第十話 旭が、遺したもの
第十話 旭が、遺したもの
春が来ていた。
庭の木々には若葉が芽吹き、風が吹くたびに、柔らかな緑が揺れた。
旭姫は、縁側に座り、その様子を眺めていた。
駿河で暮らすようになってから、季節の移ろいを以前よりもよく見るようになった気がする。
尾張にいたころも、季節は巡っていたはずだ。
兄が出世し、家族の暮らしが変わり、やがて自分が家康のもとへ嫁ぐことになっても、春は春として訪れた。
人の世は、目まぐるしく変わる。
けれど、木々は時が来れば芽を出し、花は咲き、葉は色を変える。
その当たり前の営みが、今は不思議なほどありがたかった。
「何をご覧になっておいでですか」
家康の声がした。
「木を見ておりました」
「木ですか」
「はい。昨年も、ここにあった木でございますね」
「それは、そうでしょうな」
家康は、少し不思議そうに庭を見た。
「けれど、昨年と同じ木でも、同じではございません。枝も伸びますし、葉も変わります」
旭姫が言うと、家康は頷いた。
「人も同じかもしれませぬな」
「家康様も?」
「私も、多少は変わっているのでしょう」
「ご自分では、お分かりにならないのですか」
「自分のことは、案外、分からぬものです」
家康はそう言って、庭の木を見つめた。
旭姫は笑った。
この人は、何かを知っているようでいて、簡単には答えを出さない。
それが、最初のころにはもどかしく思えた。
今も、すべてが分かったわけではない。
家康の胸の内を、隅から隅まで知ることなど、これから先もできないのかもしれない。
けれど、分からないことがあるからといって、そばにいることまで難しいわけではなかった。
人を理解することと、人と暮らすことは、同じではない。
旭姫は、ようやくそのことを知り始めていた。
*
兄からの文は、折に触れて届いた。
天下の情勢を伝えるものもあれば、家族のことを知らせるものもあった。
秀吉は、相変わらず忙しい。
人を集め、諸大名と交渉し、戦を終わらせ、新しい秩序をつくろうとしている。
兄の歩みは、止まることを知らないようだった。
旭姫は、その知らせを読むたび、幼いころの藤吉郎を思い出した。
何かを思いつけば、すぐに動き出す。
誰かに止められても、別の道を探す。
うまくいかなければ、また考える。
兄は、昔からそういう人だった。
ただ、今の兄には、昔よりもはるかに多くの人が関わっている。
兄の決断によって、救われる人もいるだろう。
その一方で、兄の決断によって、思いどおりに生きられなくなる人もいるはずだった。
旭姫は、兄のすべてを肯定することも、否定することもできなかった。
兄は兄である。
自分を妹として大切に思ってくれた人であり、天下を手にしようと歩み続ける人でもある。
その二つは、旭姫のなかで、別々のものではなかった。
兄が天下人になったからといって、幼いころの兄が消えてしまったわけではない。
けれど、幼いころの兄を知っているからといって、今の兄のすべてが分かるわけでもない。
旭姫は、届いた文を丁寧に畳んだ。
兄に伝えたいことは、いくつもあった。
母のこと。
ねねのこと。
家康のこと。
そして、自分自身のこと。
けれど、どれほど言葉を尽くしても、すべてを伝えきることはできないだろう。
それでも、言葉を交わすことを諦める必要はなかった。
旭姫は筆を取り、兄への返事を書き始めた。
*
ある日、旭姫は、ふとねねのことを思い出した。
あの人は、今、どんな暮らしをしているのだろう。
秀吉の妻として、豊臣家を支え続けているのだろうか。
家族が増え、家臣が増え、関わる人々が増えるほど、ねねの背負うものも大きくなっているに違いない。
旭姫には、そのすべてを知ることはできなかった。
ただ、ねねもまた、自分の人生を生きているのだと思った。
夫を支えることと、夫の考えだけで生きることは違う。
家を守ることと、自分の心をなくすことも違う。
ねねが、どこまでその思いを言葉にしていたのかは分からない。
けれど、旭姫は、かつて交わした言葉の断片を思い出すたび、あの人もまた、簡単には答えの出ない問いを抱えていたのではないかと思う。
人は、誰かの妻になる。
誰かの娘になり、誰かの妹になり、誰かの母になる。
そのつながりは、人を支えてくれる。
同時に、そのつながりが、人の行く道を狭めてしまうこともある。
どちらか一方だけではないのだ。
旭姫は、庭の若葉を見た。
自分もまた、いくつものつながりのなかで生きてきた。
尾張の娘。
秀吉の妹。
そして、徳川家康の妻。
そのどれもが、自分の人生の一部である。
けれど、それらの呼び名だけで、自分という人間のすべてが決まるわけではない。
自分が何を思ったのか。
何を悲しみ、何を喜んだのか。
何を受け入れ、何を受け入れきれなかったのか。
そうしたことは、誰かが代わりに決めるものではなかった。
*
