第九話 天下の行方
第九話 天下の行方
天下は、少しずつ一つになろうとしていた。
その知らせは、遠く駿河に暮らす旭姫のもとにも届いた。
秀吉の軍勢が動いた。大名たちが従った。長く争っていた土地にも、新しい支配の形がつくられていく。
人々は、天下統一という言葉を口にした。
戦が終わる。
世が静まる。
明日を心配せずに田畑を耕し、商いをし、子どもを育てられる日が来る。
それは、誰もが願うことであっただろう。
旭姫もまた、戦のない世を望んでいた。
けれど、天下が一つになることと、人々の心が一つになることは違う。
兄の豊臣秀吉は、人を従わせる力を手に入れた。
だが、徳川家康は、ただ従うだけの男ではなかった。
家康は、表立って秀吉に逆らうことを避けながらも、徳川家の領国を治め、家臣たちをまとめ、先々を見据えていた。
旭姫は、夫のそうした姿を日々の暮らしのなかで見ていた。
家康は、急がない。
何かを決めるときには、人の話を聞く。すぐに答えを出さず、相手が何を望み、何を恐れているのかを見定めようとする。
そして、ときには、何も言わない。
その沈黙が、相手を安心させることもあれば、不安にさせることもあった。
「家康様は、何を考えておいでなのですか」
ある日、旭姫が尋ねると、家康は手元の薬草を選り分けながら答えた。
「人の心は、薬草よりも見分けが難しいものですな」
「薬草なら、葉や根を見れば分かるのでしょう?」
「見ただけでは分からぬものもあります。育った土地が違えば、同じ草でも性質が違う。採る時期によっても、使い方によっても変わります」
家康は、葉の一枚を指先で裏返した。
「人も同じでしょう。今、何を言ったかだけでは、その者のすべては分かりませぬ」
旭姫は、夫の言葉を聞きながら、兄の顔を思い浮かべた。
秀吉は、人の心をつかむのがうまい。
笑い、語り、相手の懐に入り込む。そして、その者が動くべきときには、迷わず動かす。
家康は、人の心を見定めようとする。
同じ天下を前にしても、二人のやり方は違っていた。
旭姫は、その違いを埋めることができるのだろうか。
いや、そもそも、自分が埋めなければならないものなのだろうか。
答えは出なかった。
*
その夜、旭姫は古い記憶を思い出した。
兄が、まだ天下人と呼ばれる以前のことだった。
ねねと顔を合わせたときの記憶である。
ねねは、秀吉の妻だった。
旭姫にとっては、兄の妻であり、家族の一人でもある。
ただし、兄の妹だからといって、いつでも気兼ねなく甘えられる相手だったわけではない。
ねねにはねねの暮らしがあった。
夫を支え、家を守り、周囲の人々に気を配る。秀吉が外で人々を動かすなら、ねねは家の内側で、さまざまな人の思惑と折り合いをつけていた。
旭姫は、その姿を覚えていた。
ねねは、ただ夫の言葉に従うだけの女性ではなかった。
必要なときには、夫にも意見を言う。人の話を聞き、物事を見定め、自分が守るべきものを考える。
それでも、すべてを自分の思いどおりにできるわけではなかった。
あるとき、旭姫は、ねねと二人で話す機会があった。
その会話の細部を、今となっては確かに思い出せない。
ただ、ねねがこちらを見つめていた顔と、そのときの静かな声だけが、記憶の底に残っていた。
――旭。おまえは、いつも兄上のことを気にかけているのですね。
そう言われたような気がした。
旭姫は、あのころ、兄のことを心配していた。
兄が大きな仕事を任されれば、うれしかった。出世すれば、誇らしかった。
けれど、兄が大きな力を持つようになるほど、心配の種も増えていった。
敵ができる。
味方の数が増える。
昨日まで親しかった人が、明日には敵になるかもしれない。
兄が勝つたびに、その勝利の先には、また新しい争いが待っていた。
旭姫は、兄が苦労する姿を見たくなかった。
