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駿河御前 旭姫 - 豊臣秀吉の妹  作者: 東曌


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第七話 駿河御前

第七話 駿河御前


 浜松での暮らしが始まって、幾日かが過ぎた。


 旭姫は、少しずつ、この家の音を覚え始めていた。


 朝早く廊下を行き来する者の足音。


 庭先で交わされる家臣たちの短い挨拶。


 炊事場から漂ってくる、米の炊ける匂い。


 そして、決まった時刻になると、家康の身の回りを整える者たちが、静かに動き始めること。


 徳川の家には、徳川の家の時間があった。


 誰かが大声で命じなくても、皆が自分の役目を心得ている。余計な騒ぎを起こす者は少なく、物事は淡々と進んでいく。


 それは、旭が兄の屋敷で見てきた光景とは、少し違っていた。


 兄の周囲には、いつも人が集まっていた。


 笑い声があり、命令があり、誰かの出世をめぐる噂があり、昨日までの立場が今日には変わってしまうような、目まぐるしさがあった。


 兄のいる場所では、人が動く。


 家康のいる場所では、人が動く前に、何かを確かめている。


 旭には、そう感じられた。


 そして、その違いは、家康自身の暮らし方にも表れていた。


     *


 ある朝、旭が庭に面した部屋で、女房たちと衣服の整理をしていると、廊下の向こうから、家康の声が聞こえた。


「それは、昨日のものと同じか」


「はい。昨日と同じ薬草でございます」


「同じに見えても、採った場所が違えば、具合も変わる。こちらも確かめてみよ」


 旭は、思わず手を止めた。


 薬草。


 そういえば、家康は自分でも薬を調えることがあると聞いた。


 ただの噂だと思っていたわけではないが、実際にその話を聞くと、やはり興味を引かれた。


「何をなさっているのでしょう」


 旭が尋ねると、そばにいた女房が答えた。


「殿は、薬草や養生のことにも、たいそう心を配られるそうでございます」


「ご自身で、確かめられるのですか」


「はい。書物をお読みになることもあるとか」


 旭は、少し考えた。


 戦場を駆け、国を治める大名が、薬草の一つ一つを確かめている。


 その姿は、勇ましい武将というイメージとは、ずいぶん違っていた。


 けれど、考えてみれば、何も不思議ではないのかもしれない。


 人の身体は、刀や槍のように、傷んだからといって簡単に取り替えられるものではない。


 まして、国を預かる者が病に倒れれば、その影響は本人だけにとどまらない。


 家康は、それをよく知っているのだろう。


「殿は、何でもご自分で確かめたいお方なのですね」


 旭がそう言うと、女房は、少し困ったように笑った。


「さようでございます。ですから、殿に何かを申し上げるときは、よく確かめてからでなければなりません」


「それは、大変ですね」


「はい。大変でございます」


 二人は、思わず顔を見合わせて笑った。


 そのとき、廊下の向こうから、また家康の声がした。


「誰か、今、笑ったか」


 女房の顔から、すっと笑みが消えた。


 旭は、口元を押さえた。


 どうやら、聞こえていたらしい。


 しばらくして、家康が部屋の前を通りかかった。


「何か、面白いことでもあったか」


 その顔には、怒った様子も、笑った様子もなかった。


 旭は、正直に答えることにした。


「殿は、何でもご自身で確かめられるお方だと、話しておりました」


「ほう。それで、笑いが出たのか」


「いいえ。殿のお近くにお仕えする方は、さぞ大変だろうと思いまして」


 家康は、旭を見つめた。


 そして、ほんのわずかに口元を緩めた。


「大変かどうかは、仕える者が決めることよ」


「では、殿ご自身は、大変だとは思われませんか」


「思うこともある」


 家康は、あっさりと答えた。


「だが、確かめずに済ませて、あとで困るよりはよい」


 それだけ言うと、家康は歩き去った。


 旭は、その背中を見送った。


 なるほど。


 この男は、何でも疑ってかかるのではない。


 確かめるべきことと、任せてよいことを、自分なりに分けているのだろう。


 ただし、その区別を決めるのは、家康自身だった。


 旭は、小さく息をついた。


 やはり、簡単には扱えない人らしい。


     *


