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駿河御前 旭姫 - 豊臣秀吉の妹  作者: 東曌


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第八話 母と兄と天下

第八話 母と兄と天下


 駿河の空は、尾張の空よりも広く見えた。


 旭姫は、縁側に腰を下ろし、庭の木々を眺めていた。


 風が吹くと、葉の裏が白く光る。


 こちらへ来てから、季節は少しずつ移ろっていた。


 人の呼び名も変わった。


 尾張にいたころは、ただの旭だった。兄が出世してからは、秀吉の妹と呼ばれることが増えた。そして今は、駿河御前。


 どれも間違いではない。


 けれど、そのどれもが、自分のすべてではなかった。


「御前様。お手紙が届いております」


 女中が差し出した文を、旭姫は受け取った。


 差出人の名を見て、指が止まった。


 兄からだった。


 文面は短い。天下の情勢についての報せがあり、母のことが記されていた。大政所は健在である。心配はいらぬ、と。


 それだけだった。


 旭姫は、文をもう一度読み直した。


 母は、まだ元気なのだ。


 それを知っただけで、胸の奥がふっと緩んだ。


 しかし、その安堵のすぐあとに、別の思いが忍び込んだ。


 母は、今、どこにいるのだろう。


 何を食べ、誰と話し、どんな顔で朝を迎えているのだろう。


 兄は、母のことを心配はいらぬと書いた。


 けれど、心配するなと言われて、心配しなくなるほど、親子の情は簡単ではない。


 旭姫は文を畳んだ。


「母上に、お会いしたいものですね」


 口にしてから、自分の声が思ったよりも小さかったことに気づいた。


     *


 母の顔を思い出すと、旭姫の心は自然と尾張へ戻った。


 まだ兄が藤吉郎と呼ばれていたころ。


 家は決して豊かではなかった。明日の暮らしを考えずに済むような家ではなかった。それでも、家族がそろっていることには、当たり前のような安心があった。


 母は、よく働いた。


 家のことを考え、子どもたちのことを気にかけ、時には厳しい声を出した。子どもが何人いようと、母の目は一人ひとりを見ていた。


 少なくとも、旭姫はそう信じていた。


 兄は、家の外へ出ていく人だった。


 じっとしているより、動いているほうが性に合っていたのだろう。何かを見つけては手を伸ばし、誰かと知り合っては、その縁を次の場所へつないでいく。


 その兄が、天下人になろうとしている。


 いや、すでに天下を動かすほどの力を持っていた。


 母にとって、それは誇らしいことだったに違いない。


 だが、誇らしいことと、心安らかなことは、同じではない。


 息子が偉くなれば、母もまた、人々から特別な目で見られる。


 息子が敵をつくれば、母もまた、その敵の視線から自由ではいられない。


 そして、息子が天下を取ろうとすれば、母の存在さえ、政治のなかで意味を持つ。


 母は、母であるだけではいられなくなったのだ。


 旭姫は、兄を恨んでいるわけではなかった。


 兄が家族を大切にしていることも、知っていた。


 けれど、兄の大切にするものが大きくなりすぎて、家族一人ひとりの思いを、その大きな手のなかに包み込めるのかどうか。それが、ときどき分からなくなる。


 兄は、人を動かすのがうまい。


 人の心をつかみ、味方を増やし、昨日まで敵だった者にさえ、明日の働き場所を与える。


 しかし、人の心をつかむことと、その人の心をすべて知ることは違う。


 旭姫は、兄のことを誰よりも長く見てきたつもりだった。


 それでも、関白となった兄が、今、何を恐れ、何を求めているのか。妹である自分にも、見えない部分があった。


     *


「兄上は、変わられたのでしょうか」


 旭姫は、庭を眺めたまま呟いた。


「それとも、昔からあのような人だったのでしょうか」


「どなたのお話ですかな」


 背後から声がした。


 振り返ると、家康が立っていた。


 いつものように、足音は大きくない。人が近づいていると気づいたときには、すでにそこにいる。


「兄のことでございます」


「関白殿の」


「はい」


 家康は旭姫の隣に腰を下ろした。


 しばらく、二人は黙って庭を見た。


「兄は、昔から人を動かす人でした。けれど、今は、あまりに多くの人を動かしております。母まで、天下の都合で動かされることがある」


 言葉にしてしまうと、胸の奥にしまっていたものが、少し形を持った。


「母上は、ただ母上でいてほしいのです。兄の母としてではなく、天下人の母としてでもなく」


 家康はすぐには答えなかった。


 庭の石のそばで、小さな虫が動いていた。家康はそれを目で追い、やがて静かに言った。


「大きな力を持った者の家族は、本人が望むと望まざるとにかかわらず、その力の一部と見られることがあります」


「家康様のご家族も、そうでございますか」


「そうならぬように努めても、周りがそう見ぬとは限りません」


 家康は、言葉を慎重に選んでいた。


「人は、血筋を見ます。縁を見ます。誰の子で、誰の妻で、誰の兄弟なのか。それを知れば、相手のことまで分かったつもりになる」


「けれど、それだけでは、人の心は分かりません」


「そのとおりです」


 家康は、わずかに頷いた。


「だからこそ、家族というものは厄介なのでしょうな。近いからこそ、分かっていると思ってしまう」


 旭姫は、家康の横顔を見た。


 この人は、兄のように大きな声で未来を語らない。


 天下を取ると、口にするわけでもない。


 それでも、目の前の一つひとつを見ている。人の言葉だけでなく、その言葉を口にするまでの沈黙を見ている。


 旭姫は、ふと思った。


