「ああ、お婆様、これはありがたい」
暖かいお茶が、冷え切った新兵衛の体を仄かに温める。
その暖かさが、新兵衛の意識と表情を次第に明るいものとした。
「お坊、いったい何が起きた?その姿の理由が病気などではないことは、年老いたとはいえこのお婆にも簡単にわかるぞ」
「お志乃殿、いまはそのようなことを」
「いや、お夕殿、いいんだ。むしろ今のうちに話をしておきたい」
疲弊した表情は相変わらずだが、新兵衛は、それでもしっかりとした声で言った。
それを聞いて、お夕は思わず新兵衛の事を見直した。
あれほどの状況に遭って、自宅に戻ったからといってもなお気丈に振舞えるというのは、この新兵衛という男は見かけだけの優男ではないという事だ。
かつて奉行所で審議のために捕まった者たちをお夕は何人も見てきたが、その多くは動揺し、意味不明の言葉を叫ぶ者も少なくなかった。
そんな人々と比較すると、いまの新兵衛は遥かに落ち着いている。
彼をしてこれほどの人物なのだから、その師匠である榎本はいったいどれほどの器量を持つ者であるのか。
南町奉行所で備前守が榎本を警戒した理由の一端が、この状況からお夕はわかる感じがした。
「お婆様、よく聞いて下さい。私もまだ信じられないのですが、師匠が、師匠が生きていました」
新兵衛の言葉に、お婆が唖然とした。
無様な姿こそ見せなかったが、驚いた表情のまま、はあと深く声を吐いた。
「お志乃殿?」
心配したお夕が思わず声をかける。
その声に気がついたか、案ずるなとお婆が手を振った。
「榎本殿が、生きておったか」
「はい、以前と変わらぬお姿で。亡霊かとも思いましたが、しかしそれにしてははっきりとしたお姿でした」
お婆が、ゆっくりと部屋の中にあった位牌の方を向く。
それは死んだはずの榎本のものであった。
「覚えておるか、お坊、あの日の事を?」
「師匠が磔にされた日ですね。はい、今も鮮明に」
「あの日、我らは確かに榎本殿の体を土に埋めた。あの時の嘆きはこのお婆も忘れることはない。だが、榎本殿が生きていたという」
驚くのか、それとも嘆くのかと心配をしていたお夕だが、次のお婆の反応に、彼女は驚くことになった。
「なるほど、合点がいったわ」
「お婆様?」
「最後のひと月ほど、おかしいとは思っておったのだ。声も姿も確かに榎本殿その人であったが、何かが違っておった。よく言葉にできんのが口惜しいが、その違和感が最後までついてまわりおった」
「お志乃殿は、気がついていらしたということですか?」
お夕の言葉に、だが、お婆は首を横に振った。
「おかしいとは思っても、あの時の榎本殿は酷い病を抱えていたという話であったし、磔になって死んだ榎本殿は変わり果ててしまって何がおかしいのかもようわからなくなっておった。このお婆も幾多の地獄を見てきたが、やはり親しい者を前にしては正気ではいられなんだかと思って一人納得しておったわ」
「お志乃殿は、榎本殿とはそんなに長い関係で?」
「初めて会ったのは、先の関白殿下が天下取りをあと一歩という所まで近づいていらっしゃった頃かのぉ」
突然出てきた名前に、お夕だけでなく、新兵衛も驚いてお婆の方を向いた。
「山奥の旅で、奥方様が病を患ったときにあの男が現れて、その病をいとも簡単に取り除いたのを見たのが最初じゃ。その時の功績によって榎本殿は先の関白殿下よりお傍で診察と治療をすることを許され、以後何度も見かける間柄という流れじゃ。もっとも、まさかここまで長い付き合いになるとはその時は思ってもみなかったがの」
この話に一番驚いたのは、間違いなくお夕である。
お婆の言う関白殿下とは、西方総大将の父親にして天下人と呼ばれた、先の西方関白をおいて他にはいない。
そうなると、今の話からすれば、お婆はかつてその西方関白の妻に仕えていた人物、ということになる。
もしそうであれば、かつて目にしたあの深い教養と知性も十分に納得できる。
なにしろ高い地位にいる人物の妻に仕える女官ともなれば、有力大名の一族など当たり前、さらに頭も良くなければ傍に行くことさえも許されないのである。
「お、お婆様はあの西方宗家にいらっしゃったのですか?」
「そう驚くでないよ、お坊。わしの孫たる男がその程度で驚いてどうする」
「いえ、その程度といわれましても、普通は驚くものですが」
だが、お夕はそのお婆と新兵衛の会話を聞いた次の瞬間、冷静に戻った。
お婆に孫はいない。
新兵衛の祖母は父方、母方ともに既に亡くなっている。それは奉行所の事前調査から明らかになっていることだ。
お婆は、新兵衛を孫という。
もちろん家族同然の付き合いからお婆がそう言っているだけという可能性もあるが、それにしては感情が入りすぎている。
そうなると、残る可能性は、お婆が正気を失っているということか。
だとすれば先ほどの西方関白の話も全ては妄言と片付けることができるが、このお婆はあの榎本と共にいた人物であり、今までに見せてきた知性と教養はお夕の目から見ても本物である。
はたしてお婆の言葉の中で、どれが真実で、どれが嘘なのか、いまのお夕にはそれをきちんと判別することはできなかった。
「しかし榎本殿が西方浪人を束ねるとはのう。何を思ってのことなのか、さっぱりじゃ」
