第三章 丑三つ時
その日、お夕は奉行所へ報告に行くと言って、朝から不在であった。
かなりの権限を持つ同心とはいっても、奉行所に対して数日間も報告無しというのは、新兵衛から見ても良くない状態とわかる話だった。新兵衛はそんなお夕の姿に気をつけて行ってらっしゃいと笑顔で見送った。
昨日はお夕の協力もあって患者の対応に余裕が出ていた診療所は、彼女がいなくなった途端にまた長い行列ができる羽目になった。
もっとも中には、すでに噂が流れていたのか、診療に参加したお夕を目当てにやってきた不届き者もいたようで、診療所の中に入って彼女がいないとわかるや帰っていく男性さえもいた。
「まったく、最近の若い男共ときたら」
その光景にお婆などはため息をついて嘆いていたが、同じく若い男性の一人である新兵衛から見れば、まあ仕方ないのかなと思うところもあった。
実際に、僅か数日の間だというのに、お夕がいない診療所の中が寂しく感じられる。
まだ師匠が生きていた頃、若い手伝いの娘をこの診療所で雇っていた時があって、その娘が嫁に出ていなくなってしまった時も、どこか似たような感じがあったのを新兵衛は思い出した。
「このお玉様という看板娘がいながら、何を残念そうな顔をしてるのかねこの主人は」
などと狐妖怪のお玉は新兵衛に言ったものだが、それはお玉なりの新兵衛に対する気遣いであったのかもしれない。
さて、患者達の列もひと段落したころ、それは突然やってきた。
「かつて切られた左腕が疼いてしまって、こうしてやってきた次第で」
それは新兵衛よりかなり年上の、初老の浪人であった。
かつては戦場で活躍したとわかる頑強な肉体をしているが、浪人の言う通り、左腕の動きがおかしい。
「これはかなり大きな傷を一度負われていますね。痛むのですか?」
「いや、疼く感じだ。ただ気になって仕方なくてな」
「わかりました、腕の力を抜く札を用意しましょう」
「かたじけない」
新兵衛が札を何枚か用意して渡すと、その浪人は丁寧に礼を言って、懐から紙の包みを取り出した。
「これは診察代でござる」
「はい、確かに。ただ診療代は、次回からは表のお婆様にお渡し下さい」
「そうなのか、まあよかろう。一応、十分なものは包んであるはずだ」
確かにその大きさと重さ、透けて見える中身は何枚かの貨幣であり、診療費としては十分なものであるとわかる。
「その包み、早いうちに確認することを勧める。では、これにて」
そう言って、足早に浪人は診療所から出て言った。
「包みを確認?」
浪人の不思議な物言いに、新兵衛は慌ててその包みを開いた。
その中身を見て、これはと思わず声を出したくなるのを新兵衛は必死に堪えた。
中に入っていたのはいつもの銅銭であったが、そのうちの一枚はなんと銀貨であった。それも、間違えようもない、西方がこの国の中心であった頃に作られた銀貨。
西方の貨幣そのものは別に珍しいものではない。もともと大量に流通していたものであり、まだ一般的に使われているものも多い。
だが、はっきり言って報酬としては多すぎる。さすがにこれは受け取れないと、慌てて新兵衛は外に出て浪人を探した。
だが、不思議なことにその浪人の姿はどこにも見えなくなっていた。
何が起きているのかと新兵衛は診療所に戻ると、ふとその包まれていた紙に何か文字が書かれていることに気がついた。
丑三つ時、西白寺。
そしてさらに一つの文様。
師匠、と新兵衛は小さく声を出した。
それは新兵衛の師匠である榎本の花押であった。
紙を持つ新兵衛の手が、がたがたと震える。
榎本が磔にされたその日、新兵衛はその一部始終を慟哭と共に見ていた。
そして刑場の人々を金銭と共に説得して、師匠の亡骸をお婆と共にそこから持ち出して近くの山に埋めて、僧侶も呼んで線香を上げてもらって供養もした。
この時の光景は、新兵衛にとって忘れようにも忘れられない強い思い出となっている。
「しかし、これは、一体」
紙の内容を見るならば、その時間に指定の場所へ来るようにという榎本の命令である。
だが、新兵衛の師匠、榎本良信は死んだはず。
ではこれは何なのか。
誰かが師匠の名を騙っている可能性もあるが、それにしては中に包まれていた銀貨の事が気にかかる。
この銀貨は西方でも位の高い人々が持っていた価値のあるものであり、悪戯で使うようなものではない。
となれば、お夕の話にあった、西方浪人の件。
お夕は言っていた。西方浪人達が新兵衛と接触を図るに違いない、と。
新兵衛は顔を上げた。
もしこれが本当に師匠のものであるのなら、行かねばならない。違うのであれば、それを騙った者たちを成敗しなくてはならない。
お夕のことがこのとき新兵衛の頭をよぎったが、これは師匠に関係する話である。そうであるならば、これは師弟の間で決着させるべき話だろう。新兵衛はそう結論づけた。
「お玉、いるか」
「あいよ」
新兵衛の後ろに、すうっとお玉が出現する。
「戦になるかもしれない。すまないが、共に来てくれ」
「あらあら、何を今更言うのやらこの旦那は。ん、その紙は、なるほどねぇ。それじゃあ旦那がそんな顔をするのも仕方がないねえ」
にんまり、とお玉が嗤う。
新兵衛の表情には、鬼が宿っていた。
「ところでお婆様には何も言わなくていいのかい?」
「人に呼ばれて出かけるくらいは言う。だが、詳しいことは知らないほうがいい」
もし知っていたら、奉行所から問い詰められたときに、それを奉行所へ報告しなかったことを責められるかもしれない。
「じゃあ、あのお夕って娘は?」