 数日後、旭は、徳川家の者たちが自分を何と呼んでいるのかを知った。


「駿河御前様」


 そう呼ばれたのは、初めてだった。


 旭は、思わず振り返った。


 声をかけたのは、年配の女房だった。


「私のことでしょうか」


「はい。ほかに、どなたがおられましょう」


 女房は、穏やかに笑った。


「殿の奥方様でございますから」


 旭は、すぐには返事ができなかった。


 駿河御前。


 その名は、これまで自分が生きてきた人生とは、どこか違うところにあるように思えた。


 尾張にいたころ、旭は、ただ旭だった。


 兄が出世してからは、秀吉の妹として見られることが増えた。


 そして今は、徳川家康の妻として、新しい呼び名を与えられようとしている。


 人は、誰かの妻になれば、その人の名で呼ばれることがある。


 家の名で呼ばれることもある。


 けれど、名前が変わったからといって、それまで生きてきた自分が消えるわけではない。


「駿河御前、ですか」


 旭は、ゆっくりと口にした。


「まだ、少し慣れません」


「いずれ、皆がそうお呼びするようになりましょう」


 女房はそう言った。


 旭は、うなずいた。


 呼び名は、少しずつ変わっていくのだろう。


 けれど、自分の中にあるものまで、急いで変える必要はない。


 尾張で暮らした年月も。


 兄と過ごした日々も。


 自分が自分として考え、迷い、選んできたことも。


 すべてが、今の自分につながっている。


 旭は、そのことを忘れないでいようと思った。


     *


 その日の午後、旭は、家康とともに庭を歩くことになった。


 庭の片隅には、いくつかの鉢が置かれていた。


 花を咲かせるものもあれば、葉を茂らせるものもある。


 その中には、旭の知らない草もあった。


「これは、薬草でございますか」


 旭が尋ねると、家康は足を止めた。


「そうだ。すべてが薬になるわけではないが、役に立つものもある」


「花を楽しむためのものとは、違うのですね」


「花を楽しむことも、無駄ではあるまい」


 家康は、葉の一枚に目を向けた。


「ただ、見た目が似ていても、性質が違うものがある。人も、草も、見かけだけではわからぬということだ」


 旭は、家康の横顔を見た。


 この男は、何気ない話の中にも、何かを含ませる。


 意図してそうしているのか。


 それとも、物事をそのように考える癖が身についているのか。


 まだ、わからなかった。


「殿は、人のことも、草のように見極められるのでしょうか」


 旭が尋ねると、家康は少し考えた。


「草なら、季節が来れば芽を出す。水が足りなければ、葉に表れる。人は、そう簡単にはいかぬ」


「では、人の方が難しいのですね」


「難しい。人は、隠そうと思えば隠す。自分でも、自分の心がわからぬことがある」


 家康は、旭を見た。


「そなたも、そう思うことがあるのではないか」


 旭は、すぐには答えなかった。


 自分の心がわからない。


 確かに、そういうことはあった。


 兄の出世を喜んだ。


 けれど、兄が遠くへ行ってしまうような寂しさもあった。


 今、家康の妻となったことを受け入れようとしている。


 けれど、自分の人生が、また別の誰かの都合で動かされているような気持ちも消えない。


 その二つは、どちらか一方が嘘というわけではない。


 どちらも、自分の心だった。


「ございます」


 旭は、正直に答えた。


「自分でも、どうしてそう思うのか、わからぬことがございます」


 家康は、うなずいた。


「ならば、すぐに答えを出さずともよい」


 その言葉に、旭は少し驚いた。


 家康は、答えを急がない。


 それは、政治の場だけのことではないらしい。


「人の心は、薬草のように、すぐには性質がわからぬものなのですね」


 旭が言うと、家康は、低く笑った。


「うまいことを申す」


「殿のお話を聞いておりましたら、そう思いました」


「では、わしも、そなたの心をすぐにわかったつもりにならぬことにしよう」


 旭は、家康を見た。


 その言葉は、優しさなのだろうか。


 それとも、用心深さなのだろうか。


 どちらでもあるのかもしれない。


 旭は、初めて、家康の笑顔に少しだけ親しみを感じた。


     *


 庭を歩き終えたあと、二人は縁側に腰を下ろした。


 しばらく、何も話さなかった。


 風が葉を揺らし、遠くから人の声が聞こえる。