その言葉に、新兵衛が一瞬どきりとして、だが何とか表情に出す事は抑えた。
新兵衛は知っている。
榎本の行動が、あの時共にいた日義丸という名の少年のためであることを。
「まあ普通であればお家再興というのが最初に思いつくところなのじゃが、西方の方々で宗家に連なる方は、西誉寺にいらっしゃる御方のみ。他は皆死んでしもうた」
「確かに、何か事を起こすからには目的が必ずあるはず。お家の再興でないのならば、あるいは名を上げて仕官の道を切り開くつもりなのでしょうか」
たしかに東都で大きな騒ぎを起こせば、武勇の誉れ高い者として世間から認知されることは間違いない。
だが、戦国の時代であればいざ知らず、今の時代で幕府に逆らった者を拾い上げるような大名がいるとは到底思えない。
「西誉寺の御方を担ぎ上げるという話もあろうが、何よりあの御方は女性であるし、今は幕府の温情で生かされているだけというのは重々承知のはず。いまさら浪人たちに踊らされるような御方ではあるまい」
「それに西誉寺はここから遠く離れた地にあります。西方浪人の一件から西誉寺の周囲には護衛の兵がついていて、そこから連れ出すなどまず無理な話。それどころか、西誉寺にいらっしゃるほかの方々を敵にするようなものです」
お夕の言うほかの方々とは、戦国の世で夫を失って尼となった女性達の事である。
とくに西方出身で、もともと有力な大名の妻であった女性達は、自らの身を守る意味でも西誉寺に集まり、幕府でも無視できないほどの一つの勢力を作り上げていた。
「わからん、榎本殿はなにを考えておいでなのじゃ」
「ご落胤、というのはどうでしょう」
二人の会話をただじっと聞いていた新兵衛が、初めて口を開いた。
「お坊、なんと?」
「どこかに、宗家に連なるご落胤がいたとすれば、その人物を大将として担ぎ上げれば、今の理屈は通ります」
「いや、それは夢物語の世界じゃ。もし本当にそのようなお方がいれば、この婆の耳にも入ってきたはずじゃ。それにあれほどまでにお世継ぎを求めていた関白様が、そのような子を放置するなどありえん」
まあ話のたとえですよと新兵衛は笑ったが、あの時、榎本の隣にいた日義丸の事を知っているだけに、心の中は苦しさで一杯であった。
そしてお夕はといえば、そんな会話をする新兵衛の姿を、ただ静かに眺めていた。
「まあ考えても始まらぬか。今日はもう食事にして、また明日考えることにするがよかろうて」
「そうですね、高坂殿の疲れも、一日寝ればよくなりましょう」
それは問題の先延ばしではあったが、今日この時に限って言えば、鬱屈した空気を晴らすという意味でも仕方のない話であった。
そして、食事も終わり、夜も更けて寝る時間となったころ。
いつも通り布越しで隣り合って座る新兵衛とお夕。
だが、その日の雰囲気は、いつもと違った。
「高坂殿、私に隠していることがありますね」
やれやれ寝ようかと思っていた矢先の一言、そのお夕の言葉は、ただひたすら悲しい響きに満ちていた。
「隠し事、とは?」
「私も竜の一族の一人、人の感情を読むことなど、その気になれば容易いことです。先ほどのお志乃殿との会話、高坂様はずっと苦しんでいましたね」
何を言い出すんだと新兵衛は二人の間を隔てていた布を横にどかした。
そこには、悲しい目で新兵衛を見る、蒼い瞳と金色の髪をした一人の少女がいた。
その美しさと、その悲しい顔に、新兵衛がはっとして目を背ける。
新兵衛にとっては何も悪いことをしているわけではないのに、なぜか、お夕のその顔をまともに見ることができなかった。
「いえ、苦しまれるのは当然ですね。師と仰いだ方を疑わなくてはならないという状況、お気持ちはお察しします。ただ、今も私の目を見て頂けないということは、高坂様は私に何か負い目を感じているということ」
お夕の言う通りである。
新兵衛は彼女に大きなことを一つ、隠している。
あの榎本が連れてきた、ご落胤という日義丸の件を。
「よろしければ、私に話してくださいませんか?」
新兵衛の心の中で、感情が出口を失って渦を巻く。
話してしまえればどんなに楽だろう。
信義も義理も人情も、そして忠節も全て捨て去って、この美しい少女に全てをぶちまけてしまえればどれほど楽だろう。
だがそれは、西方決戦時に殺されるはずだったところを救ってもらい、しかも望んでも学ぶ機会すらどこにあるのかもわからない知識を伝授してくれた師匠への、あまりにも大きな裏切り行為となってしまう。
それは、それだけは、新兵衛にはできない。
この一線を越えてしまうことは、人としての道に外れることとなってしまう。
新兵衛の迷い、苦しみが顔に出たか、お夕がさらに言葉を続ける。
「それとも苦しんでおられたのは、奉行所でお聞きした、診療所を閉めて潜伏せよという指示を受けた話でしょうか?」
違うと言おうとして、その瞬間に新兵衛は愕然とした。
診療所を閉める話で苦しんでいないと言うことは、新兵衛自分が、何よりも大切にしてきた診療所のことを、師匠のことよりも下に置いていたことを示している。
診療所と師匠、それはどちらも同じ、新兵衛にとっては大切なもののはずである。
あの時、榎本は診療所のことは考えておくと言った。
