第二章 東の都
高坂新兵衛は不思議な男である。
病や怪我で困り果てる人々の治療に精を出す彼の姿を眺めながら、お夕はそんな事を考えていた。
今回の西方浪人の件を新兵衛に話すにあたり、お夕は当初、その時には激怒した彼によって外に蹴り出されて、塩を撒かれるのではないかと思っていた。
それだけの無礼卑劣な話を持ち込んだことは、外の国出身のお夕であっても十分に理解していた。
なにしろお夕は、新兵衛から見れば師匠を捕らえて磔にした憎き奉行所の仲間である。
たとえお上がその治安維持のために行った事とはいえ、人の感情がそう簡単に片付くものではない。
そして今度は新兵衛に対しても公儀は疑いの目を向けた。火事の事件があったのは事実だが、新兵衛にしてみればどこまで自分を疑えば気が済むのかと思ったことだろう。
だが、新兵衛はそんな彼女を受け入れた。
確かに彼は師匠の件に触れたときに明らかな怒りをお夕に見せた。だが、その怒りは言葉と表情だけで、決してお夕にその手を出したりはしなかった。
むしろその後はお夕の行いなどを心配さえしてきた。
まじめなお人よし。
それは、お夕が知る、西方決戦の地獄を生き抜いてきた者たちの姿からはかけ離れたものである。
いや、それどころか、手柄首を求める武士の姿ですらないかもしれない。
それとも平和になった今ならば、いずれはこんな武士が多くなるのだろうか。
だとすれば、そんな人物を利用して西方浪人の企てを暴き、自らの手柄にせんとする己の所業は、果たして正しいものなのであろうか。
「旦那かい?いい男だよ、あれは」
ある日の早朝、新兵衛が使役する狐妖怪のお玉が沸かしたお湯を使って体を拭かせてもらっていたお夕は、彼女にその主人への印象を聞いてみた。
「なよっとしてるけど、奥底はどろどろさね。根は善人なのに、いろんなものを抱えて真っ黒けっけさ」
「妖怪好みというわけですか」
それは決して褒め言葉ではない。
一般的に、女性の姿をした妖怪は破滅的な罪を背負う人間の男性に強く惹かれる性質があると言われていた。
「あんたも惚れるんじゃないよ、旦那はあたいのだからね」
「色恋に興味はありません」
「はは、言うねえ。まあ夜を共にして何も無いのなら、その程度なんだろうけどさぁ」
にたり、とお玉が嫌らしく笑う。
「女と見れば襲いかかるような、獣のようなお人ではありませんでしょう、高坂殿は」
「おやおや、果たしてそうかねえ?まあそう見えるのなら、あんたもその程度の女ってことだろうねえ」
その言葉に思わずむっとするお夕だが、人と違う価値観で生きている妖怪の評価などにいちいち反応するのも疲れるだけである。
「ところであんた、自分の事は旦那に言ったのかい?」
「外の国の出身であることは言いました」
「ああ、そうなんだ。いや、そうじゃないさね。水妖だろう、あんた?」
ぴく、とお夕の眉が動く。
「まあ人の匂いもするから、半分くらいかねえ」
「妖怪、何者ですか、貴女は」
ざわりと雰囲気が変わるお夕の姿に、お玉は肩をすくめた。
「ただの妖狐の末席さね。安心しなよ、あんたが旦那を害さない限りは、あたしは何もしないよ」
その時、扉の外から新兵衛の声が聞こえた。
湯浴みはまだ終わらないかと、そんな内容だった。
「西方浪人達の企てを阻止できれば、ひいてはそれは高坂殿の無事にも繋がる話です。それは貴方の望むものと一致すると思いますが」
「そうだといいがねえ。ほら、旦那が呼んでるから、さっさと片付けな。ぐずぐずしてると、そこの扉を開けて旦那にその素っ裸見せちゃうよ?」
そして新兵衛の事をよく知るもう一人、新兵衛がお婆様と慕うお志乃は、新兵衛をこう評した。
「可愛い孫じゃ」
それは関係であって評価ではないとお夕は言いかけたが、お婆が言葉を続けるのを見てそれを止めた。
「それ以上でもそれ以下でも無い。あの子はこの婆の孫じゃ。この末法の世にして、御仏が慈悲でこの婆に見せてくれた幸せな姿じゃ」
だが、とお夕は心の中で言葉を続ける。
高坂家のうち、新兵衛の両親と兄、そして祖父母は西方決戦時に命を落とし、唯一の肉親として残された妹も、その一年後に避難先の尼寺で病死したはずである。
つまり、このお婆は、新兵衛の祖母ではない。
「昔の高坂殿はどうだったのですか?」
「昔か、剣術はあまり良くなかったようじゃが、聡い子ではあったぞ。あの父にしてこの子ありと思ったものじゃ」
お婆が、昔を懐かしむかのように遠い目をする。
そうですかと言いながら、お夕が目を細める。
どのような人生を歩んできたのであろう。ただ、その深く刻まれた皺から、決して容易な人生でなかった事は想像に難くない。
それでいて気がつくのは、このお婆の知性と教養。
様々な作法を近所の子供たちに教え、遠い国の故事を引き合いに物事を表現する。
その知識は間違いなく町人のそれを遥かに超えている。
「榎本殿と高坂殿の関係はどんなものでしたか?」
「師と弟子がお互いを気にかけ、尊敬しあうのは、一つの幸せな姿じゃろうて」
つまり、二人の関係は良好であった、と。