「明日まで帰らん。それに、今から奉行所に向かう余裕はない」
それを聞いて、お玉がくすくすと笑った。
余裕がないというのが真っ赤な嘘であることをわかっていたからである。
奉行所は確かにここから少し距離があるが、別に新兵衛が行かずとも、文をしたためて誰かに送らせるなど、手ならいくらでもある。その程度のことを思いつかない新兵衛ではないことを、一番の使い魔であるところのお玉はよく知っている。
ではなぜそんな嘘をついたのか。
もしお夕がこの紙を見れば、新兵衛に対して一緒に行くといって聞かなかっただろう。この先に何が待っているかは実際に見てみないとわからないが、もしそこでお夕と師匠の二人が出会ってしまった場合、その先にあるのは両者の命をかけた戦である。新兵衛にとって、それは最も見たくない光景であることは間違いない。だからこそ、新兵衛はこのことをお夕に教えないのだ。
あの娘はさぞ怒るだろうねえとお玉は思ったが、彼女の感覚ではその方が楽しそうなので黙っていた。何より主人がそう言う以上、使役されるお玉としてはそれに従うのみである、という事にしておいた。
そして新兵衛は、さらなる準備を始める。
戦もありうることを想定して脇差を差し、さらに護身用の札を何枚か用意する。
新兵衛は武士なので太刀も使えるが、実際の戦いとなれば脇差と札の組み合わせの方が立ち回りやすい。それに今回はお玉も連れて行くので、よほどの相手でない限りは何とかなる。
さらにお婆には急な用事と言って湯漬けを作ってもらい、それを腹に入れる。
新兵衛の様子に、お婆は敏感に何かを感じ取った様子ではあったが、それを口にすることはなかった。
そして新兵衛は、辺りがすっかり暗くなった頃に、指定の場所へと出かけていった。
本来ならば東都の夜は移動が厳しく制限されるのだが、新兵衛は医者という立場もあり、理由さえ話せば移動することができた。
もちろんそれでも通れない所はあるのだが、目的地である西白寺は診療所からも近い場所にあり、その手の心配をする必要は無かった。
途中、何箇所かで見回りの役人に移動の理由を聞かれたときは、西白寺というところで病気で倒れた者がいて、至急来て欲しいと連絡があったという内容の嘘をついた。
この嘘は、実際に西白寺で誰もいなかったとしても、嘘をつかれたと落胆する仕草を見せれば、とりあえず何とかなる。
もっとも新兵衛のことは付近の役人もよく知っていたので、呼び止められても理由さえ話せば、小言一つくらいで通してもらえたのだが。
この辺りは新兵衛に対する周囲の信頼がなしえたものであるといえよう。
そして新兵衛は、指定された西白寺に到着した。
西白寺は打ち捨てられたままの古寺であり、辛うじて本堂こそ残っていたが、それ以外は文字通りの廃墟である。
平和になったのでいずれはここも再建されるのであろうが、少なくとも今の時点ではそこまでの状態にはなっておらず、その予定も聞こえてこない。
不思議なことに、新兵衛の記憶では家を持たぬ者たちがこの境内で隠れ住んでいたはずなのだが、今日に限っては誰もいなかった。
それが偶然の状況であるとは新兵衛も思わない。誰かが何かの手を使って、彼らをここから遠ざけたのだ。
とりあえず新兵衛は、目立つ正面ではなく、本堂の物陰に隠れて、じっと時を待った。
「お玉、周囲の警戒を頼む。何かあればすぐに連絡してくれ」
「あいよ」
お玉の気配が消える。
周囲の喧騒も次第に途切れ、東都全体が静かな空気に包まれる丑三つ時。
石段を上がる足音が聞こえてきた。
「きたよ、旦那」
新兵衛が正門の方を見る。
登ってくるのは二人。恰幅のいい大人と、元服前と思しき子供。
着ているのはどちらも男物。二人とも頭巾をしているので顔はまだわからないが、月明かりがあるので二人の位置は問題なく見てわかる。
「お玉、他に人がいないか確認してくれ。私はあの二人に会う」
そして新兵衛が、ゆっくりと、物陰から出た。
二人もその新兵衛の姿に気がつく。
「それがしをこの場所に呼んだのは、そこのお二方か?」
新兵衛とて、最後の頃とはいえ、戦乱の世を生きた武士である。荒事の一つや二つはこなしてきた。
だからといってこういった状況に慣れているとは言いがたい。手には汗が滲み、戦う前だというのに既に息に荒さが見える。だがそれでも、視線はしっかりと二人のほうを見据えていた。
二人は新兵衛の声を聞くと、ゆっくりと頭巾を取った。
若い男は、やはり少年というべき年齢で、非常に整った顔をしている。どちらかと言うと女顔で、男色が好みの者たちが見れば放ってはおかない、そんな顔だった。
そしてもう一人の男の方は、その顔を新兵衛が見た瞬間、息が止まった。
「師匠!」
それは誰が見間違えることがあろう、榎本良信その人だった。
そんなはずはない、磔になって死んでしまったはず、どういうことだ、いろんな言葉が同時に口から出そうになって、とりとめがなくなって言葉にならない。
「久しいな、新兵衛」
その重い声は、まぎれもない、榎本のもの。
震えて膝をつきそうになるのを、新兵衛は必死に堪えた。
「いや、そんなはずは、師匠、あなたは死んだはず」
「その話は後だ、新兵衛。今は時間が惜しい。必ず説明するので、今はこのお方の声を聞いてほしい」
新兵衛が、混乱しながらもその少年の方を向く。
すでに新兵衛から戦うといった感情は消え失せている。その姿、その声、全てが新兵衛のよく知る師匠のものであり、疑うということがどうしてもできないのである。
「高坂新兵衛殿、それがしは名を日義丸と申す」
