第六話 家康の妻
第六話 家康の妻
天正十四年(一五八六)五月。
旭姫を乗せた輿が、ようやく浜松へと入った。
長い道のりだった。
尾張を離れてから、旭は何度も、自分がどこへ向かっているのかを考えた。
兄の命によって、徳川家康の妻となる。
言葉にすれば、それだけのことだった。
しかし、その短い一文の中には、旭がこれまで生きてきた年月も、兄が築き上げた権力も、徳川と豊臣のあいだに横たわる緊張も、すべてが押し込められている。
輿の外から、案内役の声が聞こえた。
「こちらが、浜松にございます」
旭は、そっと目を上げた。
見知らぬ土地。
見知らぬ人々。
そして、これから自分が暮らすことになる家。
ここには、尾張で過ごした日々の続きはない。
あるのは、これから始まる暮らしだけだった。
*
旭を迎えるための支度は、すでに整えられていた。
供の者たちが動き、女房たちが衣服を整え、迎えの者が次々に挨拶を述べる。
誰もが礼を尽くしていた。
だが、旭には、その丁寧さの奥にあるものが気になった。
徳川の者たちは、自分をどのように見ているのだろう。
関白の妹。
豊臣家から送られてきた女。
徳川と豊臣の関係を変えるかもしれない存在。
それとも、これから主君の妻となる一人の女性なのか。
人の目は、言葉よりも正直なことがある。
旭は、挨拶を交わす人々の顔を静かに見た。
皆、礼儀正しい。
しかし、誰もが同じ表情をしているわけではなかった。
緊張している者もいる。
好奇心を隠しきれない者もいる。
そして、旭の顔を見たあと、わずかに視線を伏せる者もいた。
自分がここへ来た意味を、皆が知っているのだろう。
旭は、背筋を伸ばした。
ここで怯えていては、これから先、何も始まらない。
やがて、案内の者が静かに告げた。
「殿がお待ちでございます」
旭の胸が、小さく波打った。
いよいよだった。
兄の言葉の中にしかいなかった男。
供の者たちの噂の中で、辛抱強く、用心深く、薬草にまで詳しいと語られていた男。
そして、関白である兄が、簡単には思いどおりにできないと考えている男。
徳川家康。
旭は、ゆっくりと息を吸った。
「参りましょう」
*
家康は、思っていたよりも静かな男だった。
旭が部屋へ通されると、そこには一人の武将が座っていた。
派手な衣装で威圧するわけでもない。
声を張り上げて、己の力を示すわけでもない。
ただ、そこにいる。
それなのに、部屋の空気が自然とその男を中心にまとまっているように感じられた。
家康は旭を見ると、ゆっくりとうなずいた。
「長旅であったな。さぞ、疲れたことであろう」
「お心遣い、恐れ入ります」
旭は、深く頭を下げた。
「道中、難儀はなかったか」
「皆がよく世話をしてくれました。大きな支障もなく、ここまで参ることができました」
「それは何よりである」
家康は、そう答えた。
それだけだった。
兄ならば、ここでもう少し言葉を重ねたかもしれない。
長旅をねぎらい、冗談を交え、相手の緊張を解こうとする。
だが、家康は必要な言葉だけを口にした。
その沈黙が、旭には不思議だった。
何も考えていないから黙っているのではない。
むしろ、何かを考えているからこそ、余計な言葉を口にしない。
そんな印象を受けた。
「兄上から、何かお言葉はございましたか」
家康が尋ねた。
旭は、わずかに顔を上げた。
「兄は、徳川殿と豊臣家が、これからは互いに力を合わせることを望んでおります」
「そうであろうな」
家康は、穏やかに答えた。
その声音には、喜びも怒りも、はっきりとは現れていなかった。
「関白殿下は、天下をおまとめになるお方だ。これから先、国々のあいだに争いが続けば、民も疲れ果てよう」
「はい」
「されど、争いを終わらせるというのは、言葉ほど簡単なことではない」
家康は、旭の顔を見た。
「人には、それぞれ守らねばならぬものがある。領地もあれば、家臣もある。先祖から受け継いだ名もある。それらをすべて捨てよと言われて、はいと答えられる者ばかりではあるまい」
旭は、黙って聞いていた。
家康は、兄を批判しているのだろうか。
それとも、ただ、世の中の難しさを語っているだけなのだろうか。
声を荒らげているわけではない。
秀吉を否定する言葉を口にしたわけでもない。
それでも、その言葉には、簡単に譲るつもりはないという意思が感じられた。
旭は、ようやく理解した。
この男は、兄の望みをそのまま受け入れたわけではないのだ。