「しかしおぬしも不思議なお人じゃの。西方の者たちの件で我らを怪しむのは無理もない事くらい、この婆にもわかる。ならば隠れて連中が接触するのを待って、ここにいる全員を含めて一網打尽にすればよかろうに」
「それではこの診療所を頼りにする人々を見捨てることになります」
「それが不思議というのじゃ」
お婆が笑う。
確かにお婆の言う通りだ。
あくまで幕府と東都の安寧を最優先として考えるのであれば、火種となるもの全てを排除するというのは効果的かつ確実な解決手段であり、実際に奉行所はその手法でもってこの都の治安を守ってきた。
このため、この事件に関する全ての憂いを絶つのであれば、お婆の言う通りこの診療所の人々も含めて全ての関係者を一網打尽にしたほうがよい。治安維持を第一と考える多くの同心達は疑いなくその道を選ぶだろう。
取り残される貧しい人々のことなど気にする事もなく。
だが、お夕の視線は新兵衛達だけでなく庶民や貧しい人々にも注がれており、社会全体としての平和を望んでいる。
もちろんそれは素晴らしい考え方であるが、それを聞いて彼女に同心としての適性は無いのではと思う者も少なくないだろう。むしろ彼女の仮の姿である僧侶の考え方に近い。
だが、お夕の考え方が同心のそれでないとしても、この診療所にとってありがたいものであることは確かである。
「しかしお坊のこと、よう気にかけるのう」
「相手を知らなければ、協力も何もないと思っております」
「ふむふむ、なるほどのう」
嬉しそうに頷くお婆。
少なくとも協力の意思があるという事は、それはお夕が新兵衛を守るべき対象として見ている事を意味する。
東都という、西方出身者にとってはいわば敵地であるこの場所で、その彼らを守ろうと思う人がいるというのは、やはり嬉しいものである。
「ほんに、榎本殿の時におぬしがいてくれたらのう」
その言葉に、お夕は何も言わなかった。
榎本良信、新兵衛の師匠であり、西方家の重鎮にして時の天下人や西方総大将から絶大な信頼を得ていた医学者。
医学や札術、果ては兵法にまで精通し、数多くの武将達から軍師にならないかと誘われていたほどの人物である。
西方陥落時に捕縛された際には、重要人物の一人として他の西方武士達と同じく殺されていてもおかしくなかったが、軍事には一切関わらず人々への救済のみを行っていたために、命だけは許された。そして新兵衛やこのお婆と共に東都へとやってきて、今度は貧民相手の診療所を開いた、人々からは仏のように慕われた男。
そう、伝えられている男。
お夕が見た奉行所の調査書によれば、浪人となった西方の武士達に職をあてがい、仕官できそうな所があれば紹介するなど、西方の影響力を今に残す要因となった人物とされている。
奉行所の忍び達が密かに行っていた西方浪人への離間策を見抜き、彼らに深刻な影響が出る前にそれを防いだことにより、奉行所はこの男を殺す事を決断し、それはすぐさま実行に移された。
些細な罪を反乱の容疑まで仕立て上げ、当時重い病を患って人相まで変わっていたという榎本を捕縛、すぐに磔にしてその命を絶った。
それは西方浪人達のみならず、彼によって救われていた町人達にも大きな負の影響を残す結果となったが、それによって西方浪人達の勢いを大きく削いだのは事実である。少なくともその後、南町の火事を除いて彼らによる大きな騒ぎは起きていない。
きれいごとだけで治安は守れない、それがこの時代であった。
「ところでその後はどうじゃ?怪しいのは来ておるのか?」
「いえ、診療所に近寄るのはここの人々か病人、もしくは怪我人といった具合です」
「まあ、そうじゃろうな。警戒もされておるじゃろうし」
高坂診療所に若い尼僧がやってきたという話は、すでに周囲の噂となっている。
こんな状況下でお夕に対する下調べもせず新兵衛に接触を図るような間抜けな相手であれば、奉行所も苦労はしない。
「高坂殿の都合によりますが、一度私と共に南町まで出向いていただいて、火事現場の聞き取りを共にしたいと思っております」
「都合、のう」
お婆が外の方を向いた。
そこには、治療を待つ患者たちの長い列ができていた。
それは診療所における毎日の光景であり、新兵衛は彼らの診察のためにほぼ丸一日を費やしていたが、それでも何名かは明日に残すような状態であった。
「榎本殿がいた頃はここまでの状況にはならんかったが、さすがに厳しいのお」
「あの方々が落ち着けば、高坂殿も私と共に調査へ行ける、と?」
「なにしろ以前は二人で行っていたものが、今は一人じゃからの。お坊もよくやってはいるが、なかなか厳しい。せめて体の具合だけでも見れるものがおれば」
「具合を見る程度なら良いのですか?」
なぬ、とお婆がお夕の方を見る。
「おぬし、ひょっとして医術を?」
「それほど高度なものではありませんが、なんといいましょうか、人の気の流れを私は見れますので、その具合で良し悪し程度ならば」
「どこが悪いのかも、おぬし、わかるのか?」
「ある程度、です。高坂殿の使う探り水の技ほどの力はありませぬ」
「はようそれを言え!それでも十分じゃ!お坊、お坊!」