だがその考えというのがいつどういった形で新兵衛の前に現れるのか、それはまったくわからない。
新兵衛がもし診療所を閉めてしまったら、師匠の対策が終わるまでの間は、そこを頼っていた人々を苦しめる結果となる。
死んでしまう人も出てくるかもしれない。
それなのに、自分は無意識のうちに師匠のことを優先しようとしている。
「選べぬのだ」
「高坂殿?」
奥底からの振り絞るような声に、お夕が布団から起き上がって新兵衛の近くに寄る。
「師匠の言葉と診療所、どちらを選べというのか、いや、気がつくと私は師匠の事を第一に考え、診療所に縋る人々のことを下に考えてしまっている」
「それは、いえ、仕方のないことかと」
お夕の本音としては、もちろん新兵衛には診療所を選んでもらわなくてはならない。
彼女はこの東都において貧しい人々のために活動する診療所と、それを管理する新兵衛を西方浪人達の企てから守るために、ここにやってきたのである。
もしここで新兵衛が師匠を選ぶようであれば、お夕は鬼となって新兵衛を捕えないといけなくなる。
そうなれば診療所は取り潰しとなり、そこを頼っていた人々の怒りや恨みは全て幕府へと向けられるだろう。将来的に反乱の火種にさえなってしまうかもしれない。
それは想像もしたくないほどの最悪の未来であった。
「師匠は私にとって命の恩人。そのお人の言葉に背を向けるなど、私にはとうてい考えられぬ。だが、それは診療所を閉めるのと同じこと」
「ならば、榎本殿がなにを望まれてあのように動いているのか、それがわかれば診療所を閉めずにすむ案も考えられるのではありませんか?」
新兵衛は目を閉じ、天を仰いだ。
榎本が望むのは、きっと、あの少年を使って再び西方を立ち上げること。
言われなくとも、わかっているのだ。
だが、それは口に出してはいけないもの。
「いえ、それどころか、もし榎本殿が東都の火付けを企んでいるというのなら、止めなければなりません。そうでなければ、高坂殿が何のためにこの診療所を守ってきたのか、その意味が失われてしまいます」
「お夕殿っ」
反射的に、お夕の言葉を止めようと、新兵衛がお夕の両肩をつかんだ。
その行動に、お夕がはっとなって、言葉を止めた。
「師匠は、私の第二の父親なのだ!尊敬する師匠なのだ!あの方がいなければ今こうして私はこの場にいなかったかもしれない!」
心の奥底から搾り出すような声で、お夕を前後に揺らし、新兵衛が叫ぶ。
反射的なものか、お夕の周囲にいくつもの気配が浮かぶ。
お夕を守る精霊達である。
だがお夕は、激しく揺さぶられながら、それらに待てと命令を下した。
「その方に逆らうなど、深い恩を受けた人を、どうして裏切れよう」
次第に新兵衛の力が弱くなる。
「私は、その父親に殺されかけました」
はっとして、新兵衛が顔を上げる。
そこには、新兵衛の手によって着物を大きくはだけさせ、白い胸も半ばあらわになりながらも、姿勢を崩さずじっと新兵衛を見守るお夕の姿があった。
その美しいまでの白い乳房に目を奪われそうになって、新兵衛は慌てて両手を離して、お夕に背を向けた。
「す、すまぬ」
「いえ、こちらこそ、不躾なことを言ってしまいました」
新兵衛の背で、お夕が動く音が聞こえる。はだけた着物を直したのだろう。
「昔話を、しましょう」
「え?」
「私が子供の頃の話です」
新兵衛がお夕の方に向き直る。お夕の着物はもう寸分の隙もなく直されていた。
少し残念な気持ちになるものの、半ば乱暴な形でお夕に迷惑をかけてしまった新兵衛としては、頭の中はもう反省の気持ちでいっぱいである。
だからこそであろうか、お夕の表情は、そんな新兵衛に対して、あくまで優しいものであった。
「以前、私の事はお話しましたよね。私が竜の一族であると」
「うむ」
「私が生まれた国ですが、人と物の怪に明確な区別がつけられ、可能な限りの接触が禁じられておりました。別の国では物の怪を一箇所に集めて、そこから出ることを強く禁じる措置をとった、などという話もあります」
その話は新兵衛にも理解できた。
今でこそ比較的仲の良い関係を築いているこの国の人と妖怪であるが、遠い昔には激しい戦争でもって殺し合いをしていたということもあった。
昔、その関係を憂えた神々が人と妖怪の間に立ってその関係を調整しなければ、戦争は今も続いていたかもしれない。
「そんな関係でも一つ例外がありました。それは強い物の怪、たとえば私のような竜の一族と交わることです。強い物の怪の血を一族に取り入れれば、その能力は人を容易く超えるものとなります」
「いや待ってくれ、理屈はわかるが、ことはそう単純ではないはずだ。強い妖怪へそんな気持ちで安易に近づけば、逆に喰われてしまうぞ」
強い妖怪とは、もう一つの見方をすれば限りなく神に近い存在である。
天候を操り、摩訶不思議な技を繰り出し、ひとたび暴れれば一つの街や村を簡単に廃墟へと変えてしまう存在。
そんな彼らに、普通でも近づくことさえ難しいのに、まして力のために子供を作りたいなどと言えばどんなことになるか、子供でもわかる話である。
まあ中には九尾の狐であるお玉のように積極的に人間と交わろうとするものがいるが、彼女達のような存在のほうが稀なのである。