家康は、旭を迎えた。
だが、それは、家康が何もかも豊臣に従うという意味ではなかった。
「徳川殿のお考えは、よくわかりました」
旭は答えた。
「ただ、私は、兄の言葉を伝えるためだけに、ここへ参ったのではございません」
家康の眉が、わずかに動いた。
「ほう」
「これからは、徳川殿の妻として、この家で暮らすことになります。ですから、徳川殿が何を大切にされているのか、私自身の目で知りたいと思っております」
言い終えてから、旭は、自分が思いのほか率直な言葉を口にしたことに気づいた。
相手は、東国に大きな力を持つ武将である。
しかも、自分よりも政治の世界を長く生きてきた男だ。
その男に、初対面から自分の考えを述べる。
少しばかり、出過ぎたことだったかもしれない。
しかし、家康は怒らなかった。
しばらく旭を見つめたあと、口元をわずかに緩めた。
「それは、よい心がけであるな」
その笑みが、どこまで本心なのか。
旭には、まだわからなかった。
*
しばらくして、家康は話題を変えた。
「長旅では、食事も口に合わなかったであろう」
「いいえ。皆が気を配ってくれましたので」
「そうか。されど、慣れぬ土地では、食べ物も水も、身体に障ることがある。疲れが出るのは、道中よりも、着いてからということもあるからな」
旭は、少し意外に思った。
政治の話から、身体の話へ。
しかも、その言葉には、形だけの気遣いとは違う具体性があった。
「徳川殿は、養生にもお詳しいのですか」
「詳しいと言えるほどではない」
家康は、すぐには答えなかった。
「ただ、身体を損なえば、思うように動けなくなる。これは、武士に限ったことではあるまい」
「それは、確かに」
「人は、何かを成し遂げようとすると、つい目の前のことばかりを考える。だが、明日も動ける身体がなければ、今日の働きも続かぬ」
家康は、傍らに置かれた湯呑みに手を伸ばした。
「薬草も、薬も、使えばよいというものではない。何に用いるのか、どれほど使うのか。見極めることが肝要だ」
旭は、その言葉を聞きながら、家康の手を見た。
大きな手だった。
戦場で采配を振るい、家臣に命を下し、国の行く末を決めてきた手。
その手が、薬草を扱い、薬を調えることもあるのだという。
天下を争う武将と、病を遠ざけようとする男。
旭の中で、二つの姿が重なった。
「徳川殿は、ご自身で薬をお調えになることもあるのですか」
「必要があればな」
家康は、あっさりと答えた。
「人任せにしてよいことと、自分で確かめねばならぬことがある。薬も、政も、似たところがあるのであろう」
旭は思わず、家康の顔を見た。
薬と政。
その二つを、同じ言葉の中に置く男。
薬は、使い方を誤れば身体を損なう。
政もまた、やり方を誤れば国を損なう。
何かを良くしようとする行いであっても、使い方を誤れば、反対の結果を生むことがある。
家康は、そう考えているのだろうか。
「なるほど」
旭は、静かに答えた。
「何事も、よく見極めることが大切なのですね」
「さよう」
家康は、うなずいた。
その目は、穏やかだった。
けれど、旭には、底の見えない池を覗き込んでいるような気持ちがした。
水面は静かだ。
しかし、その下に何があるのかはわからない。
*
話がひと段落すると、家康は、ふと思い出したように口を開いた。
「旭殿は、徳川という家について、何か聞いておられるか」
旭は少し考えた。
「三河の国を治めてこられたお家であること。そして、徳川殿が、長い年月をかけて、その地をまとめてこられたことは存じております」
「それだけか」
「ほかに、何を存じておればよろしいのでしょう」
旭がそう尋ねると、家康は、かすかに笑った。
「家には、由緒というものがある」
静かな声だった。
「人は、どこから来たのか。何を受け継ぎ、何を守ってきたのか。そうしたことを、時に気にするものだ」
旭は、家康の言葉を注意深く聞いた。
「徳川家にも、先祖から伝わる由緒がございます。家を治めるうえで、それを大切にすることも、務めの一つであろう」
「はい」
「されど、由緒を語るだけでは、家は守れぬ。今を生きる者が、何を成すか。それもまた、大切なことである」
家康は、そう言って話を終えた。
旭は、少し考えた。
家の由緒。
先祖から受け継いだ名。
それを大切にすることは、武家にとって自然なことなのだろう。
けれど、家康の言葉には、それだけではない何かが含まれているように思えた。