けれど、兄が望むものをすべて手に入れたとしても、兄の心が安らぐとは限らないことに、いつからか気づき始めていた。
ねねは、そんな旭姫の思いを、どこまで理解していたのだろう。
旭姫には分からない。
ただ、ねねもまた、秀吉の妻として、夫の成功を喜びながら、その成功が連れてくる重さを知っていたのではないかと思う。
夫が出世すれば、家も大きくなる。
家が大きくなれば、守るべき人も増える。
守るべき人が増えれば、誰か一人の願いだけをかなえることは難しくなる。
ねねは、旭姫よりも早く、その現実を知っていたのかもしれない。
回想のなかで、ねねは静かに言った。
――兄上のためにできることと、おまえ自身が望むことは、いつも同じとは限りませんよ。
その言葉を、ねねが本当に口にしたかどうかは分からない。
もしかすると、長い年月を経て、旭姫自身の思いが、ねねの声を借りて語りかけているだけなのかもしれなかった。
それでも、その言葉は、今の旭姫の胸に深く残った。
兄を大切に思うことと、兄の望みをすべて自分の望みとすることは違う。
家族を愛することと、家族のために自分を消してしまうことも違う。
旭姫は、その違いを、もっと早く知っていたかったと思った。
*
翌日、旭姫は家康と庭を歩いた。
庭木の枝には、小さな芽が見え始めていた。
「何か、気がかりなことでもありますかな」
家康が尋ねた。
「昔のことを思い出しておりました」
「尾張のころですか」
「はい。それから、ねね様のことも」
家康は、少しだけ目を細めた。
「北政所殿ですな」
「ねね様も、兄上を支えてこられました。兄上が天下を手に入れるほど、ねね様の背負うものも大きくなったのではないかと思います」
「そうでしょうな」
家康は、すぐに答えた。
「大きな家を持つということは、家の者を守るということです。しかし、家が大きくなればなるほど、家の者一人ひとりの望みを、すべてかなえることは難しくなる」
「それでも、守りたいと思うのでしょうね」
「守りたいと思うからこそ、難しいのでしょう」
家康は、枝先の芽を見上げた。
「人は、守るべきものが増えるほど、何を守るべきかを選ばねばならなくなる」
旭姫は、その言葉を心のなかで繰り返した。
秀吉は、天下を守ろうとしている。
家康は、徳川家を守ろうとしている。
ねねは、豊臣家の内側を守ろうとしている。
母は、子どもたちの無事を願っている。
そして自分は。
自分は、何を守りたいのだろう。
家族か。
夫か。
兄の望む天下か。
それとも、自分自身の心か。
どれか一つだけを選べばよいというものではなかった。
家族を思う心も、夫を大切にする気持ちも、自分自身の人生を生きたいという願いも、旭姫のなかに同時にあった。
そのすべてが、いつも同じ方向を向いているわけではない。
だからこそ、人は迷うのだろう。
「家康様は、何を守りたいのでございますか」
旭姫が尋ねると、家康はしばらく黙った。
「まずは、徳川の家臣たちと、その家族でしょうな」
その答えは、思ったよりも具体的だった。
「それから、この土地で暮らす者たちが、明日も田畑を耕せること。商いを続けられること。戦のたびに家を捨てて逃げずともよいこと」
「天下を取ることではなく?」
「天下を取ることが、目的になってしまっては困ります」
家康は、静かに言った。
「天下は、人が生きるためにあるのでしょう。人が天下のためだけに生きるのではない」
旭姫は、夫の顔を見た。
その言葉が、家康のすべてを表しているとは思わない。家康にも野心はあるだろう。徳川家を守るために、時には厳しい判断をすることもあるはずだ。
それでも、その言葉には、旭姫が聞いておきたかった何かがあった。
天下という大きな言葉の陰で、見えなくなってしまう人々。
その一人ひとりの暮らしを、忘れてはならないという思い。