「はい、その通りです。そんな中で、我が父と竜の血を引く娘であった母は、なにかのきっかけで結ばれ、そして何人もの子供を作りました」
お夕の言葉、それはどこまでも他人事のような響きを持っていた。
「なぜ二人が夫婦となったのかはわかりません。母も話してはくれませんでしたから。それでも最初の頃は幸せだったと聞いております。」
「最初のころは、ですか」
お夕が頷く。
「流れが変わったのが、その子供達が成長した頃からです。今もおそらくそうなのでしょうが、あの国では戦乱が絶えず、我が兄達も頻繁に戦場へと出かけていきました。竜の力は絶大で、兄達の功績は軍の中でも特に大きかったと聞いております。しかし兄達がたまに戦場から戻ってくると、その血が騒ぐのか、よく酒場などで乱暴狼藉を働いて市民達から苦情が出ていました」
「まあそれは、人間でも同じではないか?」
「いえ、ただの人間であれば暴れても椅子や机が壊れる程度なのですが、我が兄達の力は竜の力なので、そうなると酒場ごと木っ端微塵にしてしまうのです。領主、この国の言葉では大名のほうが良いでしょうか、そんな立場であった父は兄達の気性の荒さは我が母のせいだと言ってなじりました。兄達の気性の荒さは母の血のせいだ、と」
ひどい話であるが、人間でも似たような話はそれこそいくらでも転がっている。
それこそ、そこの長屋の井戸端でなら、女達の口からいくらでも似た話を聞く事ができるであろう。
あるいはお玉あたりが今の話を聞いていたら、人間も妖怪も奥底の大事な部分は結構みんな似たり寄ったりなんだよ、とでも言ったかもしれない。
「そして父は、次第に母や兄達、そして私を恐れるようになりました。いつか自分は彼らに殺されてしまうのではないかと。ひどい話ですよね、いくら妖怪でも実の親を殺すなどありえない話なのに。絆の崩壊を悟った母は父のもとから去りました。そして、子供達はそれぞれで父のもとから逃げ出しました」
「そしてお夕殿は、国を離れ、流れ流れて今ここにいる、と」
「はい。私は幸運でした。母からもらった名前こそ呪いで失ってしまいましたが、父の放った殺し屋から逃れきって、今もこうして生きているのですから」
その言葉に、新兵衛が驚く。
殺し屋ということは、お夕は実の父親から命を狙われたことになる。
「そんな、殺し屋などと。実の子供ではないか」
「父にとって今の私達は、子供などではなく、自分を狙う物の怪でしかありません。それに私や兄は、いわば大名の子供でもあるのです。もし領地内でその子供達による後継者争いとなったら、多くの死者が出て、その地は滅びます」
そこまで言って、お夕は一つ息をついた。
他人事を語るような表情から、やはり自分の家庭の事情について話すのは恥ずかしかったのか、感情のある表情になる。
「私は、父が間違っていたと思っていますし、父の前ではっきりとそう言えます。誰も父を害そうなどと思っていませんでしたし、行状の悪かった兄達でさえ、父のためにすすんで戦場へ向かい、命をかけて戦ったのです。それなのに、父は一人で私達を恐れ、遠ざけてしまった」
「恐れ、遠ざけた、ですか」
「高坂殿、榎本殿との関係はよくわかります。ただ、それでも間違っていることがあるのなら、それを正すのも子の役目ではありませんか?高坂殿が診療所を閉められないのも、榎本殿の目的に何か問題があると感じているからではありませんか?」
その言葉に、新兵衛ははっとなった。
その通りである。
榎本が西方を再興するということは、間違いなく大きな戦争が始まり、多くの死者が出ることを意味する。
そこで得をするのは、かつて西方についていた大名や、いまの幕府に敵対している者たちだけである。むしろそれ以外の人々は再び始まる戦乱に恐怖し、多くの命が奪われることであろう。
もちろん、かつて両親が、そして師匠である榎本が仕えた西方について、再興するのであればそうなってほしいと新兵衛も思う。もしそこで働けるのであれば、死んだ両親や兄への供養にもなるだろう。
だが、それは誰かを犠牲にしてまで求めるべきものではない。
それを求めるのは、診療所で人々を救う道を選んだ高坂新兵衛という男の人生を否定することになる。
「師匠と、話をする」
「高坂殿!」
「話をして、見極めようと思う。この診療所はもはやこの地の人々の命綱、軽々しく事を決めるべき話ではない」
お夕の表情に、隠しようもない喜びの笑顔が広がった。
もちろん新兵衛が榎本と話をすれば、人生経験豊富な榎本にそのまま丸め込まれてしまう可能性は高い。
だが、少なくとも今の時点で、新兵衛は榎本から一歩引いて行動しようとしている。
それは間違いなく一歩前進であり、平和な未来へと繋がる希望であった。
「高坂殿、私もできる限りの協力をします。この診療所のため、頑張りましょう」
勢いで新兵衛の手をとって、お夕は両手で包むようにそれを握った。
「あ、う、うむ」
その手に伝わるお夕の体温に、少し恥ずかしいのか、そんな声で頷く新兵衛。
新兵衛の表情に、お夕ははっとなって、その手を離した。
「も、申し訳ありません。お恥ずかしいまねをしてしまいました」
「いや、いいんだ」