お夕の話に、お婆が大慌てで新兵衛の所へと駆け込んだ。
そして報告を聞いた新兵衛が、鬼気迫る表情で診療所から出てきた。
「お夕殿!」
「は、はい」
「早速手伝ってくだされ!」
もはや挨拶も言葉も無しの、単刀直入である。
新兵衛はお夕を診療所に入れると、一人の患者の前に座らせた。
患者は中年の男性、顔は赤く、息は熱っぽく、誰が見ても風邪である。
だが、一言で風邪と言っても、その種類は人によって異なる。
お夕は静かに男の胸へと指を触れさせた。
「体の気が弱っています。気の流れも悪く、疲れが見えます」
「お夕殿、こちらの方は?」
もう一人はまだ幼い女の子。
先ほどの男性と症状は似ていたが、お夕は男性とは別の結論を出した。
「外の悪いものに冒されていて、体が必死に戦っています」
それを聞いて、新兵衛が再度二人を診察、必要な札を選別する。
「お夕殿」
「はい」
「すまぬが、その調子で他の方々も頼む」
それは、お夕の見立てが間違っていなかった事を新兵衛が認めた瞬間だった。
お夕としては子供だまし程度の技だったが、新兵衛から見ればその価値は計り知れないものであった。
もしお夕が病人の患部や状態をある程度見ることができれば、新兵衛は病気の特定や治療のための札選びに要する時間を大幅に短縮できる。
患者の見立ては経験豊かな医学者でも時間のかかる難しいものである。もしその確認を大雑把でもいいから行ってくれる存在があれば、医者は初めから効率よく患部を特定することが可能となる。
効果は、まさに劇的だった。
診療所の外にまで伸びていた長い患者の列は、昼を少し過ぎた頃にはほぼ無くなっていたのである。
それは、新兵衛が一人となってこの診療所を切り盛りしてから初めての事であった。
「ありがとうお夕殿」
新兵衛がお夕に頭を下げた。
「今日はとくに人が多かったのだが、お夕殿のおかげで一通り診察を行うことができた。私一人では明日に持ち越しとなってしまったところだ」
「いえ、この程度のこと、お礼を言われるほどの事ではありません」
褒められる事に慣れていないのか、頬を赤くしてお夕が俯く。
「しかしあれはいかなる力なのです?札術とも医療術とも違う、遠い国の気孔術とかいうものでしょうか?」
興奮気味に問いかける新兵衛に、お夕はどうしようかと迷った。
いつかは聞かれる事と予想はしていた。その時は適当に誤魔化せばいいだろうとも思っていた。
だが今、問いかける新兵衛を前にして、湯浴みの時に妖怪のお玉がお夕に見せた皮肉めいた表情も脳裏に浮かんでいた。
何もかもを見透かし、馬鹿にしたような目。
誤魔化すのは簡単。だがそうすれば、後であのお玉にこっぴどく馬鹿にされるだろう。
人間であればともかく、人と違う常識を持つ妖怪に馬鹿にされるのは、少々腹に据えかねるものがある。
それに、どちらにしてもあのお玉は、おそらくだが、お夕の正体に感づいているだろう。
だとすれば、自分の事があのお玉の手によって新兵衛に知られるのは、何かこう、負けた気がする。
お夕は一つ息をついた。
「驚かないで下さい。私の祖母ですが、水の力を操る竜の一族と聞いております」
「竜、ですか」
新兵衛とお婆が顔を見合わせる。
「そのため、私には水を操る竜の力と、母より授かった守護の力があります」
あの夜の守護霊か、と新兵衛はその言葉に納得した。
「人の体はご存知の通り、多くが水でできております。そのため、水の具合加減から人の状態が私にはわかるのです」
もちろんそれだけでは無いのだが、細かいことはお夕自身にもよくわかっていなかったので、とりあえずその程度の説明に留めた。
「なるほど、そういう事でしたか」
「驚かれないのですか?」
心配が顔に出たのであろう、そのお夕の表情を見た新兵衛がにこやかに笑った。
「お夕殿のいた国はどうなのか知りませんが、この国で妖怪との血縁など別に珍しいものではありません。それを言えば、たぶん私の中にも妖怪の血は混じっているでしょう」
「え、そうなのですか?」
「夫婦となっている者も多いですよ。今日来ていた患者の中にもいましたから」
唖然とするお夕。
お夕がこの国に来てから何年か経っているが、この話はさすがに初めてだった。
もともとお夕のいた国では、妖怪は迫害される対象であり、よほど力を持っていたもの、たとえば竜のような存在でなければ夫婦になるなど考えられない話だった。
他に伝え聞く国々も、多くが同じような感じだった。
しかしこの国では、妖怪はごく日常の一部として存在している。
もし自分が最初からこの国に生まれていれば、お夕はふとそんな事を思ってしまう。
「しかし竜の一族とは、これはまた珍しいというか、先ほどの力も納得だな」
「お坊、お夕殿の協力があれば、明日も早く終われるじゃろう。もしそうであれば、南町まで買い物に出かけたらどうかの?」
「買出し、ですか」
お婆に言われて、新兵衛が残る札の在庫量を思い出す。
確かに、そろそろ心もとなくなっていた気がする。
「札に使う紙や薬も不足してきておろう。行ける時に行かねば」
そしてお婆がお夕に笑いかける。