それはよく通る、透き通った声であった。
その声に榎本は一つ頷くと、こう言葉を続けた。
「新兵衛よ、このお方の父親は、先の西方関白その人であらせられる」
新兵衛の思考が止まった。
その言葉、その意味が、とてつもない話である事は新兵衛にもわかった。
西方決戦において西方総大将は自刃し、それに連なる西方宗家の人々は、男性は三歳の幼児も含めて全て殺され、一人残った女性は尼となって寺に送られた。
これによって、西方の本家が再興されることはなくなった。
唯一可能性があるとすれば、この尼となった総大将の娘が再び世へと出て男子を産むことであるが、それを許す幕府ではないだろう。
だが、もし、この二人のいう事が事実なのだとすれば。
先の西方関白とは、西方総大将の父親である。
この国で知らぬ人もいないほどに偉大な武将であった彼は、長い戦乱状態にあったこの国を瞬く間に纏め上げ、天下を握った。
彼の死後、今の幕府によってその天下は奪われる事となるが、少なくとも混乱状態にあったこの国を統一したのが誰でもない彼であったことは人々全てが認めるところである。
だが、幕府も含めた世間一般の認識において、先の西方関白の子といえば西方総大将その人であり、ほかの男子は全て元服前に病死してしまっている。仮にいたとしても、その人物は西方決戦後に幕府によって殺されたことだろう。
もしいたとすれば、それが意味することは一つしかない。
「ご落胤、か」
「無礼であるぞ、新兵衛!」
「いや良いのです、榎本殿。高坂殿の言うことに間違いはないのですから」
日義丸の言葉を聞いて、ようやく新兵衛が落ち着きを取り戻してきた。
ご落胤といっても、自称することは簡単である。実際にかつての偉人の落胤であると言った者が、後に嘘だとわかって石を投げられる姿は珍しいものではない。
だが、この日義丸の隣にはあの師匠がいる。
「あの方々の御血筋を名乗るのですから、証拠がもちろんあるという事ですね」
新兵衛の問いかけに、それは予想していたものであったか、二人は揃って頷いた。
「新兵衛、これを見なさい」
榎本が促すと、日義丸が懐から一本の懐刀を取り出した。
そして、その刀を抜く。
「この家紋は、ああ」
新兵衛が呻いた。
見間違えようもない、幼い頃は何度となく見た家紋。
西方宗家の家紋。
もちろん、そんな家紋が刻まれた懐刀などこの世に何本もあるわけがない。
懐刀の家紋は血縁を示すもの、偽物を作ろうものならその関係者は全て死罪である。まして、いまの幕府に滅ぼされた家の家紋が入ったものなど、どの刀鍛冶が危険を犯してまで作ろうと思うものか。
西方宗家家紋が入れられた懐刀、新兵衛が知る限り現存するのは、いま尼寺にいる御方が持つ一振りだけのはず。
だが、もちろんだが、この目の前に居る日義丸はその御方ではない。
「理解したか、新兵衛」
「師匠、このようなものを見せて、それがしに何をせよと仰るのですか」
西方宗家の血を引くという少年と、この懐刀の存在。
この二つが起こす影響がどれほどのものか、若い新兵衛といえど、想像するのは容易であった。
戦乱が、起きる。
「今日この時に、この御方におぬしを会わせたのは、この御方の片腕となってもらいたいからだ」
「それがしを片腕に?」
うむ、と榎本が頷いた。
「西方決戦において落ち延びた者たちの多くは、はっきり言ってわしと同じ年寄りだ。それはつまり、この御方と同じ年頃で共をして守る者がいない事を意味する」
「し、しかし」
「おぬしは、勘定方として西方総大将より全幅の信頼を得て、西方決戦において裏方ながらその人ありと知られた男の息子だ。この御方の片腕として申し分はない」
話の大きさに愕然となったままの新兵衛に、日義丸が近寄った。
「高坂殿の事は榎本殿よりよく聞いております。高坂殿ほどの人物が我が力となってくれれば、西方復活もそう遠い日の事ではないでしょう」
その口調は、目上の人間のそれではなく、あくまで対等な視線の丁寧なものであった。
新兵衛は呆然としながら日義丸の顔を見たが、次の瞬間、ふとその姿に何かの違和感を覚えた。
年のころは元服前であるが、背格好が全体的に小柄で、どこか丸みを帯びた体つきをしている。
東都に来て、様々な人々を間近で診察してきた経験が、何かが違うと新兵衛に訴える。
だが、その疑問が何なのかをはっきりさせる前に、榎本が次の言葉を発してきた。
「今日はこの日義丸様との顔合わせ、詳細は次の時にまた伝える」
「師匠、次とはいったい」
問いかける新兵衛に、だが榎本はそれを無視して言葉を続けた。
「そういえばお志乃殿はまだご壮健か?」
「あ、はい、病気一つなく、今日も元気に診療所の手伝いを」
「うむ、それはよかった。本日使いの者から渡された銀貨があっただろう、あれで良いものをお志乃殿に食べさせてやってくれ。それと新兵衛、明日になったらあの診療所を閉めて密かに潜伏せよ。吉原に新町恵比寿屋という店があるので、そこで私の名前を出すといい。そこの主人が匿ってくれる手はずになっている」
その内容に、新兵衛ははっとして、榎本の方へと近寄った。
「師匠、それは!」
「本来であれば診療所を拠点としたかったが、奉行所の者たちに目をつけられてしまっているようでは危なくて使えぬ。おぬしも動くのに不便であろう」
「いえ、違います!診療所を閉めてしまったら、明日から治療を行う者が誰もいなくなってしまいます!」
その言葉に榎本は驚きの表情を見せた後、穏やかな顔となって新兵衛の肩を叩いた。