 兄は、人を集める。


 家康は、人を見極める。


 どちらが正しいという話ではない。


 ただ、二人は、同じ天下を見ながら、まるで違う道を歩いているのだ。


「家康様は、兄をどう思っておいでですか」


 旭姫が尋ねると、家康は少し考えた。


「人を動かす才に恵まれた方です。時勢をつかむのも早い」


「それだけでございますか」


「それだけで、人は天下を動かせませぬ」


 家康はそう言って、旭姫を見た。


「関白殿には、関白殿の考えがある。私には、私の考えがある。考えが違うからといって、相手のすべてを否定する必要はないでしょう」


 その言葉には、兄を認める響きがあった。


 同時に、兄の思いどおりになるつもりはない、という静かな境界もあった。


 旭姫は、その境界を感じ取った。


 自分は、二人のあいだにいる。


 兄の妹であり、家康の妻である。


 だが、二人の考えを一つにすることが、自分の務めなのだろうか。


 それとも、二人の考えが違うことを知ったうえで、自分自身の心を失わずにいることが、務めなのだろうか。


 まだ、答えは出なかった。


     *


 数日後、旭姫は母のことを、改めて尋ねた。


 兄からの文には、母が健在であるとしか書かれていない。


 それだけで安心しようと思えば、できないこともない。


 だが、娘というものは、母が生きていると知るだけでは足りないことがある。


 母の声を聞きたい。


 顔を見たい。


 昔のように、何でもない話をしたい。


 天下の話などしなくてもよい。


 兄の出世を語らなくてもよい。


 ただ、母の前で、秀吉の妹でも、家康の妻でもない自分に戻りたかった。


 旭姫は、家康にその思いを伝えた。


「母上に、お会いすることは叶いましょうか」


 家康は、すぐに約束をしなかった。


「関白殿の意向もありましょう。まずは、どのような形がよいか、確かめてみましょう」


 その答えに、旭姫は少しだけ寂しさを覚えた。


 けれど、家康が軽々しく「会えます」と言わなかった理由も、分かる気がした。


 母に会うことさえ、今の自分には、思い立っただけで実現できることではない。


 人と人が会う。


 ただそれだけのことに、誰の許しが必要なのか。


 誰の都合が関わってくるのか。


 旭姫は、自分が置かれた場所を、改めて思い知らされた。


 天下のために嫁いだ。


 兄の望みを受け入れ、家康の妻となった。


 それを、自分の選択ではなかったとだけ言うつもりはない。自分なりに考え、受け止めたこともある。


 けれど、受け入れたことと、何もかも望んだことは違う。


 そこを、誰かに取り違えられたくはなかった。


     *


 夜、旭姫は兄からの文を、もう一度取り出した。


 母は健在である。


 心配はいらぬ。


 兄の筆跡は、昔から大きく、勢いがあった。


 その文字を見ていると、幼いころの藤吉郎が、目の前に戻ってくるようだった。


 何かを思いつけば、すぐに走り出す兄。


 失敗しても、次の手を考える兄。


 誰かに笑われても、笑われたままでは終わらない兄。


 その兄が、今は関白である。


 母は、その母である。


 そして自分は、徳川家康の妻になった。


 人の一生とは、不思議なものだ。


 昔は、家族が一つの屋根の下にいることが、何より確かなことだった。


 今は、同じ家族であっても、国のあちらとこちらに分かれ、それぞれの立場から天下を見ている。


 兄は、天下を一つにしようとしている。


 家康は、その天下のなかで、自分の家を守ろうとしている。


 母は、息子の出世を喜びながら、その出世がもたらす重さも背負っているのだろう。


 では、自分は何をしているのだろう。


 兄の望みに従っただけなのか。


 家康の妻として暮らしているだけなのか。


 旭姫は、文を丁寧に畳んだ。


 違う。


 少なくとも、ただ流されているだけではいたくなかった。


 兄の思いも、家康の考えも、母の心も、すべてを知ることはできない。


 自分の判断が、いつも正しいとも限らない。


 それでも、自分が何を感じ、何を望み、何を受け入れたのか。そのことまで、誰かに決めてもらうつもりはなかった。


 旭姫は、筆を取った。


 母に宛てて、短い文を書き始める。


 難しい言葉は使わなかった。


 天下のことも、兄のことも、家康のことも、ひとまず書かなかった。


 ただ、母の身体を気遣い、こちらでの暮らしを少し伝えた。


 最後に、こう記した。


 ――いつか、またお目にかかれますように。


 それだけだった。


 その一文に、娘としての願いを込めた。


 政治のための縁組であっても、母を思う心まで政治に明け渡す必要はない。


 兄の妹であっても、兄の考えが自分の考えのすべてになるわけではない。


 家康の妻であっても、嫁ぐ前の自分が消えてしまうわけではない。


 旭姫は、書き終えた文をそっと置いた。


 窓の外では、夜の風が木々を揺らしていた。


 天下は、まだ定まっていない。


 兄の野心も、家康の慎重さも、これから先、幾度となく人々を動かしていくだろう。


 その大きな流れを、一人の女が止めることはできない。


 けれど、その流れのなかで、自分の心をどう守るかは、考えることができる。


 旭姫は、灯火を見つめた。


 母と兄と天下。


 その三つは、今や切り離せないものになっていた。


 それでも、母を思う自分の心だけは、天下の道具にはしたくなかった。


 明日もまた、駿河御前として朝を迎える。


 けれど、夜のあいだだけは。


 旭姫は、ただ母の娘でありたかった。


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