もじもじと、握った手を後ろに隠して、赤くなって俯くお夕。
「今日はもうかなり遅くなってしまったし、明日、方策を考えよう」
「はい」
「では、おやすみなさい」
そして二人はそれぞれの布団に横になった。
いろいろあったためか、二人が眠りにつけたのは、それからしばらくたってからのことであった。
「とはいえ、どうやって師匠と連絡を取るべきか」
患者の列がひと段落した昼過ぎ頃、新兵衛がぼそりとそんな言葉を呟いた。
「どうせその辺りで見張りを立てているに違いありません、探し出して捕まえて、榎本殿にすぐにこちらに来るよう伝えればよいのです」
午前中いっぱい、新兵衛に協力して患者の診察を行っていたお夕が、疲れきった声でそう言った。
怒涛のごとく押し寄せた患者達を次から次へと診察してまわったせいか、少し精神的に乱暴な部分が出てしまっているようである。
それでも一日の診察でほぼ全員の患者を診れているのであるから、お夕が入った効果はまさに絶大といえた。
長屋の住人の中には、これで二人夫婦になってくれれば診療所も安泰だなどと言う者も出始めており、さすがのお夕も心中は複雑な様子であった。
「お夕殿、それはさすがに極論であろう。この周辺だけで浪人の数は百名以上いるぞ」
そう新兵衛は言ったが、実際はそのさらに数倍、東都という範囲になれば数千もの浪人がいると噂されていた。
浪人達の多くは、戦乱で主君を失ったり、取り潰しなどで仕える家が無くなった者たちで、日々の食事に事欠きながらも仕官の道を探る生活を送っていた。
しかし仕官できたのは本当にごく限られた一部の武士だけであり、ままならぬ暮らしに不平不満の声を上げる者も少なくなかった。
西方浪人達が火付けにこだわったのも、そういった不満を持つ浪人たちが東都内には溢れており、ひとたび混乱となれば彼ら浪人達の加勢も得られるだろうという思いがあったからである。
「いっそ立て札でも出しますか?そうすればいやでも話は榎本殿に伝わりましょう」
「いやいや、師匠が磔となったのはこの界隈では有名な話で、記憶もまだ鮮明に残っているであろう。そんなことをすれば高坂新兵衛乱心かと言われてしまう」
うんざりとした表情で言う新兵衛。
この二人の会話風景は、はたから見れば夫婦漫才としか見えない代物であったが、当の二人にはその自覚がまったく無い。
近くでそれを眺めているお婆の表情は、ひ孫の顔はいつ見れるかねえなどと言い出しかねないものであり、会話の内容を除けばそれはまさに平和な光景であった。
「高坂殿、他に何か心当たりはないのですか?」
「あるにはあるが、おそらく無意味であろう」
「え、あるのですか?」
まさかあるなどという回答が出てくるとは思っていなかったのか、お夕が驚きの表情を見せた。
「師匠は、何かあれば吉原の新町恵比寿屋を頼れと仰られた。そこの主人に聞けば何かわかるかもしれないが、普通に考えれば主人は事情など何も知らないだろう」
うーん、とお夕が唸る。
もちろん、同心という立場を使ってお夕がその店の主人を問い質すことは可能である。
だが新兵衛の言う通り、店の主人は金でもって言われたことを行うだけの存在であり、あの榎本が重要な情報をそんな商売人に教えているとは思えない。
むしろここでお夕が店の主人を問い質せば、その情報は榎本の所にも届いて、診療所にはお夕という同心が住み込みで張り込んでいるということが伝わってしまうだろう。
もっとも、榎本はすでにお夕が新兵衛の所にいることを、自らの持つ情報網から知っていたのだが。
「それでも接触すれば、師匠にも何らかの形で伝わるかもしれん」
「確かに、それはそうなのですが」
お夕の言葉に、迷いが出る。
新兵衛がその店に行くということは、つまり吉原の街に行くということである。
もちろんお夕も吉原という街がどのような所であるか知っているから、できることなら新兵衛にはそういった場所へ出かけてほしくないという気持ちがあった。
そういう気持ちを抱いている時点で、新兵衛の使い魔であるお玉がそれを知ったらにやにや笑ってからかう所なのだろうが、お玉はあの日に榎本の手により捕えられてから戻ってきていない。
「それよりもお坊、一つ確認したいことがある」
二人の会話を聞いていたお婆が口を開いた。
「なんでしょう、お婆様?」
「榎本殿が生きていらしたということは、このまえ磔となった男が何者であったのか、調べる必要があるのではないかな?もし影武者というのなら、そのまま違う名で葬られるのは辛かろう。幸い、葬った場所は今もよう覚えておる。死体を調べ、影武者というのならせめてその形で手を合わせるのがよかろう」
「ふむ、確かにお婆様の言うとおりですな」
「しかし高坂殿、確認するといっても、どうなさるのですか?」
様々な術が使われ、不可思議な力を持つ妖怪達がいるこの世界であっても、死者を呼び出したり会話をするものについては忌避される傾向が強い。
奉行所も、さすがにその関係の術は死者を穢す行為だとして許可なく行うことを禁止しており、無許可で行った者については厳しい罰が与えられた。
人々にしてみれば、死者を呼ぶということはそれだけ死の穢れを引き寄せることになり、同時に自らの命を縮める行為に等しいと思われていた。