 旭は、家康の横顔を盗み見た。


 家康は、庭の草木を見ていた。


 その表情からは、何を考えているのか、やはり読み取れない。


 けれど、旭は、以前ほど落ち着かない気持ちにはならなかった。


 わからないことを、すぐに恐れる必要はない。


 わからないなら、少しずつ知っていけばよい。


 それは、家康の生き方から学んだことだった。


「殿」


「何だ」


「私は、ここで、どのように過ごせばよいのでしょう」


 家康は、旭の方を向いた。


「どのように、とは」


「徳川の家には、徳川の習わしがございます。私には、まだわからぬことばかりです」


「それは、これから覚えていけばよい」


「それだけで、よろしいのでしょうか」


 家康は、少し考えた。


「家の習わしを知ることは大切だ。されど、そなたには、そなたがこれまで生きてきた年月がある。そのすべてを捨てて、こちらの者になれと言うつもりはない」


 旭は、思わず顔を上げた。


「ただし、ここで暮らす以上、徳川の家を守ることも、そなたの務めとなろう」


「はい」


「わしも、そなたが何を考えているのか、少しずつ知っていくつもりだ」


 家康は、そう言って庭へ目を戻した。


 旭は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 すべてを捨てなくてもよい。


 けれど、新しい家を守る務めはある。


 それは、都合のよい約束ではなかった。


 家康は、旭に何もかも自由にしてよいとは言わなかった。


 同時に、過去の自分を捨てろとも言わなかった。


 その言葉の中に、旭は、この男なりの誠実さを感じた。


 もちろん、家康の本心をすべて知ったわけではない。


 彼は、まだ何かを胸の内にしまっている。


 豊臣との関係も、徳川の行く末も、簡単には口にできないのだろう。


 それでも、今の言葉まで、すべて計算だったと決めつける必要もない。


 人間は、計算だけで生きているわけではないのだから。


     *


 夕方、旭は自分の部屋へ戻った。


 女房が、いつものように衣服を整えている。


「駿河御前様。お庭はいかがでございましたか」


「よい庭でした」


 旭は、微笑んだ。


「薬草もございました。殿は、草木にもお詳しいのですね」


「そのようでございますね」


 女房は、少し声をひそめた。


「ただ、殿は、何事にもお詳しいだけではなく、何事にも用心深いお方でございます」


「それは、よくわかりました」


 旭が答えると、女房は、思わず笑った。


「もう、おわかりになりましたか」


「いいえ。わかったのは、わからないことが、まだまだあるということです」


 女房は、不思議そうな顔をしたあと、静かにうなずいた。


「それが、よろしいのかもしれません」


 旭は、窓の外を見た。


 浜松の空が、夕焼けに染まっていた。


 自分は、これから、この地で暮らしていく。


 駿河御前と呼ばれ、徳川家康の妻として、日々を重ねていく。


 けれど、旭という人間が、そこから消えてしまうわけではない。


 兄の妹として生きた年月も。


 自分自身の人生を歩んできた時間も。


 すべてを抱えたまま、ここで新しい暮らしを始めるのだ。


 旭は、静かに息をついた。


 家康は、狸のような男だ。


 腹の内を見せず、相手をよく見て、時には黙って待つ。


 薬草を確かめるように、人の言葉を確かめる。


 家の由緒を大切にしながら、これから先のことを考える。


 そんな男のそばで暮らすのは、決して簡単ではないだろう。


 けれど、旭は、少しだけ楽しみでもあった。


 この男が何を考えているのか。


 どこまでが計算で、どこからが本心なのか。


 いつか、自分の前で、腹の底から笑うことがあるのだろうか。


 それとも、最後まで、狸のままなのだろうか。


 旭は、ひとりで小さく笑った。


「さて、駿河御前も、楽ではございませんね」


 その声は、部屋の中に静かに消えていった。


 だが、その言葉には、初めてこの家に来た日の不安とは違う響きがあった。


 旭は、ここで生きていく。


 誰かの妹としてだけではなく。


 誰かの妻としてだけでもなく。


 自分の目で見て、自分の心で考え、自分の足で立つ、一人の女として。


 浜松の夕暮れは、ゆっくりと深まっていった。


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