それは、かつて新兵衛がよく目にした、診療所で患者達に優しく接していたときの師匠の顔そのものであった。
「しばらく見ない間に立派になったな、新兵衛」
師匠、と新兵衛が言葉にならない声を出す。
「目の前だけでなく、周囲の状況と己の責任をきちんと見据える心、よくぞここまで成長した。苦しい事も多かったであろうに」
そして榎本の顔が、引き締まったものになる。
「それほどの男だから、わしはおまえをこの御方の片腕として推挙したのだ。あの診療所の事はこちらからも考えておこう。だから今は」
「まずいよ旦那、岡っ引きの集団が来た!この寺の周囲全部包囲されてる!」
その途中、お玉の悲鳴にも似た声が新兵衛の脳内に響き渡った。
その声は榎本にも聞こえたのか、その顔に苦いものが走る。
「その声はお玉か、むう、奉行所がこれほど早くとは。新兵衛のこと、尾行されたか。やはり侮れんな」
「え、榎本殿!」
荒事にはさすがに慣れていないのか、うろたえる日義丸に榎本は一つ頷いた。
「日義丸様はわしの近くに。新兵衛、おまえは大人しく奉行所に捕まっておけ。その方が手間が省ける。お玉はわしが預かっておこう。あとで送り届けるから心配するな」
「あ、旦那の師匠!ちょっと、え、きゃあ!」
ぱぱっと榎本が何かの札を空中で振ると、周囲からお玉の気配が消えたのが新兵衛にもわかった。
「師匠!」
「いずれ我が手のものが新兵衛のいる牢屋へとやってきて開放してくれよう。それまで静かに待つのだ」
そして、榎本は懐から何枚かの札を取り出した。
そのとき、どこからか御用だと叫ぶ岡っ引きたちの声が聞こえてきた。榎本が振り向くと、御用提灯がいくつも夜の闇に浮かび上がっていた。
「ではまた後で会おう、新兵衛。なに案ずるな、そう遠い先の話ではない」
そう言って、榎本は札を天にばら撒いた。
すると次第に榎本と日義丸の姿が薄れ、そして見えなくなった。
札術の一つ、隠遁である。
その見事な術に思わず新兵衛は見とれるが、増えていく人の気配にはっとなった。
すでに新兵衛は周囲を完全に包囲されていた。
「この夜中に怪しい奴、大人しく縄につけ」
榎本達二人は、すでに気配すら感じられない。
隠遁の札術は姿を隠すだけの技なので、足跡や気配までは隠せない。だがもう新兵衛には二人がどこへ逃げたのかまったくわからなかった。
つまるところ、新兵衛は完全に囮となってしまった訳だが、最初から最後まで混乱しっぱなしの新兵衛にはそれに気がつく余裕はなかった。
「おいお前!返事しろ!むう、物の怪に魂でも抜かれたか?ええい、ひっ捕らえろ!」
何名かの岡っ引きが、新兵衛の腕に縄をかける。
新兵衛は抵抗しなかったというよりも、その力も消えうせてしまっていたため、岡っ引き達は新兵衛が素直に命令に従っているものと思ってそこまで乱暴にはしなかった。
「さてと、他にもいるという話だったが、おい、他のはどうした?」
それが、榎本と少年の事であることは新兵衛にも理解できた。
だが、榎本はかつて一度奉行所の手によって磔にされたはずの人物であり、そして少年に至っては先の西方関白のご落胤、普通であればとても信じられるような内容ではない。
それに、師匠の事はもちろん、かつて自分の親が仕えた家の血を引いているかもしれない少年を岡っ引きなどに売るような真似は、武士としてできる話ではない。
「いるはずがない、ここは私一人だった」
「おい、嘘をつくと、ん?」
「いたとしたらそれは亡霊だ。周囲を見よ、打ち捨てられた寺、何がいても不思議ではあるまい」
ざわ、と精強なはずの岡っ引き達の間に動揺が走る。
廃墟の寺、そして一人残された憔悴した武士、怪談話としては十分である。
「ちっ、仕方ない、おいこいつを奉行所の牢屋に入れておけ。他は周囲の調査だ」
そして新兵衛は、岡っ引き達の手によって奉行所へと連行された。
寺から出る前、新兵衛はふと後ろを振り返った。
岡っ引き達を騙すために言った、亡霊という嘘。
だが、と新兵衛は思う。
あれは本当に亡霊だったのではないか、と。
榎本は後で新兵衛に向かえをよこすと言った。
それは地獄へと導く亡者なのではないか、と。
人払いがされた部屋。
上座に座る初老の男を前に、お夕は身動き一つせず、言葉を待った。
「見事である」
南町奉行である小野田備前守重時は、静かに彼女をそう評した。
「有難き幸せ」
「この報告によって、西方浪人達がこの東都に入り込んでいることは明白となった。日の丸橋にいた男という話も、ひょっとすると、西方においてその名を轟かせた名医にして軍師、榎本良信かもしれん。あの男は札術の実力者、札用の紙を買い占めていたとすれば納得できる」
お夕が行った報告では、西方浪人が入り込んでいることを確定する情報は無かったはずである。おそらく他の同心達が集めた情報とあわせて、この男は判断したのであろう。
「しかし備前守様、その男は以前に磔となったはずでは?」
「確かに。だがあの時に磔とされた男は、病気で髪の毛は抜け落ち、痩せ衰え、人相までも変わっていた。本人を名乗ってはいたが、一見すると別人にしか見えなかった」
まさか、とお夕が小さく驚きの声を上げる。
だがそうなると、新兵衛の態度に矛盾が出る。
師匠の事に怒る新兵衛の姿は、お夕の目からはとても芝居には見えなかった。
「あの頃、改易で仕える家を失った浪人共が、反乱を起こすために旗頭として榎本を立てようとしていたことは、当時の調べから分かっている。幸いそれは榎本を磔とすることで未然に防ぐことができたが、今にして思えば、影武者を立てられたのかもしれんな」
