第五話 浜松への道
第五話 浜松への道
輿が揺れるたび、旭姫は、これまで歩いてきた道が少しずつ遠ざかっていくのを感じていた。
天正十四年、五月。
尾張を離れ、東へ向かう道は、思っていたよりも長かった。
輿の外からは、馬の蹄が土を打つ音が聞こえる。供の者たちの声も、ときおり風に乗って届いた。誰かが水を求め、誰かが道の先を確かめ、誰かが馬の具合を気にしている。
その一つ一つが、旭には、知らない世界の音に思えた。
尾張にいたころ、道は自分の暮らしにつながっていた。
家へ帰る道。
畑へ向かう道。
知った顔に出会い、立ち止まって挨拶を交わす道。
けれど、今、旭が進んでいる道は違う。
その先には、まだ会ったことのない夫がいる。
徳川家康。
兄、豊臣秀吉が、関白という地位にまで上り詰めたのち、自分を嫁がせると決めた相手だった。
旭は、膝の上に置いた手を見つめた。
この手で、いったい何をするのだろう。
夫となる人の暮らしを支えるのか。
兄の望みを伝えるのか。
徳川と豊臣のあいだに置かれた、目に見えない橋になるのか。
あるいは、ただ、そこにいるだけでよいのか。
誰も、はっきりとは教えてくれなかった。
教えられたのは、身なりを整えること、道中で無用な騒ぎを起こさぬこと、そして、先方に失礼のないようにすること。
女が嫁ぐときに必要なことは、確かにそれらなのだろう。
けれど旭は、もう一つ知りたかった。
自分を迎える男が、どのような人なのか。
兄は、家康について多くを語らなかった。
語らなかったことそのものが、旭には気になっていた。
*
「姫様。少し休まれますか」
輿のそばを歩いていた女房が、声をかけた。
「皆も疲れているでしょう。どこか、休めるところがあれば」
「はい。先方に知らせて、支度を整えさせます」
女房はそう答え、供の者に指示を伝えた。
やがて一行は、道の脇でひと息つくことになった。
旭が輿から降りると、五月の風が頬を撫でた。尾張を出たときより、空が広く感じられる。知らない土地の草木は、見慣れたものと似ているようで、どこか違っていた。
水を飲み、腰を下ろしていると、少し離れたところで、供の男たちが話しているのが聞こえた。
「徳川殿は、ずいぶん用心深いお方だそうだな」
「何を今さら。三河の国をまとめるまでに、どれほどの苦労をなさったと思う」
「それはそうだが、あまりに腹の内を見せぬというではないか」
「腹の内を見せて、国が守れるものか」
ひとりが笑った。
「なるほど。では、何を考えているのか、誰にもわからぬというわけか」
「そうとも限らぬ。家臣の話はよく聞くそうだ。人の言葉を途中で遮らず、最後まで聞く。それでいて、すぐには返事をなさらぬ」
「それは、決められぬからではないのか」
「いや。決めていても、決めたとは言わぬのだそうだ」
また、笑い声が起こった。
旭は、手にしていた湯呑みをそっと置いた。
決めていても、決めたとは言わない。
それは、どういうことなのだろう。
兄なら、決めたことを人に知らせるのが早い。時には、知らせるより先に物事を動かしてしまう。人を驚かせ、戸惑わせ、気がつけば周囲を自分の望む場所へ連れていく。
兄は、動かす人だった。
では、家康は。
人が動くのを待つ人なのだろうか。
それとも、誰かが動くのを見て、その先を決める人なのだろうか。
「姫様?」
女房に呼ばれ、旭は顔を上げた。
「何か、お気がかりでも」
「いいえ。ただ、徳川殿は、どのようなお方なのかと思って」
女房は少し考えてから答えた。
「わたくしも、直接お目にかかったことはございません。ただ……」
「ただ?」
「お噂では、たいそう辛抱強いお方だとか」
旭は、わずかに笑った。
「辛抱強いのは、よいことではありませんか」
「はい。けれど、辛抱強いお方というのは、何を考えておられるのか、なかなかわからぬものだとも聞きます」
その言葉に、旭は笑みを消した。
兄の命で嫁ぐことになった自分にとって、夫が何を考えているのかわからないというのは、決して小さな問題ではなかった。
自分の立場を、家康はどう受け止めているのだろう。
兄から贈られた妹。