「お夕殿も、一緒に行くといい。帰りの荷物は多いであろうからな」
お夕はその言葉から、お婆の真意を悟った。
聞き取り調査を行いたいというお夕に、お婆は配慮したのだ。
「女手でよければ、手伝います」
「ふむ、それは助かる。いつもは買出しに出かけると両手に一杯だからなあ」
「ついでに水茶屋でお茶でも飲んでいくとええ。たまにはそういう日も必要じゃろう」
うむうむと笑うお婆。
その表情はまるで若い孫夫婦を見るような感じだと新兵衛もお夕も思ったものだが、なんとか二人ともそれを表情に出すことは我慢した。
買出しと一言で表現しても、それに要する時間は一日がかりである。
予め必要となるものを行く店にあわせてそれぞれまとめておく。支払いは盆暮れのまとめ払いが基本だが、貧乏人相手の診療所では支払い能力も疑問視されやすいので、信頼を繋ぐためにある程度のお金も用意する。
そのため、新兵衛の懐にはそれなりの大金が入っているが、今回の買出しは同心であるお夕が一緒という事もあり、これ以上の護衛は無いだろう。
「かなりの遠出となりますが、大丈夫ですか?」
「はい、歩くのは慣れておりますので。しかし遠出とは、どの辺りまで歩くのですか?」
「お城をぐるっと反対側まで行きます。帰りはいつもへとへとですよ」
さらにもう一つの準備として、今回治安の悪い所も歩くために腰には刀を差し、懐には何種類かの護身札を用意しておく。
診療所周辺はともかく、ひとたびそこから離れると、さすがに彼らの懐を狙う者たちも多くなってくる。
場所柄で言えば診療所のある場所もかなり危険な区域なのだが、これは榎本が周辺の住民達と話をつけて、一つの安全地帯となるよう取り計らった。
どういう事かといえば、診療所やその関係者に何かがあった場合、その犯人は住人達の手によって闇から闇に葬り去られる仕組みを榎本は作ったのである。
なにしろ診療所に何かがあって休業となれば、被害を被るのはそれに頼っていた人々、つまり周辺の住民達である。彼らにとって診療所の状態は文字通りの死活問題であり、診療所の敵となる者に対して過激な手段を取るのもやむをえない話であった。
そのあたり奉行所も薄々感づいていたようであるが、貧民街の人々を刺激して暴れられても誰も徳をしないので、そのまま放置としていたようである。
そのことを新兵衛はもちろん知っていたが、今となっては師匠の形見であり遺志でもある診療所を守ることが何よりも優先であったので、狼藉者の結末については深く考えない事にしていた。
「では参りましょう」
身支度を整えた新兵衛が立ち上がり、お夕もそれに続く。
診療所を出ると、近くにいた長屋の人々が声をかけてきた。
「おお、お出かけですかい」
「ちょっと買出しです」
「そうですか。ああ先生、先日頂いたお札、よく効きましたわ。おかげで右足に走ってた痺れも軽くなって、今じゃこんなに」
「はは、だからといって無理はいけませんよ」
他にも老若男女、新兵衛の姿を見つけては声をかける。
いずれも新兵衛の治療に感謝する内容だ。
それを見ると、高坂新兵衛という男がいかにここの人々から頼られている若者であるかがお夕にもよくわかる。
無論、診療所の先生という事もあるのだろうが、それだけで人は誰かを慕わない。先生といっても新兵衛はまだ十六の若造なのだ。何か惹かれるもの、特に人格などがあって、新兵衛はこれほど慕われているのだろう。
だがお夕は知っている。
診療所に来る患者の中で、医者の手による薬でなければどうしようもなかった人々がいた事を。
彼らに、新兵衛は、事実をありのままに伝えるしかなかった事を。
それは、お金の無い患者には死の宣告にも等しいものであり、狼狽し泣き叫ぶ人々にただ頭を下げるしかなかった事を。
そのことを、患者達以上に、誰よりも新兵衛自身が苦しんでいた事を。
わずかな間で、お夕はそれを知ってしまった。
「ここからお城の反対ということは、日の丸橋まで?」
「はい、あそこには問屋が多いので。できれば深草まで回りたいところですが、その頃には日も沈んでしまいますから厳しいでしょうね」
建物の影からたまに鋭い視線を向けるものがいるが、二人の姿を見てまた奥へと隠れる。おそらくは物盗りの類であろう。
それにお夕は気がついているが、この程度であたふたしていては同心など勤まらない。
「しかし、西方の出身とは聞いていますが、随分と歩きなれている様子ですね」
「まあ三年もいて、師匠の使い走りのような事もしていましたから」
「では、東都の地理はその榎本殿から?」
「はい、師匠に教えていただきました」
外堀門を抜けてしばらく歩くと、付近の景観が変化してくる。
貧民街にあるようなあばら家ではなく、町人の家といったきちんとした建物が多くなり、道行く人々の身なりも比例して良い物となる。
西方決戦の終結から三年、戦の被害がこの東都にまで及ぶことは無かったが、それでも人心の荒廃は酷いものがあった。
それが今、ここにきてようやく人々の表情に豊かさが戻りつつある。
「本当は」