「潜伏して体勢を立て直すために、ですか?」
「うむ。あの日以降、不逞な浪人共や西方の武士達の動きが極端に鈍くなったので、彼らの企ては阻止され、あとは時が平和へと導いてくれるものと思っておったが」
だがこれがもし、西方にその人ありと言われた人物が仕掛けた策の一つであり、奉行所の目を完全に欺いて裏で自由に活動を行っていたのだとすれば。
それがどれほど危険な状況なのか、言われずともお夕にはよくわかった。
「備前守様、いま西方浪人達はいかほどの数が?」
「五十から百、数だけで見れば微々たるものであるが、さりとて油断できる数ではない。中にはいくさ場で手柄を立ててきた剛の者もいるだろう」
もちろんの話だが、いまの幕府とて武をもってこの国を平定した組織である。平和が訪れてからそれなりに経過しているとはいえ、かつての戦を知る武士たちはまだまだ多くが健在である。
その中で五十や百という数は、幕府から見れば小さな虫にも等しい存在である。
だが、虫と侮っても、中には巨獣を死に至らしめる猛毒を持つものもいる。
その危険性を、この備前守はよく理解していた。
「お夕よ、おまえは引き続きあの高坂という若い侍を見張れ。手段は問わない。もし榎本良信が生きていたという証拠を得た場合は、急ぎ連絡せよ。そして、できるのなら、あの男が狙うものが何なのかを調べよ」
「狙いとは、西方浪人が狙うのは火付けによる東都の混乱ではないのですか?」
「これが何もわからぬ無学の浪人が相手であれば火付けを疑ったであろうが、相手があの榎本良信であるというのなら、あの男なら火付け程度ではこの幕府を倒せないことくらい理解しているであろう。かならず何か別の、もっと大きな目的があるはずだ」
その言葉に、お夕はふと一つの疑念を抱いた。
「備前守様、榎本良信をご存知で?」
うむ、と備前守が頷いた。
西方決戦時、戦の勝敗はすでに最初の時点で決していたと言われていた。
装備、練度、兵力に至るまで、すべてにおいて幕府軍は西方を圧倒していた。
もちろん、西方も可能な限りの将兵と物資を集めた。短い時間で一年以上は戦えるだけの兵糧を集め、勇将と呼ばれた者たちを数多く呼んで味方とした。
だが、全てが届かなかった。
何より致命的と思われたのは軍師の不在である。
数は多くても連携が取れぬ軍など所詮烏合の衆、幕府軍は彼らをそう侮った。
だが、いざ戦が始まると、巧妙な連携によって次々と討ち取られたのは西方ではなく幕府の将であった。
西方に軍師あり。
その時初めて、幕府の将達はその事を知ることとなった。
だが、誰が軍師となったのか?
幕府の将達は必死にその存在を探した。
しかしその名は一向に知れず、全体としては幕府軍優勢ながら、攻めきれないどころか時として手痛い反撃を受けることがあるという有様であった。
そんな時、幕府軍の間で西方の軍師ではないかと噂された一つの名があった。
「それが、まさか榎本良信であると?確か伝え聞くところでは、その男は治療を行うことはあっても戦うことはなかったと」
「そこよ。確かにあの男は戦わなかった。だが、西方総大将に、日々刻々と変わる戦況から策を逐次献上できたのは、日々の検診を行っていたあの男だけなのだ。そしてもし榎本が西方側の軍師であったのだとすれば、その才覚はまさに天下一品」
結局、兵力の差にものを言わせて幕府軍は西方を破り、その天下を握った。
だがその決戦において幕府軍が被った損害、失われた将兵の数は夥しいものがあり、後の苛烈な落ち武者狩りへと繋がっていくことになる。
「西方決戦の後、捕えた榎本を殺すべしという意見は幕府内でも多かった。だが榎本が軍師であった証拠は最後まで見つからず、助命嘆願もあって今に至るのはそなたも知っての通りだ」
備前守の語る榎本の姿に、お夕は言葉もなかった。
この事を新兵衛ははたして知っているのだろうか、そんな思いがお夕の胸をよぎる。
僅か数日の間、新兵衛とは共にいただけであるが、そこから感じられる榎本への感情には、医者や札術士の師としてのものはあっても、軍師としてではなかった感じがある。
「よって今回の件、恐ろしいのは西方浪人ではない、一番に警戒すべきは榎本良信かもしれん。奴を死人と思うな、生きていると思って対処するのだ」
「はっ」
そうなると、鍵となる人物は新兵衛達をおいて他にはいない。
備前守への報告の後、お夕は一人、今後の対応について策を練った。
いずれにしても、まずは新兵衛の信頼を得る事が第一である。ここ数日でそれなりに打ち解けたとお夕は思っているが、もし事件が最悪の展開を見せた場合に、新兵衛がお夕の味方となってくれるかは、自信はない。
ただ、西方浪人達の目的がっ火付けであるのなら、新兵衛はお夕の味方になってくれる感じはある。火付けによって被害を最も被るのは、幕府ではなくその地に住む町民達であるからだ。
だが、お夕の上司である南町奉行の備前守は、彼らの目的は果たしてそこなのかと疑問を抱いている。
西方浪人達の目的。
お夕は誰もいないところでため息をついた。
簡単に考えるのであれば、西方浪人達が新兵衛と接触したところで、新兵衛を篭絡してその内容を聞いてしまうという手がある。彼女も知るくノ一などは、躊躇い無くその手段を取るであろう。
だが、とお夕は心の中で真っ赤になりながら思う。
篭絡するということは男と女の関係になるということで、しかも任務のためにそれを行うというのは、彼女を保護し支えてくれた人々に対してあまりに無責任ではないかと思ってしまうのである。