実際に幕府が忍び達を使って行った調査でも、死者と関わる術を使う者は総じて短命であるという結果が出ていた。
「影武者となっていたのであれば、そのための札や術の痕跡が体に残っているはずじゃ。まさかあの時、薪の金が無くてそのまま土に埋めたことが今日のこの話に繋がるとは、なんとも奇妙な縁じゃて」
「師匠がそれを行ったのであれば、必ず札術を使ったはず。ならば痕跡を手繰るのは容易な話ですね」
ならばどうして最初の時にわからなかったのかと思うお夕であったが、恩師の死を目の前にして冷静にそれだけの判断ができる人間のほうが少ないのである。
「お夕殿、ちょっとよいかな?」
「はい、なんでしょう」
「死体の検分となると、やはり奉行所の協力が必要となる。お夕殿は南町の同心、今回の件における調査ということでいてくれれば、仕置場の役人達への説得も早いだろう」
かつてを思い出しながら、新兵衛が言った。
なにしろ師匠である榎本が磔にされた時には、方々で情報を集め、役人や刑場の人々に金を渡すなどして、ようやくその死体を回収することに成功したという経験がある。
その時に最も大きな力となったのは、金を渡した同心による政治力であり、とくに今回は大義名分に加えてお夕という存在もあるので、その意味ではやりやすい調査だった。
「それは構いませんが、なんといいますか、お二人とも恐ろしくはないのですか?ずいぶんと簡単に仰られているようですが」
「ん、何が?」
「死体を掘り返して調べるのですよ?罰当たりとは思わないのですか?」
言われて、新兵衛がお婆と顔を見合わせて、初めてその事に気がついたかのように二人で苦笑いを浮かべた。
「確かに言う通りではあるな」
「ほっほっほ、この婆もお坊も、死体など飽きるほど見てきたからのぉ。まあ罰当たりなところはお坊の働きで閻魔様には見逃してもらうかね」
唖然とするお夕。
お夕もそれなりに修羅場をくぐって来た女性だが、それでも死体を見れば祈りを捧げる程度のことはするし、死者を穢す行為には憤りを感じる。
だがこの目の前にいる二人は、そういった感情を超越して、死体はもう人間ではなく物であると言わんばかりである。
そこに達するまで、この二人はどれほどの地獄を見てきたのか。
「まあ確かに、死体の検分など女性が見るべきものではないだろう。お夕殿は役人と交渉をしてくれるだけでよい」
そう新兵衛は言ったが、同心ともなれば殺人事件や不審な死体を調査することも多いために、お夕とて死体に対して恐れを抱くようなことはない。
それに、今回調べるのは丁寧に葬られたものであり、怨恨などで殺害された死体を調査したときのおぞましさに比べたら天国と地獄である。よって新兵衛のそれは心配のしすぎといっていいのだが、お夕としてはその気遣いは心地よいものであったので、とくに何も言葉を返さなかった。
「お婆様は、すみませんが診療所で留守番を」
「よいのか?」
「はい、場所は私もよく覚えていますし、なによりお婆様を刑場などに何度も連れて行きたくはありませんからね」
「子供が言いよる。まあ、心遣いはありがたく受け取るかの」
「高坂殿、それでいつごろ出かけられるつもりですか?」
「明日早朝に向かおう。死体は恐れぬといっても、できれば帰りに寺へ立ち寄ってお経の一つでもかけてもらいたいからな」
そう言って、新兵衛は笑った。
そして次の日の朝。
仲良く出発する二人を見送ったお婆は、やれやれとばかりに自室へ戻った。
新兵衛とお夕がいない以上、今日の診療所は休みである。お婆とすれば、掃除洗濯をすぐに片付けて、お茶を煎れて贅沢に一息つきたいところであった。
その時、扉をがらりと開ける音がした。
「なんじゃ、お坊か?忘れ物か?」
そう言って振り向いたお婆は、そこから入ってきた人物を見て、そのまま硬直した。
一方その頃。
迷いなく前を歩いていく新兵衛の様子を見て、お夕が口を開いた。
「高坂殿、ずいぶんと慣れた道の様子ですが」
「うむ、師匠の件もあるが、刑場にいる者たちや罪人の診察も何度か行ったことがあってな、そのおかげで道をすっかり覚えてしまった」
刑場への道を慣れてしまうということ、そしてそれを疑問に思わないこと。
お夕はそうですかと新兵衛に答えつつ、胸の奥が締め付けられるような、そんな感じを抱いていた。
人を守ること、救うことに自らの責務を見出した若侍が、これほど死に近い場所に居ながら、それを何とも思っていない。
さらに今、より大きな厄災とでも言うべき陰が、新兵衛を覆わんとしている。
人々を守る同心として私がこの人を守らないと。お夕は新兵衛の背中を見ながら、そんな風に思ったのであった。
刑場の周辺は診療所のある貧民街など比較にならないほど寂れ、痩せこけ乾いた土地を晒している。
ここに住むのは刑罰を執行する役人と、死罪となった者たちを弔う僧侶、そしてその死体を文字通り処理する者たちである。
彼らは世の生活に間違いなく必要でありながら、色濃く滲む死の影によって人々に忌避される存在である。
また、死の穢れによる影響からであろうか、この土地周辺は疫病が絶えず、より一層東都の人々を遠ざける一因となっている。