おそらくはどこかの武家のものなのだろう、立派な屋敷が建てられている所を横目で見ながら、新兵衛が静かな声で言った。
「私などがあの診療所で医者の真似事をするよりも、患者にはたとえお金がかかってでも医者に向かわせるべきなのかもしれないと、そんなことを思うのですけどね」
その言葉が新兵衛の本意などではなく、ただの話題作りである事はお夕にもわかった。
そうでなければ、その言葉は新兵衛のみならず、彼の師匠までも否定するものとなってしまうからだ。
「人々の生活に余裕ができれば、高坂殿の診療所に頼らずともしっかりした医者の診察や薬をみな受けるようになりましょう。あ、いえ、高坂殿の腕が悪いとかそういう」
「ははは、分かってますよ。私の所に来るのはお金の無い方々ですからね。まずは彼らがきちんとした薬を買えるようになればと思うのですが」
ただ、今まで貧乏人では買うことができなかった様々な薬が、平和になった影響からか、少しづつ値を下げてきているのを新兵衛は敏感に感じ取っていた。
誰にでもある程度の効能が見込まれ比較的安価に作れる代表的な薬などは、すでに多くの量が市中に出回りはじめており、普通の町民でも少しの間の贅沢を我慢すれば何とか買える程度にまでなってきていた。
そうなれば、と新兵衛は思う。
そうなれば、あの診療所はひとまずの役目を終えて、自分の時間を取れるようになるのではないか、と。
その時は、死んだ親達や妹の菩提を弔いに西方へ戻る事もできるのではないか、と。
城を横目に抜け、通り過ぎる人々に商人の姿が多くなってきた頃、ようやく二人は目的となる店にたどり着いた。
「西村屋さん、西町の高坂です」
「ああ、高坂診療所の。ご無沙汰しております」
店で名前を言うと、すぐに番台が出てきた。
もともとは師匠である榎本の時代からつきあいがあり、本店は西方の町にあるために高坂の父親も取引に利用したという、なにかと縁のある店であった。
「いつもの薬剤の中で、ええと、これとこれをひと袋ほど包んで下さい。あと、支払いの方もいくつかできれば」
「まいどご贔屓に有難うございます、早速用意させていただきます。それまでの間、新しく仕入れました薬などもありますので、ゆっくり見ていってください」
あまり縁のない店に、お夕が物珍しさも手伝ってあちこちをきょろきょろと眺める。
「ここは医者だけでなく、私のような札術士の使う薬も扱っているのですよ」
そんな姿に優しく微笑みながら、新兵衛がお夕に言った。
「もっとも、私の使う薬はどれも屑のようなものばかりで、効能より値段を優先したものばかりという所が情けない限りですが」
「では、もっと良い薬が使えればどうなるのですか?」
「今よりは高い効能を期待できますが、それでも医者が作る薬には及びません。もっともそれは治療に限った話で、札術本来の目的である妖怪封じなどへの効果はまさに劇的なのですけどね」
いつかは新兵衛も自らの札術にそんな良い材料を使ってみたいと思うが、いずれにしてもお金が無くてはどうしようもない。
それに新兵衛自身、そんなお金のかかるものを使っても、果たして自分がその力をきちんと扱えるのかという思いもあった。
そのあたり使い魔であるところのお玉などは、新兵衛の作る妖怪封じの札は居心地が良いので技量については申し分ないはずであり、良い道具や材料を使えばその効果は必ず結果に出るはずなので積極的に使っていくべきだと言うのだが。
必要な薬を受け取り、持っていた銭でここ二ヶ月ほどの支払いをすませた新兵衛は、次なる所へと移動した。
「ここは?」
「紙屋です」
慣れたように新兵衛が店の中に入るのを見て、お夕も慌ててそれに続く。
「あ、高坂の若旦那、いらっしゃい」
出てきたのは若い番台だった。
彼もきちんと新兵衛の事を知っていたという事は、新兵衛がそれなりにこの辺りで顔を出していたことを暗に示している。
「深草紙をひと束と、鳥の子紙を一枚お願いします」
深草紙とは、古紙などを再生した安い紙である。斑点があったりねずみ色のむらがあったりして、決して良い紙ではない。
もう一つの鳥の子紙は、深草紙とは正反対の美しい高級紙である。
「高坂殿、なぜ二種類の紙を買われるのですか?」
店に飾られている色とりどりの紙を眺めながら、お夕が言った。
「深草紙は治癒札用です。安い紙なので、診療所に来る人々でも気軽に買い求められる札を作ることができます。もちろんこれも良い紙を使ったほうがいいのですが」
「では、もう一つの鳥の子紙は?」
「これは妖怪封じ用です」
その鳥の子紙の色合いなどを真剣に確認しながら、新兵衛が言った。
「診療所に来る人の中には、妖怪に憑かれた人もいますので、その場合はこの紙で妖怪を封じます」
「良い紙を使わないと、妖怪を封じることはできないと?」
「封じるといっても、妖怪封じの札はその妖怪にとっての家のようなものですからね。ちゃんとした札で封じられた妖怪なら、今度は札術士の力ともなってくれます」
「なるほど、では九尾の狐もその紙で?」
「いえ、お玉は檀紙を使ってます」
新兵衛が苦笑いを浮かべて言った。
檀紙とは、公文書などにも使われる最高級紙である。