もちろん、これは新兵衛の事を蔑ろにしているわけではない。
任務ではなく、ただの知り合いとして出会っていたのなら。
お夕はまたため息をついた。
この思考はもはや無意味である。お夕は任務のために新兵衛に近づき、よき友人として一つの関係を築き上げている。いまはこの流れを大事にすべきだろう。
新兵衛の傍らにいた狐の妖怪はそんなお夕の関係を鼻で嗤ったが、いくら半分ほど人ではない存在であるお夕から見ても、この国の妖怪は奔放に過ぎる。もう少し夫婦になること、子を成すことの意味を真剣に、真面目に考えるべきだ。
そういった意味では、お夕に対し一定の距離と節度を守っている新兵衛には、お夕は悪い気を持っていない。
お夕とて、任務のためとはいえ独り身の男の部屋に入り込んで、しかも夜には隣で寝ることの意味はわかっており、その辺りおそらく我慢しているであろう新兵衛には、少しだけだが、悪い事をしているという思いはあった。
いや、いっそ襲い掛かってくれたほうが感情的には楽だったかもしれない。
そうすればお夕は新兵衛を軽蔑して道具とみなすことができるし、なにより男性のその邪な感情を利用するのはお夕にとって容易いことである。
そう、なまじ新兵衛がお夕の言葉を使えば紳士であるから、悩むのである。
罰なのかもしれない、この感情についてお夕はたまにそんな事を考える。
体つきから目の色、髪の毛に至るまで、この国の女性とはまったく異なる外見を持っているお夕。
生まれた国を追われ、様々な国の船に乗って逃亡の日々を送った彼女。
幸い船旅のほうは、もとが水の力を司る竜の血を引いているということで、乗った船は平穏無事に目的地へ到着できると宣伝して乗せてもらうことができた。
実際に彼女の乗った船は全て大きな事故や悪天候に見舞われることなく目的地に到着しており、船員達からはぜひ船に残ってほしいと何度も懇願されたものである。
だが、お夕はそれでもさらに遠くへと逃げる必要があった。
暗殺者や呪いの妖怪の影に怯えながら、そして彼女はこの国にたどり着いた。
幸運だったのは、到着してすぐにお夕はその地の実力者と会うことに成功し、自らの持つ知識を権力者達に売ることができたことである。
外の国の情報に飢えていた幕府は、お夕の持つ情報を高く買った。
だが、それはもう一つの面を持っている。
お夕は自分の生まれた国について、極秘とされる内容や醜聞に至るまでの詳しい情報を幕府に売った。それは情報の世界から見れば、一つの裏切りである。
この国にたどり着いた頃はまだ幼かったためにその辺りをよく理解していなかったが、成長して周囲の状況が見えるようになった今は違う。
暗殺者を差し向けられるような関係とはいえ、母国は母国である。
彼女を守護する精霊達に言わせれば、そんなものは気にしすぎであって、お夕を殺そうとする連中に対する義理など感じるのも間違っているというのだが。
それでも母なる国に不義理を働いてしまったのではないかと思ってしまうのが、お夕という女性であった。
とりあえず遅くならないうちに診療所へ戻ろうとしたお夕だったが、ちょうどその時に十数名規模の大喧嘩を仲裁して怪我をした岡っ引き達の治療を頼まれてしまい、戻ったのは日も落ちかけた頃であった。
「おや、お夕殿、遅かったね」
本日休業の札を不思議そうに眺めるお夕の姿に、それに気がついたお婆が声をかけた。
「ただいま戻りました。お志乃殿、これは?」
「ああ、お坊なら、何か急ぎの用事ができたとかで、さっき慌てて出ていったよ」
「そうですか。こんな遅くに、何の用事でしょう?」
「さてのお?なにしろ大慌てでな、それしか言わずに走り去っていきおった」
お夕の背筋に冷たいものが走った。
遅くの時間に、親代わりと言っていいお婆に詳細を告げずに、用事と言って走っていく関係者。
これを怪しいと直感できなくては、同心失格である。
お夕は、さっき聞こえた時刻の鐘から、新兵衛が行ける場所を考える。
「お志乃殿、高坂殿はお一人で向かわれたのですか?」
「うむ、それがどうかしたのか?」
お夕は顔を上げた。
「ちょっと私も出かけてきます。もし戻らなかったら、近くの奉行所で宿を借りたと思って下さい」
「なぬ、お、おい?」
そしてお夕は駆け出した。
杞憂であってくれればそれで良いが、もし新兵衛が西方浪人達と接触して、呼び出されたのだとすれば。
いや、新兵衛がその件を誰にも告げず、呼び出しに応じるとすれば、その主は誰か。
さらに、お夕がいなかったこの時に新兵衛が呼び出されたのであれば、その意味は。
全てが悪い方向への想像と繋がっていく。
それぞれの町を繋ぐ門には、通行を監視する門番がそれぞれ立っている。
もちろん彼らが全ての通行人の状況を把握しているわけではないが、新兵衛はこの辺りではそれなりに有名人なので、その門を通っていれば覚えている可能性は高い。
だが、お夕が訪れた門の門番達は、誰も新兵衛を見ていないと言った。彼らの言葉に間違いがないとすれば、新兵衛はそれほど遠くへは行っていない。付近の見回りをしている者達に聞けば何かわかるかもしれないが、もうすぐ夜となり、彼らを探す時間も惜しい。
門番達には新兵衛を見かけたら覚えておいてほしいと伝え、お夕はその足で西町の奉行所へと向かった。
西町奉行所は、大きな街道の関所近くに建てられている。
その存在は治安のためというより、街道を通ってくる敵対勢力への関門という意味合いが強く、奉行所には高い塀や櫓が建てられて、万が一の際に備えていた。