兄の天下と、家康の天下。
二人が目指すものは、同じように見えて、少しずつ違うのかもしれなかった。
*
そのころ、旭姫は、自分の身体が以前とは違ってきたことにも気づいていた。
長い道のりを歩けば疲れやすくなった。
朝の冷え込みが身にしみる日も増えた。
若いころには、気にも留めなかった小さな変化が、暮らしのなかに現れる。
家康は、そんな旭姫の様子にも気を配った。
食事のこと、休む時間のこと、冷えないようにすること。
自分が薬草を扱うときと同じように、家康は、身体の変化を急いで決めつけようとはしなかった。
「無理をなさらぬように」
家康は、そう言った。
「無理をしているつもりはございません」
「本人がそう思っていても、身体は別のことを申す場合があります」
「薬草と同じでございますか」
「さて、どうでしょうな」
家康は、少しだけ笑った。
「人の身体も、心も、本人の思いどおりにはならぬことがあるという点では、似ているのかもしれませぬ」
旭姫は、思わず笑みをこぼした。
この人は、何でも分かっているようでいて、分からぬことは分からぬままにしておく。
兄ならば、何とかしようと動き出すだろう。
家康は、まず様子を見る。
その違いが、今は少しだけ心地よかった。
けれど、身体の変化は、旭姫に残された時間についても考えさせた。
この先、どれほどの時を家康と過ごせるのだろう。
兄の天下は、どこへ向かうのだろう。
母に、もう一度会うことはできるのだろうか。
ねねと、再び言葉を交わす日はあるのだろうか。
答えは、どこにもなかった。
それでも、明日が来るかぎり、旭姫は明日を生きるしかない。
遠くの天下を案じるだけではなく、今日の食事を味わい、庭の芽を眺め、家康の言葉に耳を傾ける。
それもまた、一人の人間が生きるということなのだろう。
*
夕暮れどき、旭姫は再び、ねねのことを思った。
もし、今、ねねと向き合うことができたなら、何を話すだろう。
兄のことを尋ねるだろうか。
母のことを聞くだろうか。
それとも、互いの暮らしについて、何でもない話をするだろうか。
旭姫には、分からなかった。
ただ、ねねもまた、秀吉の妻という立場だけで生きているわけではないのだと思いたかった。
夫を支える女性である前に、ねね自身の思いがある。
天下人の妹である前に、旭姫自身の思いがある。
人は、誰かの妻であり、誰かの娘であり、誰かの妹である。
そのつながりは、大切なものだ。
けれど、それだけで、その人のすべてを語ることはできない。
旭姫は、ようやくそのことを、少しずつ理解し始めていた。
兄の出世を喜んだ自分も、本当だった。
母に会いたいと願う自分も、本当だった。
家康の妻として、この家で生きていこうとする自分も、本当だった。
そして、時には何も考えず、ただ一人の女として、静かに暮らしたいと思う自分もいた。
どれか一つが本物で、ほかは偽りなのではない。
そのすべてが、自分なのだ。
夜の帳が下り始めた。
旭姫は、庭の向こうに広がる空を見上げた。
天下の行方は、まだ分からない。
秀吉がどこまで進むのか、家康が何を選ぶのか、世の中がどのように変わるのか。
誰にも、すべてを見通すことはできない。
けれど、旭姫は、ひとつだけ決めていた。
誰かのために生きることと、自分の人生を失うことを、同じにしてはならない。
母の娘として。
秀吉の妹として。
家康の妻として。
そして、旭姫という一人の人間として。
自分にできることを、考え続けよう。
それが、天下を動かす力にはならないかもしれない。
歴史に名を残すほどのことでもないかもしれない。
それでも、自分の人生を生きることまで、誰かに明け渡す必要はない。
旭姫は、静かに息をついた。
明日もまた、朝が来る。
天下の行方がどうあろうとも、自分はその朝を迎えるのだ。