豊臣と徳川を結びつけるための縁。
あるいは、長く続く対立を終わらせるために差し出された、ひとつの条件。
どれも、間違いではないのかもしれない。
けれど、どれも、旭自身のことを語ってはいなかった。
*
昼を過ぎたころ、一行は宿を取る場所へ向かって再び歩き出した。
道中、供の者たちは、徳川家康にまつわる話をいくつも口にした。
ある者は、家康が家臣の意見をよく聞くことを語った。
またある者は、家康が質素な食事を好み、贅沢を嫌うと聞いたことがあると言った。
「戦国の大名ともなれば、珍しいものを食べ、立派な道具を集めるのが好きだと思っておりましたが」
若い侍が言った。
「人それぞれだ。徳川殿は、食べ物ひとつにも気を配られるそうだ」
年長の男が答えた。
「気を配る、と申しますと?」
「何を食べれば身体に障るか。どの薬草が、どのようなときに役立つか。そういうことにも詳しいらしい」
「薬草に?」
「医師任せにせず、ご自身でも薬のことを学ばれるとか。書物を読み、薬を調え、養生にも心を配られるそうだ」
若い侍は、感心したように目を丸くした。
「戦のことだけではないのですな」
「身体が動かなければ、戦もできぬ。長く生きてこそ、できることもあるというものだろう」
旭は、黙ってその話を聞いていた。
薬草。
養生。
身体を長く保つための知恵。
戦国の世を生きる者にとって、病は敵と同じほど恐ろしいものだった。どれほど勇ましい武将でも、熱に倒れ、傷が膿み、身体が衰えれば、思うようには動けない。
家康が薬の知識を持ち、自らの身体を整えることを大切にしているという話は、旭には意外だった。
ただ、意外であると同時に、妙に納得もできた。
この男は、戦に勝つことだけを考えているのではないのかもしれない。
勝ったあとに何が残るか。
明日も動ける身体があるか。
今日の決断が、十年先にどのような結果を生むか。
そうしたことまで、考えているのだろうか。
兄は、勢いよく道を切り開く。
家康は、その道がどこへ続くかを、先に見ようとする。
旭は、まだ会ってもいない男について、そんな想像をしていた。
「薬に詳しいというのは、頼もしいことですね」
旭がそう言うと、女房はうなずいた。
「はい。けれど、何事にも用心深いお方なのかもしれません」
「用心深い……」
旭は、その言葉を口の中で繰り返した。
用心深い人は、人を信じないのだろうか。
それとも、人を信じるために、よく見極めようとするのだろうか。
その違いは、大きい。
だが、外から見ているだけでは、わからない。
*
夕暮れが近づくころ、道は少しずつ起伏を増していった。
供の者たちの足取りにも疲れが見え始めている。馬の世話をする者、荷を確かめる者、先の宿場について相談する者。皆がそれぞれの務めを果たしていた。
旭は、道の向こうを見つめた。
浜松は、まだ遠い。
その先にいる家康は、もっと遠い。
ふと、以前、兄が家康について話したときのことを思い出した。
秀吉は、家康を軽く見てはいなかった。
兄は、相手が自分の思うように動かぬとき、腹を立てることがある。だが家康のこととなると、怒りを表に出すよりも、何かを考えているように見えた。
家康は、簡単には動かない。
兄は、それを知っている。
だからこそ、旭を嫁がせるのだろう。
言葉だけでは動かない相手に、言葉以外のものを差し出す。
血縁。
婚姻。
家と家の結びつき。
兄が選んだのは、そうしたものだった。
しかし、旭は考える。
家康は、それをどう受け止めるのだろう。
豊臣の関白が差し出した縁を、ありがたいと思うのか。
それとも、自分の国と家臣を守るために、受け入れるべき条件と見るのか。
あるいは、その両方なのか。
人の心は、ひとつの理由だけでは動かない。
兄にも、きっとそういうところがある。
天下を望む心と、家族を大切にする心。
人を従わせる力と、身内を守ろうとする情。
それらは、兄の中で、いつもきれいに分かれているわけではない。
家康もまた、ひとつの顔だけで生きている人ではないのだろう。
旭は、そう思った。
*
夜、宿に入ると、旭はようやく静かな時間を得た。