「これよりも絹布が良いとわがままを言うのですが、札術士としては檀紙のほうが居心地が良いと思うのですけどねえ」
だが、高級な布や紙を使っても、九尾の狐といった力のある妖怪はそう簡単に封じられるようなものではない。これは新兵衛自身の才能もあるが、指導した榎本の技量によるところが大きいだろう。
それでも、この若さでそれだけのことを成し遂げた新兵衛の札術士としての力は、ほかの同世代と比べても間違いなく一線を越えたものである。
「しかし今日は運が良かったですよ、高坂様」
買う紙を決めた新兵衛に、若い番台がそんな事を言ってきた。
「ん、それはなぜ?」
「ここ最近、いまの鳥の子紙や檀紙をお買いになるお武家様が多くなりまして。歌会でも催されるのでしょうか、あちこちの訛りのお武家様が先日お買いになられていました」
「東都に大名の方々が参られる事が多くなっております。その影響でしょうか」
お夕の言葉に、二人が考えるように唸った。
大名家の人々は、様々な用途にこういった高級紙を使う。使う人間が増えれば消費も増える。
「それほどに売れているのですか?」
「ええ、特に備中の最も良いものなどは、先日さるお武家様がこの辺りのものを全てお買いになられまして、ほかの大名家の方々など随分と困られていたご様子で」
「なんと、備中の紙を買い占めるなど、生半可な金額ではないぞ」
「ええ、しかも即金で支払われて、私どもも随分驚いたものです」
お夕の表情に、少しだけ険しいものが走る。
一般的に、こういった大掛かりな支払いは盆暮れなどにまとめて行うものであり、即金でなどあまり聞いたことがない。
まして檀紙のような高級紙など、使うのは幕府関係者や大名家、もしくはそういった相手と取引を行うような豊かな商人である。そんな彼らが即金で支払いを行うなど、まず無い話だ。
もう一つの可能性として買占めによって値段の高騰を狙う話があるが、それならこんな目立つ手法はとらないはずだし、なによりも大名家のような権力者が使う商品に対してそんなことをしても、敵を作るばかりで賢い方法とはいえない。
この話には何かある。お夕はとりあえずこの件について、後で奉行所に報告して調べてもらうことに決めた。
「備中の檀紙か、一度だけ師匠のものを使わせて頂いたことがあったが、あれは良いものであった」
「よろしければ今度、取り置いておきましょうか?」
「いや、それを買うお金がない。気持ちだけありがたく受け取っておくよ」
世の中ままならぬものですな、と番台と新兵衛が笑った。
「さて、当面の買出しはこれで終わりですな」
「薬と紙だけ、ですか?」
「私が診療所で使うものの、これがほとんどですよ」
他には消毒に使う焼酎や、洗濯で使う米ぬかなどだが、これらは行商からでも手に入るので、急ぐ必要はない。
「ではどこかで一休みしたら帰りましょうか」
そう言って、新兵衛は周囲を見渡す。
以前なら、新兵衛も健康な男子であるがゆえに、この辺りまで買出しに出てきた日などは近くにある吉原を見物して帰ったものだが、今回はお夕が一緒なのでそれはできない話である。
もっとも、麗しい女性を連れての買い物など人生の中でも数えるほどの経験しかなかったので、吉原に行けない事をそれほど惜しいとは思わなかった。
幸いというべきか、それとも土地柄というべきか、茶屋はすぐに見つかった。
中は、新兵衛達と同じように買出しの帰りなのだろう、様々な荷物を持った人々でごった返していた。
そんな中で二人は空いている椅子を見つけて、やれやれと座って一息ついた。
「茶を二つたのむ」
注文をとりにやってきた茶汲み女に、新兵衛はそう注文を出した。
「お食事はいかがなさいますか?」
「いや、一息いれたらすぐ出立するので、それはいい」
「そうですか、西方のお武家様から教えていただいた団子があるのですが」
「ほう、西方の?」
「はい、お茶の代金で教えていただきまして」
うーん、と少し悩んだ新兵衛は、ぽんと膝を叩いた。
「では三つ下され。一つは笹か何かで包んで」
「かしこまりました」
一連の光景を見ていたお夕が、茶汲み女が奥へ行くのを見届けてから、小さな声でも聞こえるよう顔を近づけた。
「団子など、よろしいのですか?」
「まあ、それくらいの蓄えはありますよ。それに、西方の味と聞いて、ちょっと懐かしくもありまして」
生まれ故郷の味というのは、いくつになっても忘れるものではない。
新兵衛にとって故郷とはやはり西方にあり、関わるものに何かしらの想いが出てしまうのは仕方のない話なのだろう。
お待たせしましたと、香ばしい醤油の匂いがする団子を茶汲み女が持ってきた。
「この匂いは、美濃のみたらしか」
「ご存知なのですか?」
「ええ、師匠がたまに作ってくれまして。今にして思うと創作の料理も手がけていたなんて、多才とはあの方の事を言うのでしょうね」
懐かしさに顔をほころばせる新兵衛は、その団子をひとくちぱくりと口に入れた。
そして、険しい顔になって、そのまま黙り込む。
「新兵衛殿?」
何か団子に仕掛けでもあったのかと、お夕もその団子を食べる。