実際、お夕の感覚からしても、刑場へと近づくにつれて、空気が淀むのが感じられる。
「さてそろそろ役人のいる番屋だが、お?」
と、そんな声を上げた新兵衛に、何かあったのかとお夕は前の方を見る。
道端の大きな石に、一人の女性が腰掛けていた。
着物は黒い喪服、だがそこから覗く肌は絹糸のように白い。
顔はこれまた白い肌で、お夕の目から見て明らかにこの国ではない。というより、どこか懐かしささえ感じられる顔立ちである。
「そなた、まさか、有江か?」
新兵衛の口調が緊張したものになる。そのただならぬ雰囲気に、お夕もはっとなって懐の十手に手をつけた。
「お待ちしておりました、若。ほんの少し見なかっただけで、見違えましたわね。ほんとう、人はすぐに変わっていきますわね」
「高坂殿、この方は?」
有江、と呼ばれた女性が立ち上がる。
かなり背が高い。お夕もこの国では間違いなく背が高い部類に入る女性だが、それよりもさらに頭半分ほど、新兵衛と同じくらいの背である。
「師匠が連れていた妖怪だ。土蜘蛛の一族と聞いている」
「若、土蜘蛛ではありません。織物の精です」
聞き咎めたか、頬をふくらませて訂正する有江。
「す、すまぬ、そうであった」
「師匠、という事は榎本殿の!」
榎本は札術士である新兵衛の師であるから、新兵衛と同じように妖怪を連れていてもおかしいところはない。
だがそうなると、あの榎本が連れていた妖怪ということになり、その実力は警戒するに余りある。
「しかしまあ、若も男ですわね。お玉がいない間はその女が代わりですか?まあ若いから大目には見ますけど、浮気はだめですよ」
「ち、違う!お夕殿とはそういう関係では!」
新兵衛の言葉は確かに事実だが、そう力いっぱい否定されるとお夕としても複雑になってしまう。
「おやおやうぶな反応ですわね。ん?あらこれは」
くんくん、と有江が鼻をひくつかせる。
「なんです、お玉のやつ、筆下ろししてないのね。まったく、態度ばっかり大きくて奥手だなんて、どんな夜伽話なのやら」
「ぶっ!」
真っ赤になって慌てる新兵衛と、つられて同じく赤くなるお夕を見て、からからと有江が笑った。
「いやいや、いつもの若ですわね。体は見違えましたが、私も安心しましたわ」
「有江、今回はいったい?いや、そういえば有江は以前に師匠が磔にされた際、野に返されたはず」
「ああ?そんなもの、嘘っぱちに決まってるじゃないですか」
あっさりと言い切る有江。
つまりそれは、榎本が生きているという一つの証拠。
「やはり、榎本殿は生きていたのですね。土蜘蛛よ、南町のお夕が奉行所の名において命じます。大人しく知っている情報を話しなさい」
「お夕殿!いけない、彼女は!」
「やはりって、なに、奉行所ってまだ大旦那のこと死んでいたと思っていたのかい?」
「それも含めて話しなさい」
止めようとする新兵衛を背に、前に出るお夕。
なにしろこの妖怪は、ようやくお夕の目の前に出てきた貴重な情報源である。見逃すという選択肢はない。
「ん、あんた、ここの人間じゃないわね。蜥蜴の匂いもする」
「とっ、蜥蜴!」
思わず、新兵衛が聞いた事の無い声をお夕は上げた。
蜥蜴と言うのは、人間を猿呼ばわりするのと同じで、竜族に対するかなり大きな侮蔑の言葉である。
「んー、あれ、糸が辿れないねえ。ふむ、あんた祖国から縁を切られたのね」
「質問しているのは私です、私の問いに答えなさい」
いいながら、お夕は心の中で冷や汗をかいていた。
自分の縁を即座に見抜く力、それは凡百の妖怪程度ができる技ではない。
「二人ともよせ。有江、そなたは私を待っていたのであろう?」
新兵衛がお夕をかばうように前に立つ。
「高坂殿!」
「お夕殿、ここはまかされよ。有江はお夕殿が思っているよりも、ずっと強い」
その言葉に、思わず黙るお夕。
新兵衛の顔は、見たことも無い緊張感で満ち溢れていた。
「ん、まあ若を待っていたのは事実なんだけどね。もうだいたい終わったかなあ」
「なに?」
「時間稼ぎよ」
くすくす、と有江が可愛く笑う。
そのとき、道の彼方で何かが爆発したような音と共に、巨大な粉塵が舞い上がったのが見えた。
「あれは!」
「これで死体は木っ端微塵、証拠も何もかもみーんなばぁらばら」
「なっ、そんなことをして何になる!それに、もしあれが本当に師匠の死体であるなら、何よりもそなたがそのような所業を許すはずがない。となればあれはまぎれもなく影武者のものと言っているようなものではないか!」
新兵衛の言葉に意外そうな表情を有江は見せた。
「若、あんたもわかってるようで、私達のことをあまり分かってない様子だねえ。死体なんてただの朽ち果てた肉と骨よ」
「それでも!あれほど師匠を慕う有江であるならば!」
「奉行所を甘く見るものではありませんよ、蜘蛛女」
お夕が会話に割り込む。
その声は、さきほど侮辱された時の怒りはなく、冷静なものであった。
「奉行所は、榎本殿は生きていると確信しています。今回はあくまで石橋をきちんと叩いて渡りに来ただけのこと」
突然、お夕と新兵衛を中心に、そして有江を囲むように濃い霧が現れた。
「おやおや、若に止められていながら、そっちはやる気かい」