「南町の同心、お夕殿ですか。西町奉行所に何用でまいられましたかな?」
奉行所を守る西町の同心が、お夕の突然かつ尋常でない時間での訪問にも関わらず、快く通用口を開けて彼女を奉行所内に通した。
「どなたか、西方浪人の件で対応されている方はいらっしゃいませんか?」
「西方浪人ですか。ええ、ここの者たちはある意味全員その関係にあります。その様子ですと、何かありましたか」
西町同心の顔に緊張が走る。
西町奉行所は、地理的に最も西方浪人と関わる最前線であるため、彼らに対する警戒感は東都でも一番といってよい場所である。
お夕と話をしつつ、その同心は他の者たちを呼ぶよう、近くにいた者に声をかけた。
「西方浪人の件で見張っていた者がいたのですが、その者が先ほど、何者かに呼ばれてこの時間に外へと出て行きました。いま、私はそれを追いかけておりまして」
「その男の名は?」
「高坂新兵衛殿にございます」
あの男か、と西町同心が納得した。
新兵衛の診療所は西町同心達の管轄なので、この男も新兵衛のことはよく知っていたのである。
もちろん、新兵衛の師匠の事や、彼らがどこから来た者たちなのかという情報も、西町の奉行所はきちんと把握していた。
「何もなければよいのですが、もし高坂殿が西方の何者かに呼ばれたのだとすれば」
「一大事、ですな」
西町同心はすぐに町周辺の地図を持ってこさせた。
「町境の門にいた者たちには、この件、話されましたか?」
「はい。彼らは高坂殿を見ていないと言っていました」
「ふむ、ということは、町のどこかにいるという事か」
地図を見ながら、西町同心が唸った。
町ひとつと言っても、その範囲は広い。また、この界隈は貧しい者たちが多く、彼らが住むあばら家はこの地図に記載されていないので、ここに隠れられるとすぐに見つけるのは困難である。
「松浦殿!いま連絡があって、例の見張っていた浪人の家で動きあり、他の町にいた西方の浪人たちがこの西町に集まっている模様」
「なんと!」
松浦、と呼ばれた西方同心が驚きの声を上げた。
「これはいったい、何が始まっているというのだ」
「松浦、急ぎ各所に検問を設けよ。岡っ引きの組を交代で巡回させ、西方浪人の動きを止めるのだ」
「出雲守様!」
西町同心や、その周りにいた者たちが、出てきた男に頭を下げる。それを見て、お夕もその男に頭を下げた。
西町奉行、稲田出雲守政次である。
「南町のお夕といったな」
「はい、出雲守様。南町奉行所のお夕でございます」
「うむ、備前守どのから話は聞いておる。外の国の生まれと聞いていたが、なるほどな。まあ安心するがよい、この西町において西方浪人どもに好き勝手はさせん」
そして出雲守が地図の何点かを指差した。
それはどれも、打ち捨てられた寺社や小屋がある場所だった。
「古来より密会の場となれば、こういった場所が常であろう。忍びを使ってこの場所を見張り、もし何かあればすぐに手勢で包囲するのだ」
「はっ」
「あと、誰かそれがしの具足を持ってくるのだ。いざ戦とあらば一番槍となって蹴散らしてくれようぞ。はは、西方決戦のときの情景が思い浮かぶぞ!」
「な、なりません!西町を預かるお方に万が一があれば!」
「なにを言うか!このわしが浪人どもに遅れをとるなどありえん!」
そんな光景を眺めながら、お夕は心の中で、新兵衛が見つからないことをどこかで望んでいた。
実は急患の知らせがあって出かけていたのだ、そう新兵衛が明日になって笑って言ってくれることを願っていた。
だがその願いは、非情な現実によって打ち砕かれることになる。
真夜中、新兵衛が捕縛され牢屋に入れられる新兵衛の姿を、お夕は奉行所で見ることになるのであった。
薄暗い牢屋の中で一夜を明かした新兵衛は、未だ夢の中にいた。
自分のこと、師匠のこと、そしてあのご落胤のこと。
僅か数日の間で急転する自らの状況に、笑うことさえもできない。
捕まる直前、新兵衛は師匠達のことを亡霊と言った。
それは岡っ引き達の追求から師匠達の存在を誤魔化すために言ったものだが、今となっては二人は本当に亡霊だったのではないかと思ってしまう。
だが、このままで終わるはずがない。
いずれ、奉行所の手による過酷な取調べが始まる。
師匠は奉行所で待てと言ったが、そこまで持ちこたえられるのか。
師匠のこと、ご落胤のこと、どれも話せば大事である。話せば、幕府は間違いなく武装した軍勢を二人に差し向けるだろう。そして二人は殺される。この国の平和のために。
だが、新兵衛はここで二人のことを守れる自信がまったく無かった。
黙秘を貫こうとする新兵衛に同心達は遠慮なく厳しい拷問を行い、情報を得ようとするだろう。
新兵衛も医者の端くれであるから、人が拷問に耐え切れないことはよく知っている。このままでは自らの自白によって、あの二人は幕府に殺される。
もし今ここで自らの命を絶てることができたら二人を守れるのではないか。思わずそんな事を新兵衛は思ってしまう。
そんな時、日もそれなりに昇ってきたと思われる頃、新兵衛のいる牢屋に近づく足音が聞こえた。
来たか、だが新兵衛はその足音をただ無感動に聞いていただけだった。
「高坂殿、食事です」
ここ数日よく聞いた、澄んだ声。
新兵衛の意識が一気に覚醒する。
それは、お夕の声だった。
「あ、ああ」
新兵衛が牢屋格子の向こうを見る。
確かにお夕である。
いつもの法衣に頭巾を被り、手に持った皿には玄米飯と汁物がある。
お夕は静かに、その食事を牢屋の中に入れた。