おいしい。
香ばしい醤油の匂いと味、そして、これは隠し味だろうか、おそらく昆布の出汁が団子の味をより一層引き立てている。
さらに仄かな甘み、これは水飴だろうか、それが豊かな味となって舌の上を踊る。
まわりを見ると、他の人々もこの団子を食べて、口々にその味を褒めている。
ふと新兵衛の方を見ると、新兵衛はすでに一本の団子を食べ終えていた。
「もし、すまないが、一つ尋ねても良いか?」
静かに、新兵衛が茶汲み女を呼び止める。
「はい、なんでしょう、お武家様?」
その雰囲気に、何かあったのかと、おっかなびっくりで近寄る茶汲み女。
「大変、美味であった。ところでこのみたらし団子、どのようなお方が味を伝えてくれたのですか?」
「え、どのようなお方、ですか?」
「美濃のみたらし団子は醤油味が基本ですが、この団子はそれに味を加えています。この味、私の亡くなった恩師がよく食べさせてくれたものでして、いまそれを思い出しているところなのです」
「まあ、そうだったのですか」
どうやら粗相といった話ではない様子に、ほっとした表情を浮かべる茶汲み女。
「この味を思い出させていただいた方に、できれば一度お礼を申し上げたいところなのだが、ご存知であろうか?」
「いえ、手前どももお名前まではさすがに。ただお武家様より少し背が高くて、雰囲気は優しいお坊様のようなお方でした。それと、薬の匂いをされて、そういえばお武家様も似たような匂いをされておりますよ」
目を閉じて、新兵衛が顔を天に向ける。
「なるほど、ではこれは御仏の慈悲であろう。いや、懐かしい味であった。感謝する」
「いえ、そのような」
「お夕殿、ではそろそろまいろうか」
「あ、はい」
茶汲み女に代金を支払い、新兵衛はお夕と共に茶屋を出た。
二人は少し歩いて、人通りも少なくなった頃、お夕が口を開いた。
「高坂殿、先ほどのお話は、本当でしょうか?」
「団子の話ですか?」
「はい。あの団子の味が榎本殿も作られたものであると」
その言葉に、少し考えるような仕草を見せる新兵衛。
「師匠は何でもされるお方でした。私が食べさせて頂いた団子の味も、師匠が御自身で考えて作られたものです。ただ、料理人ならば誰でも思いつく程度である、とも昔は言っておりましたので、どなたかが同じように考えられてあの店に教えたのでしょう」
だがこの時代、創意工夫を行えるだけの基礎を会得し、さらにそれを形にする胆力があるだけでも、かなりの人物であるといえる。
しかもそれは武士に求められる技術とはまた別のものであるから、その多才ぶりには驚かされるばかりである。
なるほど、それほどの才覚をもった男であれば奉行所が強く警戒したのも道理である、お夕は心の中でそう思った。
「しかしあの娘が言った男の姿、何というべきか、師匠を思い出しましたよ」
「そうなのですか?」
「はい、師匠の姿はまったくあの通りでした。最後の時こそ病気で痩せ衰えてしまっていましたが、東都に来た頃はそんな感じで」
偶然、なのだろうか。
お夕はそれを聞いてそんな風に思う。
紙問屋での話、茶屋の団子の話、どの話も何かしらでこの新兵衛の師匠と関係があるように見える。
札術士でもあった榎本が札で使う高級紙を欲するのも頷けるし、団子の味についてもこの隣を歩く新兵衛から昔話が語られるほどの関係がある。
それよりも、ここは南町。
火事があった場所からも、いまの場所はほど近い。
いやいや、新兵衛の師匠である榎本は、お夕のいる奉行所の手によって処刑されたのではなかったか。少し考えすぎだ、とお夕は一つ息を吐いて気持ちを切り替えた。
いずれにしても、お夕には大事な仕事がまだ残っている。
「新兵衛殿、そういえば、火事の現場を少し見ていってもよろしいでしょうか?」
「ん、ああ、そういえばこの近くか。構いませんよ、来た道からは大きく外れるが帰り道はわかりますので、そこを通って帰りましょう」
「はい」
火事現場は、発生から一ヶ月が経過している事もあってか、さすがに多くが片付けられていた。
新しい長屋を建てるためであろう、様々な材木が一箇所に集められ、すでにいくつかの場所では骨組みも建てられていた。
「ああ、これは高坂様」
その工事様子を見ていた町人風の男が、二人の姿を見て声をかけた。
「と、そこのお方は確か先日にいらっしゃった奉行所の」
「お夕です、先日はどうも」
「家守さん、その後はいかがですか?」
診療所の人間と奉行所の同心という奇妙奇怪な組み合わせに家守の男はとても不思議そうな表情を見せたが、新兵衛が質問をしたことでその表情はどこかへと消えた。
「はい、高坂様のおかげで怪我人もその後順調で」
「それはよかった」
長屋一つが焼けるほどの火事だと、数十名近い人々が焼け出される計算となる。
幸い命に関わるほどの重い怪我を負った者はいなかったが、やけどや打ち身などの怪我が多く、新兵衛はその治療に奔走した。
軽い怪我の治療は、札術が最もその効果を発揮するところである。
患部をまず水でよく洗い流した後、消毒のための焼酎を塗り、その上から体を守るための札を貼り付け、布でしっかりと縛る。