家康は、その日も薬草を調べていた。
小さな器のそばに、乾かした葉や根が並んでいる。
旭姫は、しばらくその様子を眺めていた。
「家康様は、薬草がお好きなのですね」
「役に立つものを知っておくのは、悪いことではありませぬ」
「天下のことを考えるよりも、お好きですか」
家康は顔を上げた。
「さて、どちらでしょうな」
「また、そのようなお答えを」
旭姫が笑うと、家康もわずかに口元を緩めた。
「天下のことも、薬草のことも、どちらも見誤らぬようにしたいものです」
「人のことも、でございますね」
「人のことが、いちばん難しい」
家康は、手にしていた葉をそっと置いた。
「薬草なら、書物を読み、教えを受け、試してみることもできます。人は、そう簡単にはいきませぬ」
「では、私のことも、まだ分からないのでしょうか」
旭姫が尋ねると、家康は少し考えた。
「分かったと思ったときこそ、気をつけねばならぬのでしょう」
その答えに、旭姫は声を立てて笑った。
「家康様らしいお言葉でございますね」
「そうですかな」
「はい。狸親父と呼ばれるわけが、少し分かった気がいたします」
家康は、困ったような顔をした。
「その呼び名は、あまりありがたくありませぬな」
「けれど、よく似合っております」
「これは手厳しい」
二人のあいだに、穏やかな笑いが流れた。
旭姫は、ふと思った。
この人と暮らすようになってから、自分は何度、分からないことに出会っただろう。
家康の考え。
徳川家の事情。
兄の天下。
自分の将来。
そのどれもが、思い描いたとおりになるとは限らない。
けれど、分からないことを抱えたままでも、人は暮らしていける。
すべてを知り尽くしてから誰かを大切にするのではない。
分からない部分があることを認めながら、それでも相手を見ようとする。
それもまた、人とともに生きるということなのだろう。
*
夕暮れが近づいていた。
旭姫は、庭をゆっくりと歩いた。
枝先の葉が、風に揺れている。
その向こうには、遠い山並みが見えた。
尾張にいたころ、自分は、これほど遠くへ来ることになるとは思っていなかった。
兄が天下を動かす人になるとも、家康の妻として駿河で暮らすとも、考えたことはなかった。
人の人生は、思いもよらないところへ連れていかれる。
自分の願いだけでは、決められないこともある。
それでも、その場所で何を思い、どのように生きるかまで、すべてが他人の手に委ねられているわけではない。
旭姫は、立ち止まった。
自分は、何を残すのだろう。
兄の天下に、何かを残せるだろうか。
家康の家に、何かを伝えられるだろうか。
母やねねが、自分のことを思い出す日があるだろうか。
その答えは、分からなかった。
歴史に名を残す人は、ほんの一握りだ。
大きな戦を指揮した者。
国を治めた者。
新しい時代をつくった者。
そうした人々の名は、書物に記される。
けれど、その時代を生きた人々のすべてが、書物に残るわけではない。
名を残さなかった者にも、暮らしがあった。
誰かを思い、誰かに腹を立て、明日の食事を考え、季節の移ろいに気づく日々があった。
その一つひとつが、なかったことになるわけではない。
旭姫は、庭の若葉に目を向けた。
自分が生きたことも、いつかは遠い昔の話になるのだろう。
兄の妹として。
家康の妻として。
駿河御前として。
その名で語られることはあるかもしれない。
けれど、旭姫自身は、ただ一つの名だけで生きてきたのではなかった。
兄を心配した。
母に会いたいと願った。
ねねの言葉を思い返した。
家康の沈黙に戸惑い、ときには笑った。
自分の思いを、すべて誰かに理解してもらえたわけではない。
それでも、確かに自分の人生だった。
旭姫は、静かに息をついた。
「御前様」
女中が、少し離れたところから声をかけた。
「そろそろ、お戻りになりませんと」
「そうですね」
旭姫は、もう一度、庭を振り返った。
春の風が吹いた。
若葉が揺れた。
その葉の一枚一枚に、名はない。
けれど、名がないからといって、そこに命がないわけではない。
旭姫は、ゆっくりと歩き出した。
明日も、朝は来る。
兄は、天下を歩み続けるだろう。
家康は、徳川の家を守ろうとするだろう。
ねねは、豊臣家のなかで、自分の務めを果たしていくのだろう。
母もまた、母としての日々を重ねているに違いない。
そして自分も、この場所で、自分の暮らしを続けていく。
何かを残そうと力まなくてもよいのかもしれない。
誰かの心に残る言葉がある。
何気ない仕草がある。
ともに過ごした時間がある。
それらは、形のあるものではない。
けれど、人から人へ、静かに伝わっていくことがある。
旭姫は、庭を後にした。
その背中を、春の光がそっと照らしていた。
天下の行方は、まだ誰にも分からない。
ただ、一人の女が、ここに生きていた。
それだけは、確かなことだった。