由緒は、過去を語るためだけのものではない。
今の自分が、何者であるかを示すものでもある。
そして、これから何を成そうとするのか、その正当性を人々に理解させるためにも用いられる。
旭は、そこまで考えて、ふと口を閉じた。
自分は、家康のことをまだ何も知らない。
彼の家が、どのような由緒を持つのか。
その由緒を、彼がどのように受け止めているのか。
そして、何を守るために、それを語るのか。
今の自分には、わからない。
ただ、家康が、家の由緒を単なる昔話として扱っていないことだけは感じ取れた。
この男は、過去を語りながら、未来を考えている。
旭は、そう思った。
*
やがて、家康が立ち上がった。
「今日は、長旅の疲れもあろう。これ以上、話を続けるのは控えよう」
「お気遣い、ありがとうございます」
「こちらでの暮らしについては、わからぬことも多いであろう。困ったことがあれば、遠慮なく申すがよい」
旭は、頭を下げた。
「はい」
家康は、部屋を出る前に、もう一度だけ旭を振り返った。
「旭殿」
「はい」
「人の言葉は、よく聞くことだ。されど、言葉だけで、その者を知ったつもりにならぬことも大切である」
旭は、顔を上げた。
それは、家康が自分に向けた忠告なのだろうか。
それとも、自分自身にも言い聞かせているのだろうか。
家康は、それ以上何も言わず、部屋を出ていった。
残された旭は、しばらくその場に座っていた。
人の言葉は、よく聞くこと。
言葉だけで、その者を知ったつもりにならぬこと。
それは、今日、家康自身を見て感じたことでもあった。
噂では、家康は辛抱強く、用心深く、腹の内を見せぬ男だという。
確かに、彼は簡単には本心を明かさなかった。
しかし、何も語らないわけではない。
必要なことは話す。
相手の言葉も聞く。
そして、答えを急がない。
その姿は、旭が想像していたよりも、ずっと静かだった。
静かであるからこそ、何を考えているのか、わからない。
旭は、思わず小さく笑った。
「なるほど……狸親父と呼ばれるのも、わかるような気がいたします」
もちろん、家康本人には聞こえない声だった。
*
その夜、旭は、初めて過ごす部屋で、ひとり考えていた。
家康は、兄の望みを受け入れた。
しかし、兄の言葉にすべて従うと約束したわけではない。
家康は、旭を妻として迎えた。
しかし、旭が関白の妹であるという事実を忘れたわけでもない。
彼は、妻を迎えることと、政治の筋道を整えることを、別々には考えていないのだろう。
そのことは、旭にもわかった。
自分は、この家に入った。
これからは、家康の妻として生きていく。
けれど、夫婦になったからといって、二人のあいだにある政治の事情が消えるわけではない。
むしろ、それは、日々の暮らしの中に入り込んでくるのだろう。
食事をすること。
言葉を交わすこと。
同じ部屋で過ごすこと。
そうした何気ない時間の中にも、豊臣と徳川という二つの家の事情が、影を落とすのかもしれない。
旭は、灯火を見つめた。
兄は、人を動かすことで天下を築こうとしている。
家康は、人を見極め、時間をかけることで、自分の立つ場所を守ろうとしている。
どちらが正しいのか。
今の旭には、わからなかった。
ただ、二人のやり方が違うことだけは、よくわかった。
そして、自分は、その二人のあいだに立つことになったのだ。
旭は、胸の前でそっと手を重ねた。
誰かの命令を伝えるだけの女にはなりたくない。
誰かの望みをかなえるためだけに、暮らすのでもない。
徳川の家で生きるのなら、そこで見たものを、自分の目で受け止めたい。
夫が何を守ろうとしているのか。
何を恐れているのか。
何を、決して譲ろうとしないのか。
それを知るには、まだ時間が必要だろう。
家康は、時間を味方につける男なのかもしれない。
ならば、旭もまた、急いで答えを出す必要はない。
明日も、その次の日も、彼の言葉を聞こう。
言葉だけではなく、手の動きも、目の動きも、沈黙の意味も。
そして、いつか、自分自身の言葉を伝えよう。
関白の妹としてではなく。
徳川家の妻としてだけでもなく。
旭という、一人の人間として。
灯火が、風もないのに、かすかに揺れた。
旭は、その小さな光を見つめながら、目を閉じた。
家康という男の心は、まだ見えない。
けれど、見えないからこそ、知ろうとする意味がある。
浜松で始まった新しい暮らしは、まだ一日目にすぎなかった。