「いろいろ話すべきこともありますが、今はまず腹に力を入れられるが良いかと」
様々な言葉、感情が吹き出そうになるが、新兵衛はそれをぐっと堪えた。
そして、ゆっくりと、少しづつ玄米飯を口の中に放り込み、噛み砕く。
暖かい汁物を啜り、一つ息をする。
「奉行所の者たちから、その時の状況は聞きました」
新兵衛の体に緊張が走る。
「亡霊にあったと言ったとか。奉行所の者は何のことかわからなかった様子ですが、私にはわかります。お会いになられましたね?」
視線を、新兵衛はお夕から逸らした。
具体的な名前を出さずとも、それが誰のものなのかがわからぬほど、新兵衛は愚鈍ではない。
何か悪いことをしているという意識はないのに、なぜか、新兵衛はお夕の顔をまともに見れなかった。
その態度が、お夕の言葉が真実であると無言で伝えたに等しかった。
そんな新兵衛の姿を前に、まるで夫の浮気を咎める妻のような姿だとお夕は思ったものだが、今の場面でそれを笑うほどの余裕はなかった。
「奉行所は、その方が生きていると見ています」
その一言は絶大であった。
新兵衛が牢屋の格子に、まるで衝突するかのように顔を寄せる。
「奉行所は、その方が頭目となって西方浪人達が何かをたくらんでいると、火付けなどではなくもっと大きな何かをしようとしていると見ています」
それはお夕が南町奉行の備前守から聞いた内容を口にしただけであったが、新兵衛からは奉行所が全てを知っていたと思うに等しいものであった。
「何を、その方は言われましたか?」
何も言われていないと嘘をつこうとして、ふと、新兵衛はあの時の事を思い出した。
言われたのは協力せよ、配下になれ、潜伏しろといったもので、そういえば具体的に何かをしろと言われたわけではなかった。
ひょっとしたら榎本が詳しい内容を言おうとしたそのときに奉行所の岡っ引き達がやってきてしまったのかもしれないが、今となってはそれもわからない。
新兵衛は少し考え、とりあえずご烙印のことは伏せて話すことにした。あの少年の件は存在が大きすぎて、下手に扱えば無用の混乱をもたらすだけと思ったからである。
それに、いずれにしてもある程度の話は奉行所の知るところとなっている。だとすればここで我を張っても無意味であろう。
「師匠は、私に協力せよと仰られた」
「やはり」
「そして診療所を閉めて、どこかに潜伏せよ、と」
お夕は頷いた。
ここまでは十分に予想できる範囲。
問題はこの先である。
榎本良信は何をしようとしているのですか?
それを問おうとしたお夕は、だが、その一言を出す事ができなかった。
打ちひしがれる一人の若い武士を前に、それ以上の追求ができなかった。
ある意味、それはお夕の、同心としての限界であったのかもしれない。
代わりにお夕は別の言葉を出した。
「帰りましょう、診療所へ」
え、と新兵衛が顔を上げる。
全てを洗いざらい白状するまで、診療所へは帰れないものと思っていたからだ。
「亡霊というのであれば、そのようなものの妄言に惑わされてはなりません。高坂殿には診療所にて多くの方々が待っています。私と共に診療所へ戻り、その方々を救う使命が、高坂殿にはあります」
新兵衛の表情に迷いの色が浮かんだ。
榎本は言った、この奉行所で待て、と。
だがこのまま奉行所で待っていたら、過酷な取調べと臭い飯が待つという暗い未来しかない。
それに、お夕の言う通り肝心の診療所の問題は片付いていない。榎本は何とかすると言ったが、それがいつになるのかまったくわからないし、今日この時に診療を求める人々に背を向けるような行動を、新兵衛はどうしても取れなかった。
迷う新兵衛の表情に気がついたか、お夕が新兵衛の手を取った。
お夕の手は、緊張からか少しだけ震えていた。
「私と共に帰るという事であれば、高坂殿はこの牢屋から出れます。同心である私が言うのですから、間違いありません」
そうお夕は言ったが、実はお夕は一つだけ新兵衛に隠し事をしていた。
幕府も法によって動く存在である以上、証拠のないものを牢屋に入れたり拷問するなどといったことは、表向きはできない話となっている。
あの夜、新兵衛と榎本が会ったその場面を奉行所の誰もが確認できなかったのは致命的であった。廃墟の寺で真夜中に一人震える若侍がいただけの話では、証拠にはならない。
それに、依然として榎本が何をするつもりなのか不明である以上、最終的には新兵衛を解き放って泳がせる必要が出てくる。つまり、新兵衛が拷問の恐怖に怯えていたのは全くの杞憂だったということである。
残る問題があるとすれば、開放するという事への奉行所の面子だけ。
そしてそれは、新兵衛を泳がすと同時に見張るためとしてお夕がこの牢屋から連れ出したことにすれば、全ての話はお夕が所属する南町奉行所のものとなり、西町奉行所は何の関係もなくなる。
「帰りましょう、診療所へ」
もう一度、お夕はその言葉を繰り返した。
手に伝わるお夕の体温が、鼻に香る涼やかな水辺のような匂いが、新兵衛の心を崩していった。
「わかった、診療所へ戻れるのであれば、戻ろう」
「はい、高坂様」
「ただ、今日は休みたい。疲れたよ」
「わかりました。大丈夫です、私がついています」
お夕は立ち上がり、外で待機していた者に一つ二つと指示を出した。
そして最後に一言、その男にこう言った。
「後ろを尾けてくる者がいないか、必ず確認して下さい。もし怪しい者がいたら、わかりますね?」
その表情は鬼気迫るものがあり、その男はただ黙って頷くだけだった。
正念場が、近づいていた。