札は患部周辺に一つの結界を作り、悪しきものの流入を止め、患者が持つ自然な治癒の力が最も効果的に働くようにする。
また、治癒の札は多少の出血であればこれを止める術も仕込まれており、それら全てが効果的な患部の自然治癒に寄与する形となる。
これ以上の傷、例えば深い切り傷や骨折などは完全に専門の医者が必要となるが、そうでなければ、これで何とか切り抜けられるのだ。
「ところで、もう長屋を再建されるのですか?」
「はい、奉行所の方々による調査も一通り終わったとのことで、先週あたりから」
「なるほど」
「そういえばその先週、いや、もう少し前でしたかな、高坂様のご関係の方が怪我をした者たちをもう一度診察していただいたそうで、何とお礼を申し上げてよいか」
「え、それがしの関係、ですか?」
きょとん、として新兵衛が言う。
その表情を見て、家守の男が驚いた顔をした。
「おや、その顔はご存知でない?という事は別の方だったのかな。いえ、札術を使われる年配のお武家様でしたので、てっきり」
「ふむ、火事の話を聞いたどなたかが親切でやってくれたのかもしれませんな」
「なるほど、いやはや、札術士の方々はまるで仏様のようでございますな」
はっはっはと笑う新兵衛と家守の男。
だが、お夕はその新兵衛の顔に引きつったものがあることに気がついた。
顔色も、心なしか、悪い。
「治癒の札もそのお方は何枚か置いていかれまして、私も密かに何枚か家族の怪我用にとってありましてな」
「ほう、できれば見せていただけませんか?」
「はい、もちろんです」
そう言って家守の男が、手に何枚かの札を持ってきた。
「これでございます」
「これは、ふむ、良い札の文様だ。これを作られた方は良い腕をしておられる。大切にされるがよい」
「おお、高坂様のお墨付きとあれば間違いありませんな」
「では家守さん、我々はこれで帰ります。なにかありましたら遠慮なく連絡を下され」
「はい、そのときはぜひ」
二人の姿が見えなくなるまでお辞儀する家守の男。
しばらく一言も喋らなかった新兵衛だが、お夕が何かを言いたそうにしているのに気がついたか、ぽつりとこんな事を言った。
「榎本流」
「え?」
その新兵衛の声は、信じられないものを見たという風に、震えていた。
「賀茂流蘆屋派の流れをとっていますが、あの札はまぎれもない、いえ、見間違えようもない榎本流のもの。今となっては弟子である私にしか作れないはずの札です。いや、あれほどの札はもう、だが、そんな」
お夕の目が、美しい青い目が、その意味を知ってはっきりと見開かれる。
あの札は死んだ榎本しか作れないもののはず、そう新兵衛は言っているのである。
「生前に榎本殿が作られた札ということは?」
「それはあると思うが、治療の方法は患者それぞれで変わるものという信念から、師匠は治療のための札の作り置きをされるお人ではなかった」
もし、もしも、榎本良信が生きているとしたら。
では磔にされた男は誰だったのか。
いや、それ以上に、なぜそのような話となったのか。
そして、この西方浪人騒ぎの中で、彼の名前が浮かび上がったのは。
全ては、偶然なのか?いや、それで片付けてはいけない。調べる必要がある。
「ではきっと、かつて榎本殿の教えを受けたお方のものではありませんか?」
だが、お夕はその思いを口にすることは無く、別の言葉を紡いだ。
「高坂殿も榎本殿の師事をお受けになったのはつい数年でございましょう。その前に他の弟子のお方がいたとしても不思議ではないのでは?」
「そのような話は聞いたことがないが、うむ、いや、そうかもしれん。きっとそうだ」
「だとすれば高坂殿の兄弟子となりましょう。それはそれで、お会いできれば喜ばしい話という事ですね」
「そうだな、確かにそうだ」
心の整理がついたのか、新兵衛がお夕に笑いかける。
その表情に、この件をすぐにでも奉行所へ報告をと心の中で決めていたお夕の心が、ちくりと痛んだ。
「西方は戦乱で大きな混乱となった。死に別れや生き別れの話など、それこそ山のようにあったからな。師匠もお人が悪い、教えていただければ探しにも出たものを」
人は、納得できる理由であれば、たとえそれが不確かなものであっても飛びついてしまうものである。
それは奉行所の年老いた同心から教えられた、人の性である。
そして今の新兵衛の姿は、まさにそれであった。
「お夕殿、いかがした?日も暮れるゆえ、早く帰ろう」
「ああ、はい。いま参ります」
納得して機嫌が良くなったか、少し歩調が速くなった新兵衛を追いかけながら、お夕はやはりこの件はきちんと調べたほうが良いと思っていることを、ついに彼に伝えることができなかった。
もちろん、これがお夕自身の思い過ごしである可能性も高く、不確定な話をするべきではないという思いがあったのも事実である。
だが、この件は後に一つの後悔として、お夕の胸に深く刻まれてしまうことになる。
そして新兵衛もまた、この日の平穏と思い込みを、後に苦いものとして思い出す事になるのであった。