用意された部屋に座り、女房が整えてくれた食事を少しずつ口に運ぶ。疲れはあったが、眠気はなかなか訪れなかった。
浜松へ行けば、自分は家康の妻になる。
その事実は変わらない。
けれど、妻になるとは、どういうことなのだろう。
同じ屋根の下で暮らすことか。
食事を共にすることか。
夫の身の回りを整え、家の者たちと折り合いをつけることか。
どれも、妻の務めには違いない。
しかし、旭が気にしているのは、それだけではなかった。
家康は、自分をひとりの人間として見るだろうか。
それとも、関白の妹として見るだろうか。
自分の言葉を聞くだろうか。
それとも、自分が何を言うかより、誰の妹であるかを気にするだろうか。
もちろん、旭も家康を、ただの夫として見ることはできない。
彼は三河の大名であり、東国に大きな力を持つ武将だ。豊臣の天下を形づくるうえで、無視することのできない人物でもある。
そのことは、旭にもわかっている。
けれど、わかっているからといって、心まで割り切れるわけではない。
夫婦になるというのなら、せめて、相手の顔を見て話したい。
自分が何を考え、何を恐れ、何を大切にしているのか。
そして、相手が何を考えているのか。
それを知ることから始めたい。
旭は、寝具の脇に置かれた灯火を見つめた。
家康は、薬草にも詳しいという。
身体を養い、病を遠ざけ、長く生きるための知恵を学ぶ男。
家系や格式を大切にし、自分の家の由緒を整えることにも心を配る男。
人の話をよく聞き、簡単には本心を明かさず、急がず、待つことを知る男。
噂だけを並べれば、ずいぶんと扱いにくい相手に思える。
けれど旭は、少しだけ興味を覚えていた。
そういう男が、何を大切にして生きているのか。
どんなときに怒り、どんなときに笑うのか。
自分の前では、どのような顔を見せるのか。
兄は、家康を動かすために、旭を嫁がせる。
けれど旭は、家康を動かすためだけに、その家へ入るのではない。
自分もまた、そこで生きていかなければならないのだ。
ならば、知りたい。
自分の夫となる男のことを。
*
翌朝、一行は再び東へ向かった。
道の先に、浜松が近づいている。
旭は輿の中で、静かに息を整えた。
兄の秀吉は、世の中を大きく動かした男だった。
人を見つけ、引き上げ、時には押し切り、時には笑顔で懐へ入れる。昨日まで何者でもなかった者が、今日には大名となる。そうした変化を、兄は自らの力で起こしてきた。
家康は、それとは違うやり方で生きてきたのだろう。
すぐに動かない。
すぐに答えない。
相手の言葉を聞き、その裏にあるものまで見ようとする。
そして、必要なときが来るまで、黙って待つ。
そのような男を、人は狸にたとえるのかもしれない。
何を考えているのかわからぬ。
腹の底を見せぬ。
気がつけば、こちらの方が相手の手の内に入っている。
旭は、心の中で小さく笑った。
なるほど、兄が簡単には扱えぬと考えるのも、無理はない。
だが、狸と呼ばれる男にも、毎日の食事があり、眠る夜があり、病を恐れる身体がある。
薬草を調べる手もあれば、家臣の言葉を聞く耳もある。
天下をめぐる大きな話の陰に、ひとりの人間としての暮らしがある。
旭は、その暮らしを見てみたかった。
輿が、ゆっくりと揺れた。
浜松へ。
まだ見ぬ夫のもとへ。
そこには、兄の命令だけでは割り切れない人生が待っている。
旭は、膝の上で両手を重ねた。
私は、何を差し出すために、ここへ行くのだろう。
そして、何を持ち帰ることができるのだろう。
答えは、まだない。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
浜松に着いたなら、私は、あの男の目を見よう。
関白の妹としてではなく。
誰かの妹、誰かの妻という呼び名だけでもなく。
旭という、一人の女として。
そう決めたとき、道の向こうから、風が吹いてきた。
その風は、尾張から吹いてきたものとは違っていた。
旭は目を閉じ、風の音を聞いた。
浜松は、もう遠くない。
そして、徳川家康という男もまた、少しずつ、旭の心の中で輪郭を持ちはじめていた。