「参考人として奉行所へ連行します、大人しくついてきてください」
「これはちょっと身の程を知らせる必要があるわねえ。若、こういうのはね、本当は男の役目よ。精進しなさいな」
「お、おい!」
霧が濃くなり、新兵衛の頬に水滴が当たる。
そして緊張感が極限にまで達したその時、突然周囲の霧が消えた。
「なっ!」
お夕が驚きの声を上げる。ということは、これはお夕が望んだ状況ではないという事。
「まだまだ甘いね、そんな張り方じゃ、こんな風に切り刻まれるよ」
周囲に、何か光る線のようなものが見える。
新兵衛はそれが何なのか、知っていた。
有江が放つ美しくも鋭い蜘蛛の糸。
かつて榎本は新兵衛に言った。
有江の放つ糸は、妖怪でありながら神を屠る、と。
「さて、若、私はそろそろここらで下がらせてもらうとするよ」
後ろから聞こえた声に、新兵衛が驚きで硬直する。
ついさっきまで正面にいたはずの有江が、いまは新兵衛の真後ろで、その背中に抱きついて、耳元で囁いている。
お夕が慌てて有江に十手を向けるが、新兵衛が近すぎて振り下ろすことができない。
「こ、高坂殿!」
「鈍いねえ。本気でこの世界に挑むつもりなら、もう少し強くなりなさいな。さもないとこういう風にいつのまにか目の前の男を掻っ攫われる」
有江の放つ甘い香りに、新兵衛の表情が自然と緩む。
圧倒的な実力差を武器に、抵抗することもできないほどの強力な誘惑術であった。
さすがに癇に障ったか、お夕が激怒した表情で腕を一閃した。すると、その香りは全ていずこかへと消え去り、同時に有江の姿も見えなくなった。
「あ、若に大旦那から伝言だよ。いろいろあって迎えに行けそうもない、それで人を預けたので、しっかり世話をするように、だとさ。じゃあ、また後日に」
人を預けた?と新兵衛が問おうとしたとき、今度こそ有江の気配が消え去った。
いまだ足元にも及ばずか、新兵衛がそうため息をついたとき、散々からかわれ馬鹿にされたお夕が怒気を交えて新兵衛へと詰め寄った。
「あ、あの女はいったい何者なのですか!説明してください、高坂殿!」
その言葉は、お夕はまったく自覚がなかったようだが、完全に浮気を咎める若い妻のそれである。
「何者といっても、さっき言った通り、有江は師匠が最も頼りにする土蜘蛛の妖怪だ。ただ、師匠によればこの地に古くからいる土蜘蛛の一族ではなく、どこか遠くの地からこの国に渡ってきた者らしい。もっとも有江については、得意とするのは裁縫の分野で、戦うのはそれほどでもないと言っていたな」
「あれほどの腕で、得意ではないと?」
「昔はお玉とじゃれあったり喧嘩したりしていたがな。師匠が磔となる前に、師匠から野へ逃がしたと聞いていたが、やはり共にいたということか」
「まあ、榎本殿が生きていたというのはもはや決定事項のようなものですから、あの女は最初から高坂殿を騙してその男の所にいたのでしょう」
思わず新兵衛がお夕の顔を見る。
なんだろう、ずいぶんとお夕の口調に棘がある。
「しかし高坂殿、あの女、なぜ影武者の死体を爆破などしたのでしょうか?」
「おそらくだが、死体に何か証拠が残っていて、私の札術によってそこからいろいろ手繰られるのを防いだのだろう。私もそのつもりでこの場所に来たのだし」
「なるほど。それともう一つ、人を預けたとあの女は言っておりましたが?」
「それは何ともわからぬ。預けたとなれば、む、診療所か。お夕殿、急いで診療所へと戻ろう。お婆様が心配だ」
「死体のほうはもう良いのですか?」
すでにもときた道を戻り始めていた新兵衛は、お夕の言葉に力強く頷いた。
「あの有江がやったのだ、まともな証拠など残っていまい」
そして少し後、新兵衛とお夕は息を切らせながら診療所へと戻った。
「お婆殿!」
周囲に長屋の住人しかいないことを確認し、お夕にはさらに外の警戒をしてもらいながら、新兵衛は診療所の中に入った。
「お、おお、お坊とお夕殿か。早かったの」
「お婆殿、大丈夫でしたか?」
「何がであるか?」
「いや、刑場で実は有江殿と会って、いろいろあって、それで」
「榎本殿がおぬしに人を預けた話かの?」
「はい、え?」
驚いて、新兵衛がお婆の顔を見る。
「あの男め、挨拶に来よったよ」
「ま、まさか師匠がですか?」
お婆が頷く。
その言葉に、お夕も何事かと診療所の中に入った。
「心配をかけて、騙したまねをしてすまなかったと言ってきおったので、一喝してやったわ。まったく、生きておるのなら生きておると」
その言葉にどれほどの感情が秘められているのか、新兵衛は言葉を返すこともできず、ただ一つ息を吐いた。
「それでお婆殿、その、師匠から預かった人というのは?」
新兵衛の言葉に、お婆は一つ頷いて、奥に声をかけた。
そのお婆が呼ぶ名前に、新兵衛はそれこそ飛び上がらんばかりに驚いた。
「日義丸、こちらに」
奥から、年のころとしてはまだ元服前の、美しい若武者が現れた。
それは榎本より西方関白のご落胤として紹介された、あの日義丸その人であった。
「高坂殿、申し訳ござらんが、しばしお世話になります」
新兵衛は、その姿にただ頷いただけで、心の中ではただ呆然としていた。
高坂新兵衛、師匠に先んじれるのはまだまだ先の話のようであった。




